江口先生より 

ご感想が届きました!

私たちが自分なりにまとめて発した対話中の言葉は、自分も考えつつ紡いだもの。うまくまとまっていなかったり、なぜそのように考えたのか整理が十分でなかったりします。

 

先生のご感想を読んでいると、だんだん整理されて見えてくるものがあります。

 

う~ん、勉強になるなぁドキドキ

 

★=★=★5月15日 哲学カフェ 報告★=★=★

テーマは、「自由ってなんだろう?」
今回のテーマは、参加者のお子さま(小学1年生)とのご家庭での会話から出た疑
問。
親子で地球の引力の話をしているときに、「なぜ引力があるのに人は自由に動けて
、無重力だと上手に動けないの?」と純粋に訊かれ、その着眼点のおもしろさから
、自由というテーマで大人もまじえて複数で話し合ったら、どんな化学反応が起こ
るだろうか、と興味を惹かれて、ご提案くださいました。
いろんな方向に展開できる話題ですね。自由とは何か。どんなときに人は自由を感
じるのか。自由の条件とは何か。
かく言う私は、はたして今、自由なのか。
対話は、一人の参加者の、「高校時代は、不自由だった」というエピソードから始
まりました。大家族で暮らす中で、自分に期待される役割を意識するあまり、「自
分が見えなくなっていた」そうです。
 匣(はこ)に入れられている感じ――
 むしろ、自分で自分を匣に入れてしまっている?
不自由ってなんだろう?
「匣入り」。
「押し付けられている感じ」。
ある参加者が、「自分の息子は不自由を感じているのではないか」と心配を言葉に
しました。
例えば、学校に行かずに、一日中、家で好きなことをして暮らせる子は、自由でし
ょうか? それとも、不自由でしょうか?
逆に、毎日、学校へ行かなければならない子は、不自由でしょうか?
家で好きなことをして過ごせる子は、一見、自由に思えます。でも、社会的なつな
がりがない? 本当は、学校へ行って、友達とつながりたいと思っている?
不自由というのは、「(強制的に)しなければならないことがある」状態ではなく
て、「しなければならない」のに、何らかの理由で「できない」状態のことなのか
もしれません。
例えば、自分の意志で、学校に行かない選択をしている子どもは、自由かもしれま
せん。けれども、本当は学校に行きたいのに、何らかの理由で行けない子どもは
? もしかすると、家で遊んでいるあいだも、ずっと心のどこかで不自由を感じて
いるかもしれません。
これが、「生きづらさ」に関係してくるのかも?

ここから、「心(精神)」の自由と「身体」の自由を区別して考えるという視点が
出ました。
身体が自由でも、心が自由じゃないときがある。
逆に、心が自由でも、身体が拘束されているときもある?
ここで、「全てが自由だったら、どうだろう?」という問いかけが出されました。
法律も、ルールも、責務も、何もない状態。
「嬉しい」という意見と、「不安だ」という意見に分かれました。
「不安」と答えた人は、「宝くじに当たってしまったときのよう」と説明しました
。「どうしたらいいか分からない」。
別の人は、「永遠の命を授かったら、逆に不安になるかも」と述べてくれました。
全てが自由になった瞬間、人はその自由をどう使ったらいいか分からず、不安にな
る。
適度に、制限されていたほうが、生きやすい?
また、全てが自由だと、自分の自由を侵食される恐怖もあるようです。
ここで、自由とは「抑圧に対する押し返し」なのではないか、という意見が出まし
た。
自由とは、抑圧への抵抗。
それが、自己肯定や自信につながる。
例えば、スポーツにルールがなかったら? めちゃくちゃになりますよね。野球が
野球として成り立つのは、野球のルールがあるからです。
自由は「無法」とは違います。決められたルールや、課せられた目標の中で、最大
限に自由にプレイをする。
ある参加者が、「人類の唯一のルールは、無限がないということ」と述べました。
この有限性の中で自由を獲得する。
最初から無限であれば、人は自由を感じない。制限があるからこその自由。
とすれば、自由であるためには、まずは自分を抑圧するものがなければならない、
と言えるかもしれません。
抑圧は、いろんな形で表れます。社会は、抑圧だらけです。しかし、その抑圧を「
えいやーっ!」と押し返したときに、人は自由を手に入れるのかもしれません。
最初から「なんでもあり」の無法地帯では、人は本当の自由を実感できないかもし
れません。
自由でありたいからこそ、逆に、しがらみを必要とする。
「しがらみ」とは、まさに「社会的なつながり」です。社会的なつながりは、とき

に抑圧や制限ともなります。例えば、めんどうくさい「ご近所付き合い」とか
・・・。
さて、以上のように考えてくると、自由であるためには、社会的なつながりを必要
とし、社会的なつながりがない人は、その見かけに反して、不自由なのかもしれな
いという考えが浮かんできます。なぜなら、自由とは、抑圧への抵抗、閉じ込めか
らの脱出として成立するからです。
とすれば、孤独な人、引きこもって外に出られない人、いじめのせいで登校拒否に
なった人、社会で働くことに意義を見出せない人(ニート)は、一見、「社会的関
係」を全て断ち切って、自由気ままに生きているように見えますが、そんなことは
なさそうです。そのことに気づいて、関心の眼差しを向ければ、もう少し、社会は
優しくなれるかもしれません。
「抑圧と抵抗のバランスが大事かもしれない」という意見も出ました。
抑圧が強すぎると、不自由を感じるし(いくら抵抗しても自由になれない)、他方
で、抑圧が弱いと、ただの無法になる。
もう一つ。
選択肢があることの重要性も指摘されました。
抑圧や制限が、ただ一つの行動しか許してくれないとすれば、それは、とても窮屈
な世界です。
抑圧の中にあっても、その抑圧を脱する選択肢が複数用意されていることが大事か
もしれません。
他に、「枠組みの設計が大事」という意見も出ました。
枠組みが悪いと、自由を封じ込め、人間を押さえつける檻となる。逆に、程よい枠
組みを上手に作ることができれば、それに対する抵抗(または、そこからの脱出)
としての努力や頑張りが生じ、自由や解放感を得られる。
宗教や、各種の社会的ルール、学校など、それぞれ「枠組み」の作り方を考えなけ
ればなりませんね。
抑圧と押し返しのバランス、選択肢の重要性、枠組みの設計の大事さ――
ここから、「自由というより、自由度が大事なのかな」と、ある参加者が述べてく
れました。
なるほど。自由「度」が大事!
おもしろかったのは、「不自由と美」の関係についての意見です。
例えば、ファッション。
ファッションとは、ある意味、不自由な行為です。
女子高生が、冬場に、寒いのを我慢して穿いているミニスカート。

どう考えても歩きにくいハイヒール。
中世の貴婦人のコルセット(苦しくて、ご飯を食べられない)。
時間をかけて顔を作るお化粧(いったん顔を作れば、一日が終わるまで顔を洗えな
い)。
こんなにも不自由なのに、それでも人は美を求める。不自由さを我慢して、自分な
りの美を表現する。
逆に、この不自由さの中にこそ、自由な美の表現があるのかも?
さらに、「盆栽と自由」の関係も話題に上りました。
今回、対話にご参加くださった津村先生(社会心理学)は、帝京大学宇都宮キャン
パスでも指折りの若さですが、じつは盆栽に夢中です。その前は、「ぬか漬け」に
夢中でした。
彼によれば、盆栽の植物は、不自由だそうです。しかし、その不自由さの中に、美
を見出すのが、盆栽だそうです。
この技巧性は、「里山」なんかとも似ているのかもしれません。
さて、そうすると、冒頭で紹介した、このテーマの元々のきっかけであったお子さ
んの質問、「なんで引力があるのに人は自由に動けて、無重力だと上手に動けない
の?」という疑問に、こんなふうに答えられると思いませんか?
人が自由に動くことができるのは、「引力」という「抑圧するもの」があるからだ
。必死に引力を押し返そうとして頑張るから、私たちは自由なのだ、と。
無重力空間では、抑圧するものがないので、人はうまくバランスが取れないのかも
しれません。
最初の問いに、ちゃんと戻ってきましたねd(^^)
「自由/不自由」とは何かを、いろんな角度から考えた対話となりました。
現代は、物が溢れ、便利な時代です。
他方で、「便利さ」は、決して「自由」ではないと感じます。
物が溢れているせいで、私たちは、余計に不自由になっていると感じる局面も、少
なくありません。
例えば、スマホ。
もはや現代人は、スマホの奴隷です。
スマホを自由に使いこなしているように見えて、じつはスマホに使われている若者
が、とても多いと感じます。
そんな中、学校では、「ノー・スマホデー」や「スマホ断ち合宿」といった試みを
しているところもあるようです。
今の日本では、古代ギリシャやローマのような奴隷制もなく、人々には自由と権利
が与えられています。しかし、私たちは、本当に「自由」なのか。
ゲームを好きなだけやらせることが自由を与えるということなのか?

学校や仕事に行かず、家で毎日、好きなことをして暮らせることが、自由なのか?
引き続き、考えていきたいと思います。

(最後になりましたが、今回も、会場の後片付けを丁寧に手伝ってくださって、あ
りがとうございました。机や椅子の移動から、ゴミの回収まで、とても助かりまし
た。)
江口 建(帝京大学)