千両箱なんて持って逃げられない… 「路銀」の重さに泣く参勤交代 | 金沢・新おもてなし考

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金沢の街で日本文化を外国の人にちゃんと理解してもらうため、話し合いましょう!


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第17回国際ポットラックサロン「新おもてなし考」

 2006年12月6日 ―参勤交代 パートⅡ-

 隣藩は外国と考えれば あの大荷物と大人数もナットク?


講師  忠田敏男さん 

加賀藩史研究家 あまりの面白さに10月の続編として、再度ご登場いただきました。




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「梅鉢の 大提灯や 霞から」と小林一茶の句にもあるように、なぜ2000人以上もの大人数が必要だったのか、その実態は・・

笑うしかない(?)食料は、現地調達が原則でしたが、殿様が召し上がる食材は持参。
漬物はとうぜん樽、重石ごと運ばれました。

浴びる湯水も持参とは・・・と笑い声もあがりましたが、隣藩は外国だったと考えれば納得がいくのでは?との意見が出ました。
衣服は、殿様以外は道中ほとんど着たきり雀。江戸入りに備えた替え装束は当然として存外お荷物になったのが雨具

でした。

行列図屏風にも竹馬と呼ばれた合羽掛が描かれています。そのまた衣類を担ぐ人がいたのですね。

すべての決済は現金で。金本位の関東と銀本位の関西のために用意された金貨、銀貨の重さは、しめて何キロ?
これを担ぐ人たちもいたわけです。

どの宿場も本陣が全てではありません。
魚津では152軒に2270人が分宿、1軒あたり15人に6畳の座敷が1つ、との記録があります。
兵站、輜重といった言葉が思い起こされました。

歩く日本軍の伝統も、世界に誇る正確な交通ダイヤも参勤交代がすべての起点?
大行列は愚直なまでの先例主義が原因のようです。


いま私達がこれらを知ることが出来るのは、人の肩に担がれて江戸と金沢を行き来した留帳と呼ばれる資料があるからにほかなりません。         



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◆詳細は以下のとおりです


なぜ4000人もの大所帯になったか

忠田
小林一茶が晩年に柏原へ帰ってから詠んだ句に「梅鉢の 大提灯や 霞から」というのがあります。
高田から南下をしますと関川を越えて急坂を100mほど行きますと野尻につきます。


その次が柏原です。ここは往くか復るか、どちらか毎年大名行列が通っております。
梅鉢は前田家の家紋でございますわね。柏原は黒姫山のふもとになります。

私が5月に行ったところ、まだコタツに入っていましたね。

「ずぶぬれの 大名を見る 炬燵かな」(一茶)で、地面を這うように霧がたちこめていました。
その霞をひくように延々と大名行列が通ったということです。

「あと供は かすみひきけり 加賀守」という句もあります。
 5代綱紀は贅沢な藩主でした。荷物持ちを入れて4000人になっております。

―えーっ!?

と、申しますのは、参勤交代は藩主の大移動ですから、追随して大量の荷物が北國街道を行き来しました。
「大名行列屏風」には500人弱おりますが。

―えーっ!じゃぁ、この他に3500人ですか?どうして?

本陣に、長持(ながもち)が置いてあります。車ほどの長持に「留め帳を入れる」と書いてありました。
何のための留め帳かと申しますと・・・

―道中記録ですか?

先例を書いてあるんです。前例主義です。
愚直そのもの。

前回はどうだった、その前は?

―あーっ!留め帳は1回1冊ですか?

いやいや、いろんな人の留め帳が入っていますから。

―行くたびに図書館の資料がふえるわけね。
それをみな持って歩くわけ?

例えば病気で倒れるでしょ?
前回はどの程度の役職の者が代わりを勤めたか、一回一回調べんならん。

―(爆笑)

そのための人数が要って4000人に膨れ上がる。
道中2週間の非常食糧は道明寺(どうみょうじ)です。
お湯を入れるとサーッと膨れる、今のインスタントラーメンや。



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雨のあとの荷物かつぎは大変や。(同感の声しきり)
雨具と替え衣服本陣に泊まったときの替え衣服、そうそう洗濯もしませんから。
それから向こうへ着いてからの衣服も荷物になったね。

漬物を漬けたまま重石を樽ごと持っていっとる。(爆笑)
鍋、釜から入浴のときの腰掛け、湯道具(笑)

―愚直行列やね

ものの本によれば、風呂の湯水を持って行った、とある。(爆笑)

―湯の華を持っていけばいいのに・・・

―砂漠の旅行じゃあるまいし、水がいっぱいの山の中なのに(会場騒然)

湯の華はね、持って行っとる。ムトウハップもね。記録には箱根の湯の華を献上していますね。
加賀の温泉の湯を持って行ったように感じますけど、記録にはないがや。

古文書が出てきたら宣伝になるね。

将軍への引き出物に鷹を持って行っとるね。
ほかの藩は犬を献上しとるね。狆なんかね。

ほかに陣幕もね。砂漠の移動がありますね、テントまで持って行っとる。あれとおなじ。

―旅行でなく引越しやね。

―モンゴル人の引越し。その意識の名残じゃない?DNAのなせるわざ?

パレード要員屏風の500人の人たちは何も荷物を持っとらんわね。

―パレード要員?

―その500人ぶんの荷物を持つ人たちがいるということ?

そう、そう。

―隣の藩が外国だったら、我が身の周りを固めないと安心できない。
そういう保身の感覚ではないかな。現在は外国に拡がっただけで。隣の県も外国も同じだという・・・



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別に寄せ馬1000匹を集めとる。寄せ馬千匹ということは人も千人いるということです。
東海道はどの宿場も100人100匹と統一されています。

中山道は50人50匹。
木曽11宿の新川から馬籠は25匹加賀藩だけ馬数がちがうのは藩内では安く調達できたということや。

―農耕馬ですか?

そうや。だけど江戸まで通しで行く馬もいたがや。

―寄せ馬、人夫賃、ちゃんと払っている?

もちろんや。

―なんだか笑うしかない・・・

12代斉広(なりなが)が初めてのお国入りの時は祝を兼ねていたから人足だけで400人いたがや。
初めてというのは行く時は部屋住みですよ。

このときは加賀八家の一つ、長家(ちょうけ)甲斐守だけで400人。陪臣ですが。

で、全部で3500人。
これだけの人数が金沢入りをすると「百万石まつり」の日みたいなもんで、盆と正月がいっぺんに来たような大変なお祝い事や。

―ふ~ん



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村々から香具師やら皿回しやらがいっぱい集ってくる。
東の芸者衆もおったやろうし。

6代吉徳(よしのり)の時も3500人に膨れあがっとる。
ま、2000人から2500人が普通やね。それでも、4000人はぎりぎりの人数なんですよ。



病人が出ても、母が危篤という飛脚が来ても帰国できない。
職場放棄させて「じゃぁ頼むぞ」というわけにはいかなかったんや。

―じゃぁ、どうしたの?

道中奉行に伺いをたてる。(笑) 
昔は忌引きというのは厳しかったがや。
だれ某のお母さんが亡くなったけど仕事をさせていいか、と。

―官僚主義の典型やね。

―で、また先の書類が要る?(笑)

―当時、金沢の人口はどれくらい?

明治初年は9万人やね。城下だけやぞ。
武士だけでなく町民もいれて。

―とすると4000人はものすごい割合ですね。

だから、潜伏期間のある病気が困るがや。
弓押しの吉田忠左衛門が天然痘になって東岩瀬で発病しとる。
糸魚川から高田、新井と来て死んだのが関川や。

―薬は?


持って行っとるよ。牛糞や。(え~っ、あら~っ、笑、いや笑ったらイカン)
ジェンナーの乳しぼりから来とるがや。(あ~っそうでした、そうでした)


重症のときは濁り酒にまぜて飲ませる。はしかにも効く、腹下し、熱さましに良し、と書いてある。
はしかにはどうかな。とにかく最後まで部署についている。

たとえ駕籠に乗っていてもいいけれど勤める。
ほら日露戦争のときの最後までラッパを放しませんでした、というあれ式で。

―東岩瀬からは長いですね。

じっと寝ていれば死なずにすんだかもしれない・・さきほどの絵図には手ぶらの者がたくさんおりますよ。
だけどこれはデモンストレーションですから、皆が荷物を持っておったら絵にならんがです。(ほ~、ガヤガヤ)

小頭は小頭(こがしら)として威儀を正して行かんことにはね。(納得)
まず人数の中には駕籠かきが要るわね。

殿様の駕籠は塗り物で重いですから、14人で担ぐ(エ~ッ、14人・・・・)前後で14人。(凄いねぇ)
で、駕籠かきはね昔はコップに水を入れて担ぐ訓練をした。(ヘ~ッ)
こぼさんようにね。(バスドライバーと同じね)そうそう。

10代重教(しげみち)公は足が悪かったんですよ。
駕籠に揺られて酔うてしまわれて「今日はここで一泊や」というて熊谷かどこかで泊まっています。

昔は道が悪かったからシーボルトが書いとるもん。尻タコができた、と。(え~っ)
腰が抜けてしもうとる。弥次さん喜多さんと同じで

―じゃあ横になったり、寝そべったりはできなかったの?

いやあ、出来なかった。 (たいへんねぇ)

―馬に乗ったりは?


ああ、馬には乗っとる。将軍に献上する馬もいますし、世子(将軍のこども)への献上馬もいます。
それから道中に自分が乗り回す、乗り心地を試すだけの馬も。それだけで24匹連れて行っとる。

―乗り心地がいいか悪いか?相性がいい、悪い?

うそう。馬だけで24匹。馬廻り人が24人。

―学校で参勤交代って習ったのは名前だけかも。

日本史をこれだけ習っても記憶に残りますねえ。

お金お金の持ち運びがものすごく大変やった。紙幣ではないからね。
金貨、銀貨ですから。12泊するのに2億数千万円いるでしょう。それを全部持ち歩いている。

天保5年のときは1,725両、うち600両は小判や。あとは1分金で4,500枚を持って行ってる。
昔は4進法ですから1,125切れ(1,125両)になります。金貨ですよ。銀貨は15貫。
なんで金貨と銀貨を持って行っとるか分かる?

―関東と関西で違うとか?

そうそう。関東は金やし、新潟へ入ると銀貨や。(へえっ?はぁ~っ)
昔の日本の国は金貨と銀貨に分かれとったんや。

関東は仙台、阿武隈川までが金貨で、こっちは神奈川あたりまでやね。

銀貨が多く使われているということは、余計に(沢山の金沢弁)採れたんでしょうな。
四国、九州、西国はみな銀貨や。


西鶴の小説では大坂中心の暮らしですから「銀何貫の所帯」というとるわね。
その他に小払い金を持って行っとる。宿場に1両持って行っても、お釣りがない(笑)


1両は4000文やさかい、2,000人分の小払い金を持って行かんならん。
余ったカネは皆もって帰らんならんさかいな。

要するに国境のない外国をざーっと旅行するようなものですよ。

小判1枚が3.5匁や。900両で3.2貫や。1貫は3.75Kgやから900両で12キロ、4,500枚で3.9貫、ざっと15Kg。
銀貨はいっぺん、いっぺん計とったんや。

―天秤ばかりで?

そうそう。

銀の目方15貫で約60Kgや。

パチンと折ったり切ったり、地金やね。

なまこ銀はひとつの単位やった。


全部で102kgを持つときは100人が必要やったんや。

持ち運びについては、天保5年には300両余計に持たしたんです。
不作で物価高に対応しとるわけや。この時はあごを出しとる。


古川柳にあります。「500両 ひじ肩 がにに 歩かせる」。
桶川までは行列に遅れずについてきたけど、とうとう熊谷宿でアゴを出してしもうた。

500両持ったら足がガニ股になるということやね。

―どうやって持つんですか?


江戸時代にお金が荷物になったことの証明はね、「道中ごまの蝿」知っとる?
わらじの擦り切れ具合で旅人の懐中の具合がわかったんや。
「ごまのはい」は右の懐中に幾ら、左の懐中に幾らと上手に見つけたというよ。(ホ~ッ)



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信州の関川と松崎はやせ地やさかいに牟礼から高田までは

―じゃぁ乗用車みたいなものは最初から。荷馬車のようなものは駅ごとに?


そうそう。宿場、宿場でね。それと街道には医者がいないから連れて行かなきゃならん。
先ほど出た馬の獣医さんも要るし、鍼灸師も(あ~はいはい)


医者だけでも5人やそこらはいたしね。病気になっているんですよ、道中でね。

それからね、本陣の御座の間の点検のために大工の棟梁7~8人も連れて行かんならん。
何でかというと下から槍で突かれんように。-ほ~そんなことまで

カネマツという人が見落としがあったため譴責を受けてね、帰ってから謹慎や。
鉄板を御座の間の畳の下に敷くがやけど。

―どうして見落としがあったって分かったの?


あとから役人が点検に行っとるがや。(ワーッ)(笑)

―日航機もこれくらいやればいいのにね



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滑川の本陣は、お寺さんやけど床下が何回か屈折させてあるがや。長い槍を持って歩けんように。(なるほど)

迷路のようになっとる(ホーッ)。

で、殿様はどこから逃げていくかというと、いざ緩急のときは近所のどこそこへ、と逃げ道まで考えてあるがや。


旗指物なんかがほころびた時の細工人、修繕人とか調理人。
殿様の材料は持ち込みやさかいに料理人が要るでしょ?
他にもおぐし、髪結いやね。祐筆(えっ?)(書記係)(あぁ、はいはい)
ろうそく座の職人なんかも(照明係りね)

―お毒見は?


ああ、それは高級なおさむらいさんがやっとるでしょうな。

―ああ~、こんなに驚いたことはないわ。びっくりした。ワッハッハ(などなど口々に)

―私達はさっきから勝手に蒙古の騎馬民族の血がどうとか、解釈していますけど、学術的に参勤交代じたいは、どう評価されているんでしょうか?藩財政を散財させるためと習いましたけど・・・

まあね、マイナスもプラスもあるわね。情報を収集したり地域経済とかね。



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―そうすると行列が過ぎるまで土下座しなくちゃいけなかったの?

土下座は500人の間だけや。顔ぐらいあげてもそううるさくはなかった。(じゃぁ遮断機を待っているようなもの)

―雨の中、5キロ先まで走って見に行くのかしら


2階から見下ろしてはいけないけど庶民は家の中からなんぼでも眺めとる。
町の主な人たちは土下座しとるけどね。こういう絵がありますから。

「金紋さき箱 鳥毛の・・・」という唄がありますけど、こういう錦絵があります。
加賀藩の北國街道であてはめると、どこに相当するかというと愛本。
海側が泊ですよ、山手が愛本です。



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先供(さきども)が日本海の波に洗われとる時、後供(あとども)は、まだ山道を登っておるとこや。
愛本の橋はなぜ作ったかというとね、黒部川の水が網の目のように48カ堰となって流れているんです。

綱紀公が19歳で始めてのお国入りをしたときに重臣たちは「黒部川は加賀藩の防波堤や」
「ここに橋を架けたら新潟からすぐに敵に攻め込まれてしまうから、そんな危険なことはできません」反対した。


すると綱紀は「民の心をつなぐことこそ政治の要諦、国の安全のために必要や」というて架けさせたのが愛本橋や。
この橋から日本海の泊までがこの絵にオーバーラップするのではないかと私は思っております。

古川柳に「ひと駅を ひとりの大名で おっぷさぎ」とあります。
柏原は150~160のちいさい宿場です。北国街道は200軒あればいいほうです。


中山道は熊谷、本庄とかは350軒です。そのうち旅籠は何軒あると思いますか?
20軒あればいいほうです。その旅籠がまた狭いんです。座敷がないんですね。

6畳ほどの座敷があればいいほうや。主な人たちだけが座敷で寝る。
幕末の13代なりやすの時、魚津152軒に2,270人が分宿しています。


ほかにも馬やらなにやらで大変なもんや。1軒あたり15人が泊まっとる。
このとき奥村内膳が供家老やったけど、奥村家は1軒の〈あいものや〉乾物屋に142人が宿泊しとるね。
綱紀のときには前田土佐守が190何人泊まっとる。

―(笑)山小屋ね

そうそう、シーズン中の山小屋と思えばいいね。


宿場は大火が多いんですよ。ザーッと隣の家がくっついていますから、いっぺん火が付くと延焼していくんです。

13代斉泰の時、タイミング悪く前日に糸魚川が火事で8割ほど燃えている。

それで急遽、能生に変更しとる。ところが布団がない。
自分の布団もあるかないかというときに2,000人や4,000人の布団があるはずがないわね。
ごろ寝をしとったということの証明になるんじゃないかなぁ、と思います。


鈴木牧之の「秋山紀行」を読みますとね、「山からイラクサを採ってきてアンペラのようなものを作り、その上に夫婦が大きなカマスの中に2人で入って寝ている」という記述があります。

―えっ?カマス?(米を入れる袋よ)

―あれは川へ投げられるときに入れられる袋や(笑)

―ムシロ?簀巻き?etc

―アンペラってなんですか?(竹で編んだ・・・etc)


わたしらの世代は知っとるね、うん。村々によってね、漸く布団を持っとる家が1軒か2軒やというがや。(ホー)

「寒中の寒き時分は きれ 布子 その上に編み布(ぎぬ)山より刈りきたるイラという草にて織る」とあるわね。
「小手前の者は古風を守る。それでも風邪を引くことはない」「極寒のときでも病みはない」


―丈夫なわけねぇ

「帯も解いたり解かぬだりして炉端を枕にして、また炉端に横たわり、帯解いたる者は着物をそのまま掛け、炉には大きな割り木を夜の明けるまで燃やす」

―ハ~ッ

・・・と「四方の炉辺に寝た者は目が覚めると火をザクザクと」「夫婦はとりわけ大きなカマスにひとつ」

―着の身 着のまま


・・・テンペルの「伊勢参宮旅行日記」には旅籠の亭主から、「寝具は期待できないであろう」と述べたあとで、「我々の心地のよい柔らかな長枕の代わりに 日本人の着ている着物は同時に掛け布団に利用するしかない」
「朝になれば直ぐこれを着て帯をしている」そして「支度に長い時間を費やすことがない」 

―なるほど

―中国でも同じことが言える。

掛け布団の下にかいまきを着て、あれは暖かい5月に行ったときはまだコタツしとったね。

雪の話やけど、12代斉広のお母さん貞琳院が病気やという飛脚が来たんですよ、金沢城から。
早く帰りたい、だけど信州は雪があって、とても、とてもとお供の者は引き受けしなかった。

岸忠兵衛という300石ほどの侍が「私が引き受けましょう、行きましょう」と出かけたら案の定、関川やら松崎あたりは大雪で馬の足が立たんがや。

そうしたら忠兵衛どうしたか。ありったけの村人を駆り出して雪を踏ました。
さっき言うたカマスを敷いて、通したあとをつぎ送り、つぎ送りしてエスカレータみたいにこうして(笑)
ようやく乗り越えた。


ほしたら(そうしたら)斉広、大喜びして金沢へ帰って「今回帰れたのは岸忠兵衛の働きである、100石加増や」というて忠兵衛100石あたった(貰った)がや。
平時で100石の加増いうたら大変や。調べたら翌年から忠兵衛、道中奉行のいい役に就いとる。

―ああ、やっぱりで、途端にどうしたかというと2階建ての家を建てたがや(え~っ)


ほしたら(そうしたら)今度はねたまれて(あ~あ)、パーンと謹慎くって100石とられた(ありゃぁ、調子に乗って?)うん。
調子に乗るないうことや。

―大槻伝蔵みたい



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京都だってね、いまは飲食街でものすごく賑わっとる通りが、なんて汚い通りや、というんで「くそナントカ通り」という名前やったのをハイカラな名前にせいというて変えたがやわ。

―ベルサイユ宮殿だってねぇ。(しばらく厠談義がつづきました)

―トイレの話が最後ですか?

12代斉広のときや。信州上田の町外れ、姉沢というところで俄かにストップがかかった。
お側つきの人が「何でございましょうか?」すると「用便休止や」と。


ズボンと違って野バカマを履いとったらね、さっと出来るもんでないがや。(笑)紐をぜんぶ解かんならん。
ほいて(そうして)また結ばんならん。それで「小便1町、くそ8町」という言葉があるがや。(えっ?)(アッハッハ)

小さい方やと100m、大きいほうをしとると900mほど行列が先へ行ってしまうということや。(爆笑)

(地名、楠葉の由来はクソバカマからというお話も伺いましたが省略します)


「上田の町端にて俄かにご休憩を仰せられ 鈴木某 小頭ならびに三上佐内まかり越し 姉沢村にて詮議いたし候ところ 家数もこれなく 見苦しく候えども 丸屋遠エ門という者に申しつけ ご閑所をヨシズ囲いにいたし 土をとり枯れ草を敷き申し候」

昔の街道筋には殿様の使えるトイレがないがですわ。で、筵を掛けてしたがですわ。

―にわかトイレですね

で、どうしたかというと丸屋遠エ門の自宅に空き地があったがや。
そこで殿様専用に電話ボックスのような工事現場のようなね、横には杉の葉を貼り付けて見えんようにして、そして携帯用のトイレを持ってきて、何を敷いたかというと下に砂を敷いて、上には枯れ草やら杉の葉を敷いた、ね。(ホ~ッ)

会津若松のトイレには藁を敷いてあったり

―モミガラが一番?

そう、モミガラやね・・・あ、一番いいのは鳥の羽根

―そりゃぁねぇ、がやがや

桂離宮のトイレは行ってきた?大のほうには檜の葉が敷いてあって、小のほうには杉の葉が敷いてあるがや
(いろいろな考察がでました)


用足し中にボディガードがついた理由


12代斉広が簡易トイレを使ったその40年前、熊本の細川越中守宗孝が庭園築城のお礼に江戸城に登城した折、大広間の雪隠で用足し中に板倉修理という旗本に切りつけられて、それがもとで亡くなっている 

そういう事件が江戸城の中でもあったがや。だからその空き地は畑の真ん中やったけど緊張したんや。

それで、貸した丸屋遠エ門はどうなったかというと斉広はよっぽど嬉しかったもんで、上田の海野宿へ来いと。
白銀2枚あたったがや。加賀藩には先祖の功績を書いた本があります。


ナニナニの功績で白銀を1枚貰った、という記録があります。
それをみると白銀2枚というのは余程の功績がないと当たらんもんや。

―それはお金なんですか?

進物用、おつかい用の銀貨や。

―えっ?おつかい用?


あのね、金貨やったら(だったら)大判になるがや。
銀貨のときは白銀になる、43匁や。


―あっ白銅か。白銀と白銅は同じですか?

ご進物用の純度の高いもんや。通用するがでないがやぞ(しないの意味)


―儀礼的なもの?


そやそや、儀礼的なもんや。空き地を利用させて貰うたという感謝の気持ち。
ギネスブックに載るような、わしは世界一たかいトイレやと思う。(笑)

―畑の持ち主に、ということね


◆忠田さんがこの研究に入られたきっかけは?


当時、図書館を定年退職された70歳台の方がおいでて、「私がもう10年若ければ加賀藩の交通史をやるんだがなあ」とおっしゃった。


もし交通史をやるなら普通の社史を参考にしたらどうかなともおっしゃった。

色んな分野に専門家、歴史家がたくさんおられる。だけど陸上交通史だけは手付かずやった。
やはり他人のせんことをすりゃどうかな、という感じでいろいろやった。


◆加賀藩農政史家Tさん夫人より 


忠田さんの偉さは、古文書というのは悪筆や誤字が多く解読がむずかしい。
古文書を理解してのち資料を集められた。
それは外国語をマスターして文法はおかしい、スペルはおかしいというものも入れて日本語に訳して資料を作るという作業。
しかも、ご自分の足で、というからTが絶賛する。


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農政史家も絶賛された忠田さんから、サロンに集まる面々はしあわせにも2度にわたってお話を伺うことができました。


なお、4月には「参勤交代パートⅢ」を予定しておりますので、ぜひご参加ください。         
4月4日(水)に開催の予定です。