(↓↓↓以下、後篇)

 
-----8/21 親子哲学カフェ 報告(後篇)-----

前回は、『桃太郎』の絵本を読んで、疑問に思ったことを挙げてもらい、
鬼退治に行く際に、どんな生物でも3匹だけお供に連れてゆけるとしたら、何を連れてゆく?
という質問に対して、子どもと大人が挙げた答えを紹介しました。
子どもから「ねこ」や「犬(ハスキー)」が挙がりましたが、「どうして、ねこ?」と尋ねたら、「強いけどかわいい動物がいい」とのことでした。
やはり、強いだけでなく、かわいい動物を連れていきたいようです。
また、「犬(ハスキー)」と答えてくれた子は、犬の中でもハスキー犬が好きだそうです。
一緒に旅をする仲間ですから、やはり自分が好きな動物を連れていきたいですよね。

ここから、子どもにとっては、①強ければよいというものではない、②犬であれば何でもよいというわけではない、ということが判ります。
子どもの考え方に表れている特徴として、一つの選択をする際に、一つの理由に絞らない(複数の理由を引っ張り込む)、あるいは、一つの目的(鬼退治)に対して副次的な要素を盛り込む、というのがあります。
もう一つの特徴は、想定するイメージが非常に具体的だということです。
ハスキーとか、ジャガリコ100個とか・・・。
           [※前篇をご覧ください。]

それから、「一つだけ旅に持っていっていいとしたら、何を持っていくか?」という質問に対して、

酒(+ウコン)

という回答がありました。
これは、言うまでもなく、大人です・・・。
どうして酒かというと、鬼と一緒に酒を飲んで、仲良くなって、
「おまえ案外、いい奴じゃないか。好きなだけ宝を持ってけ!また遊びに来いよ!」
という展開もよいのではないか、とのことでした。
「勝ち負け」だけが解決策じゃない。
これを「和睦(わぼく)」と言うのだ、と子どもたちに教えてあげると、「初めて聞いた」と感心している子がいました。

ちなみに、カフェ終了後、後片づけをしていたら、
以前にも参加してくださった滝澤先生が、ふらりと訪れて、
ホワイトボードをしげしげと眺めながら、
「俺なら、アンパンマン、一休さん、ドラえもんを連れていくな」と自信満々におっしゃっていました。
アンパンマンなら、お腹が減ったときに食料になるし、鬼にも分け与えられるし、退屈したら一休さんのとんちで楽しんで、困ったときも一休さんのひらめきで乗り越えて、あとはドラえもんの四次元ポケットに頼れば万事解決だそうです。
子どもと同じ発想・・・(-_-)
ある意味、偉大です。
      [※子どもの発言については、前篇をご覧ください。]

さて、後半です。

後半は、私自身、想定していなかった展開になりました。
「桃太郎」を素材に、いろんな意見が出たけれど、みんなそれぞれ、考え方、感じ方が違う。
そして、他の人の意見に対して、そんなのおかしい、とか、その考えはヘンだ、と言う人は誰もいなかった。
普段は、どうだろう? 学校では、クラスのみんなで意見が異なったとき、お互いに受け入れている? 今日の哲学カフェみたいな雰囲気って、学校にある?
そんなふうに問いかけてみました。
すると、ある子は、「(今日の哲学カフェみたいな雰囲気になることが)ある」と答えてくれました。「ケンカになったことない」そうです。
それに対して、別の子は、「意見が違って、ケンカになることがある」、「むしろ、いっつもケンカになる・・・男子とか」と答えてくれました。

ここから、話題は「どういうときに互いの意見を受け入れ、どういうときにケンカになるのか」、あるいは「どういうときにクラスがバラバラになり、どういうときにまとまるのか」ということに移りました。
舞台は、みんなにとって身近でリアルな場である「学校」です。

人には、いろいろな意見があるからこそ、条件を見て、みんなで決める。
子どもたちの意見を聴いていて、なんとなく見えてきたのは、
どうやら、「結論」を出さなければならないときに、揉めることが多いようです。
それに対して、結論を出さなくてもよいときであれば、考え方が違っていても平気なようです。

もう一つは、先生がいるときと、いないときの違い。これも大きいようです。
先生がいれば、最終的にクラスはまとまる(ように見える)が、先生がいないと、とたんにバラバラになる。
例えば、遊びのルールを守らない人が出てくる、など。

そこから、子どもたちは、自分たちで話をどんどん深いところへ持ってゆきました。
どうもネックになっているのは、「先生」という役回りの人間のようです。
先生というのは、あるときは、クラスを一つにまとめる存在です。
けれども、他方では、多様な意見を封じて、なかば無理やりに団結や協調性を要求する存在でもあります。
ある子どもが言いました。
「よく先生から『大人になれ』って言われる。でも、大人になるって、なに?? ねえ、大人って、なに? 大人の基準は?」。
それに対して、あるお母さんが、「私も、もっと大人にならなきゃ、って思うときがある。私自身が、大人になりきれていないところがあるから(笑)」。
そうなのです。大人でも、もっと大人になりたいのです。
未熟から完熟(?)へと移りたいのです。
「だからさー、大人の基準ってなんなのさ!?」
すかさず子どもが突っ込みました。
むむむ・・・
どこまで行ったら「大人」なのか。

そこで、子どもたちに尋ねてみました。
「じゃあ、自分から見て、『大人』って思える人はいる? どんな人なら、この人は大人だ、って思える?」
ある子が即答。
「おじいちゃんと、おばあちゃん」。
そうなのかΣ(゜o゜)
「お母さんとお父さんは?」
「んー・・・子ども!」
ガ~ン!そうなのか・・・( ̄▽ ̄;)!
ある女の子が、控えめに、
「お父さんとお母さんは、子どもと大人の中間だから、『ことな』・・・」。
そう言って、
ニコリと笑いました。
なるほどー。

「じゃあ、どうして、おじいちゃん、おばあちゃんは大人だと思うの?」
と訊いてみると、
「しっかりしている」
「シャキッとしている」
という答えが、まず返ってきました。
次に、
「ちゃんと理由を説明してくれる人」
という意見が出ました。
つまり、何かを「ダメ」とか、「やっていい」とか言う場合に、どうしてダメなのか、どうしてこれはこうなっているのか、ということを、きちんと理由をつけて説明してくれる人のことでしょう。
そして、学校の先生は・・・どうやら、これができていないようです(←子どもたちの目から見て)。
子どもたちが言うには、「無理な意見」や「現実にはできないこと」を言ってくるそうです。
例えば、問題が解けなかったり、授業が理解できなかったりすると、叱られると言います。
子どもたちの言いぶんは、一貫していました。
「分からないこと自体を叱られると、興味をなくす」。
「説明をしてほしい」。
「説明してくれれば分かる」。

とにかく、説明をしてほしい!!!

見かけで判断されることも多いそうです。
ある子が、「見えたものだけで決めないでほしい」と言いました。
一人一人の力量は違います。
目に見えた言動で判断され、あげく「4年生なんだから」と言われることがあるそうです。
だから4年生って、なによ? 大人って、なによ!?

見えたものだけで決めないでほしい!!!
〇年生ということで、ひとかたまりにしないでほしい!!!

「くだらない」と言われることもあるそうです。おそらく、子どもが熱中していることに対して、「そんなくだらないことして・・・」とか、そんな感じではないでしょうか。
それに対して、ある子がはっきり言いました。
「自分の興味は、くだらないわけではない」。
「むしろ、そんなことを言う先生が、くだらない」。
その発言を聴いて、私は、笑いがこみ上げてきました。
むしょうに愉快な気持ちになりました。
くだらないのは、自分の興味ではない。
むしろ先生がくだらない。
子どもから、こうまではっきりと「くだらない」と言われてしまう大人って、一体どうしたらいいでしょう?
子どもが付け足しました。
「もっと、言い方が、あると思う。言い方を考えてほしい」。
言葉選びの大切さ。
言葉の重み。
言い方ひとつで、人は、受け取り方が違ってきます。
しかも、大人目線で一方的に表現されると、子どもとしては納得がいきません。
例えば、子どもが挙げた例ですが、
「『思春期だから』の一言で済まさないでほしい。思春期だから反発しているわけではない」。
子どもに語りかけるときの言葉選びの重要性を、子どもから教えてもらいました。

ちなみに、以上の発言は、すべて小学生のものです。
 
カフェの最後に、2人の子どもが、元気よく次のように言っていました。
普段言えないことが、ここでは言えるから、哲学カフェは好き!
何でも言っていいのが、哲学カフェのいいところ。今日もたくさん言えた!

「何でも言っていい」という、たったこれだけのことが、普段の生活では、いかにできていないか。
そして、こんなにも子どもが喜ぶことを、なぜ大人は、むしろ恐れるのか。子どもが本音で話すことに対して、なぜ大人は怯えるのか。

じつは、前回(6月11日)の親子カフェのときにも、同じフレーズが子どもから出ました。
対話の途中、子どもから次々に「足りないところ」(?)を指摘された親が、呆れて笑いながら、子どもに「あんた、楽しそうに言うね! 次々に出てくるね」と言うと、すかさず「だって今は何を言ってもいい時間だから!」と子どもが主張していたことが、印象に残っています。
さらに良かったことは、そのような子どもの発言を、お母さまが、清々しいくらいに大らかに受け容れていたことです。
これは、まぎれもなく哲学対話の本領です。普段は口にしづらいことを、勇気を出して口にしてみること、そして、そのような発言を許容する場を設定してやること。これが哲学対話の目的の一つだからです。これをアメリカの「子どものための哲学」(P4C)では、「知的安心感と呼びます。
あるお母さんの証言によれば、そのさらに前の親子カフェのときも、娘さんが、対話のあと「やっと言えた」と笑顔で帰ってきたそうです。
自由に発言できる場をきちんと設定することに成功した哲学カフェでは、こういう声が、しばしば聞かれます。
大人が子どもの話に真摯に耳を傾け、逆に子どものほうも、言いたいことを親に伝えることができる。それによって、互いに言いぶんを知ることができる。
これは、大人と子どもに限りません。クラスメート、兄弟姉妹、夫婦、恋人、同僚、上司と部下・・・さまざまな関係性に当てはまることだと思います。
今からでも、遅くはない。いつからでも、その気になれば、始められるのが、「対話」の良さです。

最後に一つ、印象的だったことを。
それは、熱心にノートを取っている子どもたちがいたこと。
おそらく家庭や学校で習慣づけされているのでしょう。
対話中にはそれほど意識しなかったのですが、対話が終わる頃に気づきました。
なぜ意識しなかったかというと、その子たちは、発言もいっぱいしていたからです。
ノートを取っているからといって、ひたすらホワイトボードを写していたのではなく、たくさん発言をし、顔を上げて耳を傾けていました。
しかも、ノートを覗かせてもらうと、とてもきれいに、丁寧な文字で、わかりやすく書いてあって、きっと、あとで自分で読み返したときに内容をよく思い出せるノートなんだろうな、と思いました。
その場の対話から何かを得よう、家に持ち帰ろう、という気持ちが窺えました。
これはとても大事なことです。
大学教員として白状するのは情けないことですが、昨今の大学生は、ノートを取るのがあまり上手ではありません。もちろん、中にはすばらしいノートを作成する大学生もいますが、一般的な傾向として、ノートを取る意義を理解し、実際にノート・テイキングのスキルがある学生は、多くはないと感じています。
哲学対話では、一般に、「読むこと」や「書くこと」よりも、「話すこと」と「聴くこと」(=対話)に重点を置くので、あまりテーブルは用いないのですが、今回、テーブルを用いたおかげで、見えたことです。
ここから気づかれることは、以下のことです。

環境(設定)を変えてやると、それまで見えなかったその子の特技が見えることがある。

ちなみに6月11日の親子哲学カフェも、びっくりするくらい楽しかったので、それについても、別途、少し書いてみたいと思います。

次回は10月です!
皆さんのご参加を、お待ちしています!

       江口 建(帝京大学)
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