---10/10 親子哲学カフェ 報告~「幸せってなに?」-----
 
【後篇】
 
さて、前篇では、哲学者のふりをして、ただウ〇コ話をしただけなのですが、
じつはあれは、大事な前振りなのでした。
あのアイスブレイクから、今回の哲学カフェのテーマが導き出されました。
 
「カレー味のウ〇コと、ウ〇コ味のカレー、どちらを選ぶか」という質問は、そのつど私たちが何を大事にして生きているのか、という質問でもあります。
究極の選択において、二つの選択肢のうち一つしか選べないとしたら、自分はどこに価値を置くのか。
ここから、
 
自分にとって大事なものって、なんだろう?
何があれば、自分は幸福だと思えるだろうか?
 
という問いが浮かび上がってきます。
というわけで、今回の哲学カフェのテーマは、
 
「幸せってなに?」
 
 
大人と子どもの双方から、いろんな幸せの形が出ました。
「ほしいものがもらえたとき」
「大切な家族や友達がいてくれること」
「希望のある安心した時間」
「一日に一回でも笑顔でいられること」
などなど、さまざまな感じ方が見られました。
 
大人のほうが(考え過ぎるせいか・・・)答えづらいようでした。
子どもは、思ったことを直感的に述べてくれました。
ただし、欲望を言い出すと際限がないので、〈どんな夢が叶えば幸福か〉ではなく、〈最低限、何と何があれば自分は幸福だと思えるか〉、その最低ラインを考えてもらいました。
 
幸せのはじめって、なんだろう・・・?
 
子どもの発言で、印象に残っているのが、
「住める家があって、ごはんが食べられて、家族がいて、普通の生活ができること」
という回答。
あたりまえのことが、ありがたい。
あたりまえを、あたりまえに享受できることが、じつは世界を見渡せば、いかにあたりまえではないことか。
 
発言をすべて紹介したいのですが、今回は大人数で、非常に膨大かつ広範な発話になったため、細部まで再現するのは控えて・・・印象に残ったことを中心に。
みんなの話を聴きながら、私の頭に浮かんでいた論点は、主に2つです。
 
【論点その1】
幸せは、自分でつかみ取るものか、それとも、向こうからやって来るものか。
 
「幸せって、つかめるもの?」という子どもの発言から始まりました。
「向こうからやって来るというか、見えないけど、いつでも目の前にある」という意見が出て、なるほど、と思いました。
目の前にないものは、つかみようがない。
逆に、せっかくやって来ても、つかまなければ、素通りしてしまう。
 
【論点その2】
幸せは、自分ひとりでも成り立つか、それとも、誰か他の人と一緒に作ってゆくものか。
 
どうやら子供たちにとっての幸せとは、自分ひとりで成立するものではなく、誰かと一緒に、例えば家族などの大事な人と一緒にいることによって醸成されるものであるということが分かりました。
子供たちが幸せだと感じるのは、単に物がもらえて嬉しいとか、遊びに連れていってもらって楽しいとかいうこととは違い、もう少し持続的な、安心感が伴っているときのようです。
この意味で、カフェに参加した子どもたちは、すでに「幸福」の意味を、ある程度、自分たちの仕方できちんと了解していたという印象を受けました。
単に「うれしい・楽しい」ということと「幸福感」の微妙な差異を、子どもなりの仕方で感じ取りながら生きているのだということが判りました。
そして、それを一所懸命に言語化しようとしてくれたことが、嬉しかったです。
 
 
対話の終盤は、幸せって何?というテーマから、逆に、どういうときに幸せじゃないと感じる?という話になり、子どもたちから正直な不満が噴出しました。
出たな魑魅魍魎、という感じです・・・
やはり子どもは、普段の生活において、たくさんの不満を抱えて生きているようです(笑)
私が覚えている範囲で、ザッと子どもたちが内心納得できていない事柄は、
 
①なぜ先に宿題をやらないといけないのか(自分はちゃんと順番を考えているつもり)。
②今やっている習い事は、本当にぜんぶしなければならないのか(正直、あんまり興味が持てないものもある)。
③自分の自由時間を、なぜ自分で決めさせてもらえないのか(ゲームや遊びの時間を自分で決めたい)。
 
子どもというものは、親や教師の前では我慢していても、心のどこか(深いところ)にはずっと引っかかったまま、ただそれをあまり頻繁には口にせずに暮らしている。そのことが、哲学カフェを開くたびに明らかになります。
けれども、これはごく当然のことで、それどころか、私見によれば、良いことではないかとすら思います。
なぜなら、大人と子どもは、基本的に、欲望の種類も、時間の使い方も、人間関係の作り方も、ルールも違うので、大人が決めたルールに全く不満を感じないで暮らしているほうが、どこか不気味というか、不自然であるような気がします。
大人の押し付けを、「なぜそうなのか」と疑いもせず、唯々諾々と受け入れるよりは、心のどこかで疑っていながらも、表向きは一応、大人の作法に従ってみせているほうが、ある意味では、社会性の第一歩を踏み出しているとも言えます。つまり、空気が読めるということです(←ホンネとタテマエを使い分けるということ)。
むしろ、聞き分けの良い子ほど、もしかしたら健全ではない何かが家庭の中に潜んでいるのかもしれません。小学生相当の子どもが、大人の事情と理屈を完全に了解するということは、能力や経験の量から考えて相当難しいと思うので、もしも大人の言いぶんをひたすら素直に受け入れているように見える「超良い子」がいるとすれば、どこかに不自然なねじれがある可能性がある、と私なら警戒するかもしれません。
そのまま大人になると、権威に対して疑わずに何でも受け入れてしまう従順人間になってしまうかも?
 
なにより、それだけ不満が出てくるということは、逆に言うと、それだけ親のことを信頼している証拠だと思うのです。
「あとで家に帰ってから酷く怒られるかな?」とか、「どうせうちの親には言っても無駄だ」と思っている状態では、不満や愚痴すら口にしません。
 
というわけで、大人としては、
「うちの子が、じつは内心、こんなに不満を抱えていた!」とショックを受ける必要は全くなく、むしろ、うちの子は健全に育っていた、と安心すべきだ、と私なら思います。
子どもとは、そういうものだと事実を認識するだけで、まずは十分なのではないかと。
どういう関係性を作ってゆきたいかは、そのあとにやって来るものだと思います。
むしろ、日頃抱えている不満を、カフェという場で思いっきり口にできるということは、子どもが伸び伸びと発言するような育て方をしているということであり、まさにそういう家庭環境、親子関係を作ってきたということであり、そのことに自信を持ってよいのではないでしょうか。
少なくとも、哲学カフェという場で、自分のホンネを、きちんと言葉にして大人に伝えたことは、存分に褒めてあげたいです(だって、そのための場だから)。
 
というわけで、今回、私が再認識したこと。
       ↓↓↓
1. どんなに理想的な教育やしつけを施しているように見える家庭でも、子どもは不満や愚痴を抱えているものであり、それでよい。
2. 聞き分けのよい子どもを製造すること自体は、別に理想的な教育ではない。少なくとも哲学的に考えて、子どもが素直に大人の言うことに従うことは、全く「褒めポイント」ではない。
3. 子どもの「理性」の開発は、大人の言いぶんを「疑う」ことから始まる。
(大人になったら、いろんなことを、どんどん疑わなくなるので・・・)
 
ただし、聞き分けの悪い子を育てるのが、よい教育だ、と言う意味ではありません・・・。
だから教育は難しい。
 
さて、ここまで「大人」と「子ども」という言い方を、まるであたりまえのものとして使ってきましたが、「大人」って何なのでしょうか?
まさにこれが、今回もまた、子どもの口から再び飛び出た疑問でした。
「ねえ、大人の基準は!? 大人って誰のこと?」
この子どもの真摯な問いかけに答えないまま、「大人の言うことを聞きなさい!」なんて説得力がないので、大人を自認する人々は、そろそろ「大人とは何か」を真面目に考えなければなりませんね。
逃げても逃げても、子どもは追いかけてくる・・・。
 
そして、
子どもから「次回に考えたい問い」として、
 
「自分がやりたいことをする時間を、自分で決めてはダメなのか?
 
という問いが候補として挙がりました。
ううむ・・・
親としては、「いいよ!」とは即答しがたいでしょう・・・。
 
また、これはカフェの後ですが、あるお子さんが、「中学生になったらスマホを持つことについて、ぜひ対話をしたい」とルンルンして述べていたと伺いました。
・・・お母さまとしては、危険な予感?
 
それにしても、大人数のわりに、後半、ちゃんと対話する雰囲気になったことに、我ながら少し驚いています。
根気よくルール(人の話を聴く・言葉にして話す)を説明すると、ちゃんとその土俵でやろうと努力するあたり、子どもたちの頭は柔らかい、といつも感じます。
 
次回の哲学カフェも、わくわくしながら待っています。
(この感覚が、幸せ?)
 
 
   江口 建(帝京大学)
 
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