今回は平澤先生と江口先生のご感想です。

 

平澤孝枝 先生(専門は脳科学、行動神経学)
江口建 先生(専門は哲学)
 
☆----------以下、平澤先生より----------
 
いやー、巷の人と真面目に対話するって楽しいですね。
いつもは「奥さんお元気?」ぐらいですが、皆さん色々考えているんだなと思いました。
考えているんだけど、こうやって対話出来る人って結構いないですよね。
 
皆さん教育熱心で、偉いなあと純粋に感動しました。
自分はあんまりママ友というのを作ってなくてですね、
実際には勤めているのであんまり関われないというのが
あるんですけど(実は自由人だから一番都合が付けやすいけど)
今回色々対話して皆さんキチンと向き合っているんだなぁと思いました。
私は知らない人と話したり色々しゃべるのは苦痛でないですが、
中には色々思っていることをうまく伝えられない人もいるので
そういう人の話が聞ける対話は大事ですね。
 
学生が一人参加していましたね。
彼は結構面白いことを言っていて
「廊下は走ってはいけないのに走ってる子を殴ったら怒られた」と話をしていました。
先生の話を忠実にですが、守ったのに怒られたんですね。
彼の中では理不尽を感じたのでしょうが、先生にいろんな意味で怒られたんでしょうね。
決まりというのは集団で生きる中でお互いを知り、円滑に進めるために必要なんだけど、
そこに倫理観やあるいはモラルなどが入ってくるとケースバイケースになるんですね。
そうするとそのケースバイケースを考える事が必要で
個人の価値観やこれは良い、これはダメの判断基準を自分で
決めれないとダメなんですね。倫理感と言った方が良いと思います。
最近の土俵に上がる上がらないの話やセクハラの話と一緒なんですね。
これは多分遺伝子や神経の話では整理できないんですね。
私は自分の講義で多分こういう所ヒトがヒトである理由を学生に
考えてもらいたいのだと今日皆さんのお話しを聞いて思いました。
心はどこにあるか、心があると考えるのはどの種からかという問いに
学生たちは色々言ってました。本能的に動くか動かないか、本能的って何よ、
理性があるか否かって感じで色々考えているんですけど、振らないとダメ
なので私も次回からプーちゃんを持って講義しようかなと思った次第です。

平澤孝枝
 
☆----------以下、江口先生より----------
 
「あすなろ」のみなさん。
先日は、帝京大学宇都宮キャンパスまでお越しくださって、ありがとうございました。
今回もまた、皆さんから、たくさんの「考える」きっかけをもらいました。
 
テーマは、学校の授業に「道徳」を教科として導入することについて。
 
とても楽しかったです。毎度のことですが、見かけ以上に、内心、ニコニコしています。
今回もまた感じたのは、みなさん、真面目に考えている!ということ。
そして、道徳教育を、なんとかしたい!と思っていること。
そのために、学校の先生に、がんばってほしい!と思っていること。
学校だけでなく、地域ぐるみで、できることをしてゆくのがよい!と考えていること。
 
「どういう答えが出てくるか?」ということにも、むろん興味があるのですが、それと同じくらい、「どういうふうに対話が進行するか」、「対話の最中に、参加者の心の中にどのような変化が起こっているか」ということに、いつも興味を惹かれます。
会社の会議でも、一つの議題をめぐって議論をすることはありますが、いつも、哲学対話とはどこか違うと感じます。会議の場合、提案を通すか通さないかというところで、終始、議論が動いており、平行線のまま議論が深まらないことが多いという印象を私は抱いています。決まるときは、「そもそも会議を開く必要あったのか?」と疑問に思うくらい、勝手に決まっていて、唖然とします。
審議という名の下に、いつのまにか相手に対する誹謗中傷と自己防衛になっていることも、しばしばあります。
哲学対話は、相手の理論の不備を突いて、自分の主張の正しさを相手に認めさせることを目的とはしていません。だから、誰のことも責めないし、個人攻撃もしない。ということは、逆に言えば、自分を守る必要もありません。「討論」においては〈負けた〉と言われる状況ですら、「対話」においては、〈新しい気づきを得た〉=〈さらに考えるきっかけを得た〉ということになります。
 
今回の対話の最後に述べた感想と少し重複しますが、対話の開始時点では、「道徳を教科として学校に導入することに賛成か反対か」というふうに、直感的に二つの立場に分かれて対話がスタートしたわけですが、お互いの話をよく聴いてみると、どうやら、いずれの立場の人々も、じつはそれほど大きく違うことは言っていない、ということが徐々に明らかになってきたように思います。
単に着眼点(目のつけどころ)が違っていたり、力点の置き方(どこを強調するか)が異なっていたり、あるいは、「道徳」という言葉から受けるイメージが人によって違っていたり、現状理解に差があったり、学校の教師に対する期待度に強弱があったり。
でも、みんな、目指しているところは、じつは一緒なのではないか。要は、これからの時代を生きる子どもたちに、〈いろんな意見をきちんと聴いて、自分で物事を判断し、それを伝え合える人〉になってほしい、そして、そのような場を少しでも多く提供したい。それが親や地域の人々の願いであるように思います。
それが「道徳の教科化」という話になった途端、「道徳」という言葉のイメージの違いや、現状認識のズレ、教師に対する期待度の有無、過去の自分の経験などから、少しずつ賛成・反対に分かれてゆく。
言葉のやりとりって、面白いな、と思います。
 
もしかすると、私たちの普段のコミュニケーションにおいても、じつは同じようなことが起こっているのかもしれません。「あの人は私と意見が違う」、「あの人の考え方には賛成できない」というふうに、一見、主張や結論が異なっているように見えても、よくよく話し合ってみると、じつは根っこのところで想いが共通していたり、用いている言葉や見ている角度が違っているだけで、本当に大事にしているものは一緒だったり。
 
丁寧に話すこと――これって、とても大事なことだな、と哲学対話をやっていて、いつも思います。
「丁寧」というのは、口調が丁寧であるとか、きれいな言葉遣いをする、ということもありますが、それ以上に、「説明を省略しない」ということかな、と思います。
人に解かってもらう、というのは億劫な作業です。「解かれよ!」と言いたくなるときも、しばしばあります。でも、そこで面倒くさがらずに、できるだけ丁寧に言葉を紡いでみれば、案外、「あ、お互い、理解し合えちゃった」ということがあるのかも。
雑な話し方は、雑な理解しか生まない。
相手に対する〈無理解〉の多くは、〈工程の見えなさ〉にあるような気がしています。
 
この〈工程〉=〈思考のプロセス〉を見えるようにしてやるのが、哲学対話の一つの機能だと私は考えています。
工程を見えるようにするためには、手順を踏んで説明しなければなりません。途中の説明を飛ばすと、「え? なんでそういう結論になった?」と、頭の中に「?」が渦巻きますよね。「?」が増え続けると、次第に不信感に変わり、やがてはお互いに避けるようになる。じつは、根っこの想いは、一緒だったかもしれないのに。
だから、考えのプロセスを省略しないで、丁寧に話す。相手に伝わらなければ、伝わるまで何度でも表現を変える。
 
そして、丁寧に話すためには、「言葉」を正確に使う必要があります。そのつど自分の意図に一番ピッタリ合う単語を選んで、それらの単語と単語を正確につないで、効果的な順序で配列し、最終的に相手に伝わるような文章を構築する。
いくら伝えたいことがあっても、言葉が正確に使えないんじゃ、相手に伝わらない。
針や糸が正確に使えないと、上手にお洋服が縫えないのと同じです。
とすれば――
今の子どもたちにとって必要な教育とは何か。子どもたち自身が、まずはどんな能力を身につけなければならないか。
おのずと見えてくるような気がします。
国語。
「道徳」の授業と並行して、どうやら「国語」をもっと本気でやる必要がありそうです。
 
そういうことが、哲学対話を続けていると、だんだんと見えてくる。
 
哲学対話において、どんな気づきがあるか。
哲学対話という場において、何が生起しているか。
これを明瞭に可視化できれば、哲学対話の効果を、さらに人に伝えやすくなるのではないか、と考えています(そこで、今回、オブザーバーとして、社会心理学がご専門の津村先生にご協力を仰いだ次第)。
 
というわけで、今回の「母親哲学カフェ」で、私が改めて心に刻んだこと。
 
その①
「うわべの対立にとらわれない」。
 
問題の本質に下りてゆけば、根っこの想いは、案外、同じだったりする。
 
その②
「お互いに理解し合うということ、このことは、もともと簡単なことではない」。
 
案外、これを了解しているだけで、他人とコミュニケーションがうまく図れなくても、極度に落ち込んだり、傷ついたりしないかも?(だって、もともと簡単じゃないんだから・・・。)
 
だからこそ、
 
その③
「できるだけ丁寧に話す」。
 
丁寧に対話しながら、自分と他人の考えの〈同じ点〉と〈違う点〉を見極め、互いの〈前提のズレ〉を整理し、〈矛盾点〉を付き合わせ、〈思い込み〉や〈先入見〉がないかどうかを自問し、自分の考えの〈根拠〉をさらに深く探ってゆく。
これを何度も何度も繰り返してゆけば、だんだん公正で客観的な判断力と論理的な思考力が身につくかもしれない、と思わせる何かが、哲学対話にはある。
本当は、文科省の言う「対話的で深い学び」(平成26年・中央教育審議会)とは、そういうことではないのかな、という気がします。
だったら、これは「道徳」ではなく「哲学対話」の出番でしょ(๑•̀ㅂ•́)و✧
なんて思ったり。
 
おまけとして、もう一つ判ったこと。
どうやら学校というところは、一筋縄ではいかない、ということ。いろいろな意味で。
豊郷中央小学校の「放課後子どもクラブ」のスタッフの方々にもお越しいただき、現場の実感に基づいた貴重なご意見を聴くことができました。ありがとうございました。
 
ついでに、もひとつ判明したこと。
私が某スーパーでカップラーメンを買っているところをバッチリ目撃されていたこと。
お母さま方と哲学対話をすると、こういうことにも気づくことができます。
教訓:人は、いつどこで見られているか分からない(いや、別に隠れてないけどさ・・・)。
 
次回は、どんな気づきがあるのだろうか。
楽しみです。
 
これからも、どうぞよろしくお願いいたします~
 
江口 建
 
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