ご多忙の江口先生より、6/11の哲学カフェの報告が届きました!
今、小、中学校、高校から依頼が来ており、本当に多忙になってしまった先生。
「先生のお人柄ですから、人気でちゃうのも仕方ないっす」
(大変だと思いますが、ますますのご活躍を応援してます!)
 
では、先生からの「報告」
いってみましょう!
 
--------6/11 母親哲学カフェ 報告--------
 
あすなろのみなさん
 
こんにちは。
先日、8月21日の親子カフェについて報告をお届けしましたが、
その前(6月11日)に開催した母親哲学カフェも、「哲学カフェって、こんなに楽しかったっけ?」と思えるくらい、とびきり楽しかったので、それについても少し書かせてもらいます。
 
すでに、もこさんが、報告の中でカフェの様子を生き生きと伝えてくださっていますので、まずはそちらをご覧ください。
 
また、帝京大学の「哲学カフェ」専用サイトにも実施報告が載っていますので、あわせてそちらもご覧いただけたら嬉しいです。
(2018年6月11日(月) 「待つ」ということについて)
 
以下では、そこに書いてないことも含めて、補足してみたいと思います。
 
テーマは、「待つ」ということについて。
今回、「待つ」ということをテーマに、私たち自身のあり方を見直すきっかけとなりました。
近年、テクノロジーの発達により、世の中がとても便利になりました。新幹線や飛行機のおかげで、長距離を短時間で移動することができ、スマホのおかげで、いつでもどこからでも時刻表や地図、お店などを検索でき、送信ボタン一つで一瞬にして全世界にメールを送ることができます
一方で、私たちは、なかなか「待つ」ことができなくなっているように思われます。急速に情報化社会が進み、待たなくても済む社会が到来したことにより、少し待たされただけでも、イライラしてしまいます。
電車が5分遅れただけでイライラ、ネットの接続が遅いだけでイライラ、パソコンの起動が遅いだけでイライラ、LINEやメッセージの即レスが来ないと、「早く返信よこせよ!」と相手を責める・・・。
情報通信技術がまだ発達していなかった一昔前は、友達や恋人との待ち合わせのときに、相手が来るまで何時間でも、場合によっては丸一日、待つのも普通でした(まだ高齢者ではない私の世代ですら、この感覚は覚えています・・・)。
 
あの日のカフェも、とても良い形の哲学カフェでした。
ある意味で、「哲学対話」の良い面が、きれいに表れたカフェだったように思います。
こんなにも笑いと涙が違和感なく一緒に同居する対話空間は、私の経験でも、多くはありません。
人数や、場所選びも、ちょうど良かったのかもしれません。
 
どんなふうに対話が進行したのか、大まかに流れを再現してみますね。
 
まず、どういうときに「待つ」ということを実感するか、素直に意見を出し合いました。
まずは、親の側からの感じ方です。
 
■(母)やることが多くて“いっぱいいっぱい”のとき、脳に“すきま”ができるまで待つ。
■(母)子どもが学校に行きたくなるのを待つ。自分としては、最近、あまり言わなくなったと思う。
 →(子)むしろ増えた(即答)・・・認識のズレ
■(母)あらそう?(笑) 母としては、以前ほど切羽詰った感じがない。本人の考えを尊重できるようになった。
■(母)子どもが身の周りのことを自分で出来るようになるまで待つ。
■(母)子どもに話しかけられたとき、「少し待ってね」と言う。
 
それに対して、子どもの側からは、
 
■(子)父・母に「ちょっと待ってて」と言われてからが、すごく長い。別のことをやり始めて、そのままどこかに行っちゃう。
 
あれれ? だいぶ認識にズレがありますねΣ(゜o゜)
 
そこで大人から問いかけが。
 
■(母)どれくらいなら待てる? 何分?
 
それに対して、
 
■(子)5分。
 
一同、唖然としつつ、
 
■(母)待たせているほうの感覚としては、短いんだよね~。
■(母)もうちょっとコミュニケーションを取ってあげればよかったな、と思うときもある。
 
そこで、あるお母さまから、
 
■(母)楽しい「待つ」もあると思う。例えば、大好きな絵本を読んでもらうという約束。これは、子どもにとってはワクワクする嬉しい約束のはず。ちなみに私は、子どもに絵本を読んであげるという約束を、まだ果たせていない。きっと楽しくない「待つ」だったろうな。楽しくない「待つ」は、短いほうがいいように思う。
 
これを聴いて、私は、以前に下野新聞ニュースCafeで開催した親子哲学カフェを思い出していました。あのとき、参加していた子どもから、「大人はすぐに子どもの約束を破るのに、どうして大人は子どもに約束を守らせようとするのか」という素朴な疑問が呈示されました。
「待つ」という問題は、「約束とは何か」という問題とつながってくるようです。
 
■(母)「待つ」ことの良さもあるのかな、と。頭の整理ができる。あえて立ち止まることができる。
 
■(江)「待つ」側と「待たせる」側では、時間の流れ方が違うように思う。どう思う?
■(子)(待たされるほうは)長い。待つのはいいけど、でも、大事なときは、忘れられると困る。
 
話を聴いていて、子どもとしては「待つ」こと自体が嫌なわけではない、と感じました。
子どもが嫌がるのは、「待って」と言われて、そのまま約束を忘れ去られてしまうこと、そして、いつまで待てばよいのか分からないこと、これがとても嫌なようです。
 
日常の中で、大人は、いかに多くのことを子どもに約束し、そして、そのまま忘れていることか。
他方、大人としては、子どもの優先順位が分からないので、まさか子どもがそれほど待ちくたびれているとは思っていません。
 
■(母)子どもにとっての第一優先は、きちんと伝えてもらったほうが、こちらとしてもありがたいかも。
 
母は忙しいので、漠然と要求を伝えられると、他のことに取り紛れて、忘れてしまうことがあります。
そこで、子どもが親に何かをしてほしいときには、「自分は〇〇をとても大事に考えているから、絶対に忘れないでほしい。最優先でやってほしい」と言葉にして伝えてあげると、「あ、そうか」と親も理解するかもしれません。
 
ここで、「待つ」ことと「我慢する」ことの関係に焦点が当てられました。
 
■(母)「待つ」ということには、「我慢」がある。息子は、たぶん、待つことに我慢の感覚がある。性格的にも、爆発しないで我慢してしまうところがある。他の兄弟姉妹に比べて、性格的に損をしているのかも。
■(江)どう? 我慢してる?
■(子)イライラの感じがする。イライラをこらえる感じ。「なんで聴いてくれないの!?」って思う。
■(一同)んー・・・{考えこみ}
■(母)最近の育児書などでは、しばしば「子どもには我慢を覚えさせましょう」という書き方をしているけれど、どうなのか? なんとなく違う気もする。そもそも待つことは、えらいことなのか。待つことは悪いことなのか。
■(母)待つことは大事だが、「えらい」にしてしまうと、なんというか、「対話」ではないような気がする。
 
一方的に待たせて、ちゃんと待てたら一方的に「えらい」と評価する――これはコミュニケーションではありませんね。
大人が子どもに「よく我慢したね、えらいね」と言う場合、その発言が、往々にして自分が待たせたことに対する都合のよい言い訳に聞こえてしまうことが問題であるように思いました。
「待ってて」というのは、ある意味、一方的で暴力的な伝達です。本人には理由があるのですが・・・。
 
■(母)社会で生きるうえで、他者に合わせることも、もちろん必要。しかし、それは、「我慢」ではなく「相手をよく見ること」ではないか。
■(母)きちんと説明すれば、解かってくれる。相手が、思いやってくれる。
 
理由をきちんと伝えることは、待たせる相手への配慮(思いやり)であり、逆に、理由さえ伝われば、待たされるほうも、思いやりをもって待つことができる。
相手を待たせるときには、待たせる理由や、具体的にどれくらい待てばよいのかを説明すればよいかも?
 
■(子)あんまり「待って」と言われ続けると、信頼関係がなくなっちゃう。「どうせやらないんでしょ」って思っちゃう。
 
とても大事なことを、子どもがストレートに述べてくれました。
 
■(母)それほど言ってるつもりはないが・・・言ってるのかも?(笑)
■(子)たくさん言ってるよ! 例えば、電話の長話で、いつも待たされる。
■(母)うーむ・・・まずは母が「待つ力」を付けなければならないということが分かった。思っている以上に無意識のことが多い。そして、忘れてしまう。息子と違って、娘のほうは、しっかり主張してくる。しかし、この子は、ふわっ、と言ってくるから、こちらもあまり真剣に受け取らないまま、これまでやってきてしまったのかも・・・。(子どもを見て)思いやりをもって母を見てくれてるから、むしろきみは損してるんだね! 自分の言いぶんを貫き通して、もっと言ってくれると、母も助かる。
 
すかさず子どもが、
■(子)この話自体を忘れたら、意味ないから!
■(母)覚えておきます(笑)
■(母)うちでは紙に書くようにしている。
■(子)うちのお母さんは、「なんだこれ」とか言って、くしゃくしゃにして捨てるよ。読んですらいない。ゴミと見なされる。
■(母)冷蔵庫に貼るのはどう?
■(子)冷蔵庫はすでにいっぱい貼ってあるから、余計に見ない。
 
うーむ、手ごわい・・・。
子どもとしては、とにかく、ちゃんとメモを見てくれたかどうかを知りたい。そして、見てから捨ててほしい(そりゃそうです・・・笑) 
 
お子さんとお母さんの対話を聴いていて、一つよく解かったのは、子どもは、自分がお願いしたことの処理がどれくらい進んでいるかを、そのつど知りたいということです。
どれくらい処理が進んでいるかが分かれば、ちゃんと話を聴き届けてくれたことが分かる。忘れ去られていないことが分かる。
それが「安心感」につながり、安心感は「信頼感」につながるようです。
 
■(子)お母さんは、策を弄するわりに、自分で続かない。続けてくれるかどうか、みんなでルールを決めて、みんなで見張るのがよい。
 
・・・子どものアイデアは一聴に値します(・_・;)
 
■(母)子どもが、約束を守らないズボラちゃんだと、母のほうも「もう、いっか」と思ってしまうかも。皆さんは、どうか?
 
ここから、子どもと母だけでなく、夫婦の性格の違いや、男と女での思考回路の違いに話が及びました。
理系の夫の場合、作業工程表を作ってあげると、案外、家事を手伝ってくれるというエピソードが紹介されました。みんながみんな、そうではありませんが、事実上、生理学的な構造が違うので、やはり向き不向きはあります。
大事なのは、「なんでできないの!」と責めることではなく、やりやすいように「工夫」してあげることではないでしょうか。
 
■(母)夫が、私のお産中に、完璧にこなしてくれた。アイロンをかけたり、自分でコーヒーメーカーを買ってきて、おいしいコーヒーを淹れてくれたり。
■(子)お母さんは、大雑把!
■(母)嬉しそうに話すね!(笑)
■(子)今は言っていい時間だから!(発言が止まらない・・・)お母さんって、雑じゃん? 忘れっぽくて、ケータイをいじってるあいだ、待ってると、いつのまにかケータイだけ置いてあって、お母さんはどこかへ行ってる。
 
ここで、私の中に、疑問が浮かびました。
■(江)お母さんは、いつでも本当にすっかり忘れているのでしょうか?
■(母)忘れているときもあるが、ケータイに関しては、子どものゲーム時間を懸念している。
 
ここから、おおよそ3つのケースがあるな、と頭の中を整理していました。
①本当に忘れている。
②つい甘く見ている(本気で守る気がない)。
③子どものことを懸念して、あえて約束を守っていないフリをしている。
 
三つ目は、なかなか子どもには伝わらないでしょうね・・・。
  
今回の対話がとても楽しかったのは、子どもと親のあいだで、ことごとく言いぶんが食い違っていたことです。
「そんなふうに思っていたとは・・・この子の本当の気持ちを、いま初めて聴いた」。
そんな言葉が、対話中に漏れました。
じつは、これが、哲学対話では、とてもとても大事なことです。普段は言えないことを勇気を出して伝えてもらうことで、考えるきっかけになるからです。
そのうえで、なお興味深かったのは、子どもの忌憚のない物言いを、お母さまが、とても大らかに、素直に受け止めていたことです。
これも凄いことです。お子さんのことを、心の深いところで信頼しているのだということが伝わってきました
 
これを一言で言うと、「愛」。
 
「あんた、嬉しそうに話すね! 次々に出てくるね」というお母さんの言葉に対して、すかさず「今は何を言ってもいい時間だから!」と主張していた子どもに、満点をあげたいです。
8月21日の親子哲学カフェの報告でも書きましたが、これは、はっきりと哲学対話の一つの成果と見なされます。
「知的安心感」があれば、人はホンネで話し、しかも、言われたほうも、それを受け止めることができる。
このことを、哲学対話は、回を重ねるごとに、実証しています。
 
今回の対話を通じて、参加者たちが改めて気づいた点を、以下にまとめてみます。
 
1. 「待たせる」ほうは短く感じるが、「待たされる」ほうは長く感じているということ。つまり、時間の流れが同じではないこと。
2. 「待つ」には、悪い「待つ」ばかりではなく、良い「待つ」や楽しい「待つ」もあること。そして、楽しくない「待つ」は、できるだけ少ないほうがよいこと。
3. 「待つことの良さ」もあること。待つことで頭の整理ができて、あえて立ち止まって考える時間が持てること。
4. 待たせるときには、きちんとその「理由」を説明すればよいこと。理由が分かれば、待つ側も「待とう」という気持ちになること。それがお互いの「思いやり」であること。
5. 何かを約束したあとは、相手を待たせているあいだ、どれくらい処理が進んだかを示してやることが大切だということ。待たされている側にとっては、それが「安心感」につながるということ。
 
 
少しでも多くの人に、この雰囲気を体験してほしいなぁ、と願いつつ、次回も楽しみにしています。
 
    江口 建(帝京大学)
 
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