こんにちは、

土井です。

 

今は「女性活躍の時代」と言われていますが、

 

日本の歴史において

額田王ほど謎に包まれながら

波乱万丈の人生を送り、

 

素晴らしい歌を残し多くの人に愛された

魅力的な女性はいないのではないか

と私は思います。

 

 

 

額田王は大海人皇子と別れて

天智天皇の妻(正式ではないが)になりました。

 

自分の子どもの十市皇女は

天智天皇の子である大友皇子と結婚します。

 

ところが、

元の夫の大海人皇子は

皇位を継承した大友皇子(弘文天皇)と闘って滅ぼします。

これが有名な「壬申の乱」です。

 

勝ったほうも負けたほうも共に

額田王にとっては身内です。

 

このような歴史に翻弄された

額田王の心境はいかばかりだったでしょうか?

戦乱の世の無常を強く思ったことでしょう。

 

しかし彼女は決して厭世的な気持ちにはならず

強い意志をもって生き抜きました。

 

私はいつの日か

この地に「万葉ロマン記念館」(仮称)を建てて

額田王をはじめ当時の人々のことを

分かりやすく展示し

 

彼らのことを永久に伝えていく殿堂にしたい

と思っています。

 

と同時に、

たくさんの人がこの地を訪れて

額田王のことを詳しく知れば

多くの女性に大いなる感動と刺激を与えるのではないか

と思っています。

 

ところで、

額田王と天智天皇の関係について考える上で

額田王がどんな女性だったかを

深く考察することが大事ではないかと思います。

 

大阪市立大学の名誉教授だった直木幸次郎さんは

額田王について、次のように書いています。

 

「後宮の中、下級女官を統率するとともに、

祭祀、宴会にも出席し、春秋判別の歌に見るように

宮廷の男性歌人とも自由に交流した」

 

「后妃や嬪に列せられていないが、額田姫王とも呼ばれ、

天智の後宮では皇后の姫王に次ぐ第二の地位」

 

さらに、直木さんは

「額田王は男に愛されることを待つ受け身の女ではなく、

進んで男を選び取る積極性を持つ女であると考える」

 

「おそらく近江遷都と天智即位を機として、

天智に仕えることを決意し、後宮の一員となってからは

大海人との関係を清算しなければならない。

いつまでも自分のことを思ってくれるのはありがたいが、

いまでも大海人に未練たらしくつけまわされては困るのである、

そうした大海人の思い切りの悪さをからかい気味に

やんわりととがめたのが”君が袖振る”の歌である。」

と言っています。

 

 

 

これまでの通説では、

額田王は弱い女で、中大兄皇子が大海人皇子から

権力で額田王を奪い取ったとされてきましたが、

直木さんは

「自分というものをはっきり持った誇り高い女性である」

と言っています。

 

確かに額田王はそうした一面を

持っていたであろうと思われます。

 

天智天皇の正式の妻という立場に拘泥せず

宮廷で堂々と生きていたであろう姿を思い浮かべると、

現代人から見てもとても魅力的な女性だった

のではないかと思われます。

 

そういう額田王について思いめぐらすとともに

女性としての生き方について考えることは

今の時代においても意味のあることだと思うのです。

 

東近江市が「万葉ロマンの町」として

訪れた人々にそんなことを考える機会を

提供できれば素晴らしいのではないかと思うのです。

 

「壬申の乱」は

額田王の元の夫と

娘の夫・大友皇子(弘文天皇)との戦いでした。

 

この二人は孝徳天皇と斉明天皇の

息子であり兄弟だったのですが、

 

この戦いの裏に

天智天皇と大海人皇子との

額田王をめぐる確執があったのではないか

という説もありますが、

 

まさに「歴史の裏に女あり」

という言葉が思い出されます。