稀代の「金沢文化」プロデューサー”細野燕台” | 金沢・新おもてなし考

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第16回国際ポットラックサロン「新おもてなし考」 2006年11月2日

―少年時代の記憶の中の細野燕台-

北大路魯山人を世に出した稀代の名プロデューサーは

<いつもほんのり赤い顔をした面白いおじさん>だった

話し手:高村 武 さん     和紙研究家・金沢文芸館アシスタントスタッフ 



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祖父は日本画、父は蒔絵と明治、大正、昭和を伝統工芸の世界に生きた父祖の薫陶を受けて育った高村さんは、燕台の謦咳に接した、今や数すくない人物です。
少年の日に見た燕台にまつわるエピソードを話していただきました。



北大路魯山人を世に出した人物として知られる細野燕台は、金沢が生んだ稀代の名プロデューサー。
文人、画人のみならず実業界の頂点に立つ人たちをも惹きつけてやまなかった燕台の魅力の一端をうかがい知る事ができました。
漢籍をよくし、篆書の魅力を知り尽くした燕台の筆蹟を金沢市内でも目にすることが出来ることも知りました。
北室南苑著「雅遊人」の書名に、幼い日の思い出が蘇ってきた高村さんが即座にとった行動は、それらの筆蹟の再確認でした。
印房の看板であったり、燕台自身の手になる墓碑銘であったり、魯山人がかつて身を寄せた先々であったり。


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地元の優秀なアーティストの集団、金城画壇の有力なパトロンであった燕台が、メンバーのひとり、高村さんのお祖父さん・高村(たかむら)右(ゆう)暁(きょう)の家を訪ねる時、いつも顔をあからめていたのは言うまでもなく、こよなく愛した酒のせいでした。
エピソードの一端は、北室南苑著「雅遊人」に詳細が記述されています。一読をおすすめします。

※ 金沢市立玉川図書館に参考図書として蔵。持ち出し可能です。  

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高村です。2度目のトークとなります。
11月1日というのは歴史的には、あのいまわしいアウシュビッツのガス室最後の日だそうです。
そんな日にこういう場をいただきまして有難うございます。
細野燕台さんのエピソードということで思いつくままにお話ししたいと思います。

私が細野燕台さんという人物に興味を持ったのは、この石川国際交流サロンにたびたびお越しになっておられる北室南苑さんの著作<「雅遊人」細野燕台-北大路魯山人を世に出した文人の生涯>が私に細野燕台を思い出させるきっかけだったんですね。それまでは北室さんとは面識もございませんし、たまたまこの本が出版されたことを地元紙で知ったんです。
どこで手に入るかをお訊ねしまして早速買い求めまして、燕台についてのお話を聞きにあがりました。

当時は父もおりまして、ちらっ、ちらっと聞いておったのが、直接この本を通じて私のおぼろげな記憶がよみがえってきたことも多々ございます。



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祖父と父も燕台さんとは非常につながりが深かったのです。どちらも「えんだい、えんだい」と呼び捨てにしておりました。
当時わたしは小学校の4、5年頃。しょっちゅう家へ出入りされていまして、しかも1日の何時ごろでしょうか、いつもお顔がすこーし赤いんですね、ほんのり赤いんですわ。ひざなか(昼ひなか)から、お酒を召し上がっておったんですね。
そして本当にいい気持ちでお帰りになるんですね。そういうことが子供ながらに・・いやぁ、このおっさん、というか小父さんは面白いおじさんだなと思っておったんです。

それがふっと・・私の記憶の中ではお見えになることがなくなったんです。
それは、向こう、鎌倉へかわられたんですね。そこで、鎌倉へ電話をしました。
何軒かある細野さんというお宅へかけましたら、2回目にズバリかかりまして「金沢の高村さ~ん?」

「金沢のことやらおじいさんのこともよく聞いとるし」と懐かしがられました。
今も年に一、二度は金沢へ来ておられるそうです。



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細野家の墓は宝円寺なんですね。宝円寺は、今は小さくなりましたが前田家の菩提寺でもあって、かつては大変大きな由緒ある寺です。
金沢城を向いていたそうですが火事で燃えたもんで現在の方角になっています。
いまも俵屋宗達の由緒ある石もございますし、私が撮影したものもありますのが、現地へ行って見ていただけたらと思います。
燕台さんの一生というのは、生粋のなんといいますか数寄人・・・




北大路魯山人とのつきあい、伊東深水画伯との関わりですとか「あぁ、さすが燕台さん」というところが随所にございます。

金沢市内のいろんなところで、燕台さんの書画とか業績を見ることができます。
「雅遊人」の中にあります車庫前 (現兼六園下) の広瀬印房の看板が、北室南苑さんがこの本を書こうと思ったきっかけになった看板です。



南苑さんから、今日「雅遊人」の話をさせていただく快諾を得て、心置きなく燕台さんのことを話させていただけて私は本当にしあわせです。
9月24日が燕台さんの命日なんです。
実は私は去年のちょうど同じ日にここ、I.Iサロンで祖父、父、そして私と「三代展」をさせていただいているんです。
そして今回。そういった縁というものが嬉しゅうございます。

スライド上映



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・ 北室南苑さんによるスイスからの留学生の篆刻教室:I.Iサロンでの伝統的なスタイルでの日本文化研修を心から楽しんでいる様子が伝わってきます。基本的な細工の仕方から教えてもらえるんです。



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・ 燕台書「広瀬印房」の看板:今もあります。傷みがはげしく金箔もすすけていたのを、下地の漆も塗り直してきれいにリフォームされています。

・ 扁額「以美益天下」:近江町の金澤美術倶楽部の1階から2階へ上がる階段に今も掲げられています。
幅は1間半、かなり大きいです。「美を以って天下を益す」とあります。
銘が入っていないのは有名な話です。大正7年に創立の、金澤美術倶楽部の初代理事長もつとめたので誰もがご存知だからです。
金沢にはそれまで百軒ほどの骨董屋が2つの講に分かれて勢力争いをしていたのが燕台さんの口利きで和解しまして、全国で5番目の美術倶楽部誕生となりました。
漢学の素養やら鑑識眼、それも自分の目と足でする目利き、人を引寄せ合わせる才など一目おかれた存在だったようです。

※第1次世界大戦で成金ブームの頃



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・ 龍国寺:宮崎友禅斎の墓があります。
登り口に「友禅之墓本寺安之龍国寺」と書かれた標柱があります。
燕台さんの字です。わたしらの子供の頃の遊び場です。
この上のほうでは終戦後、地主さんから土地をお借りして、近所中が作物づくりをしまして私ら子どもも手伝いをしました。
(食糧難の時代やったわけね)

毎年、加賀染め組合(石川県染物業工業協同組合)主催の「友禅まつり」がありまして、由来のある茶器でお茶を楽しんだり、

東の茶屋街の芸妓が奉納の舞を踊るということもやっております。

・ 宮崎友禅斉の墓標:横に三越の名が見えます。
燕台さんと三越の関係が非常に密になったんです。

ここは東京と金沢、都と鄙の結びつきが燕台さんによって生まれた劇的な場所なんですね。
当時、三越デパートは友禅斉の墓を見つけ出して友禅祭をやろうと企画していたんですが京都にもどこにも見つからない。
どっかにないか。それで燕台さんが調べたら龍国寺の過去帳に太郎田屋さん(加賀藩紺屋)がある、友禅斉は、この太郎田屋に居た人だから、ここに墓があるだろうと見当をつけた。

その結果、元禄7年11月施主 太郎田屋月牌による供養の記録があった。
そして小さな坊主墓が燕台本人によって発見された。大正9年1月雪の日のことでした。
それ以後、毎年5月17日に友禅まつりが行われています。
(友禅染関係者による筆供養)

京都には知恩院そばに宮崎友禅斉の胸像はありますが墓はありません。   



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 ・宝円寺山門の看板:これは11代の細字左平さんが書かれたものです。尾張町の細字印房さんの先代さんです。
細字左平さんというのは永いご商売をしておられて藩札を刷っていたんです。藩指定の印刷納入業者だったんです。
※ 藩札がいかに厳密な条件下で印刷されたかなど面白い話を伺いましたがここでは割愛します。別の機会にとりあげたい。
(この宝円寺は利家公創建の寺、明治2年に焼失。その後再建。毎年前田家にちなんで梅鉢茶会が催されます)
(龍国寺さんは宝円寺さんの末寺ですー曹洞宗)




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・ 細野家の墓三基:このうち二基は燕台さんが生前に書いた墓碑銘です。
「燕台逸民」と「細野当徹之墓」ですが「雅遊人」の著者、南苑さんとの接点が強く感じられる書体です。



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・ 落款:非常にたくさんの落款を持っておられたんです。魯山人作の落款も所有しているようです。




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・ 伊東深水作「酔燕台翁」:道服姿の燕台さん。石川県立美術館にありますが解説によりますと、この絵は深水の最高傑作です。燕台自身も最高の姿だと思います。 

・ 俵屋宗達の石塔、前田家の墓など(個人所蔵の燕台の作品紹介もありましたが詳細は割愛) 



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・ 高村右暁の筆塚の除幕式:小坂神社で行われた除幕式です。金城画壇の皆さんの列席をいただきました
(写真の中に燕台、魚住為楽、小松砂丘の顔あり)。
こうしてみると燕台さんという人は、今風に言えば、ほんとうに優秀なプロデユーサーだと思いますね。
(因みに右暁は燕台に先立つこと8年、昭和29年に88歳で没)
余談ながらGHQのマッカーサーが帰国の際の土産になにが良かろうかという相談が三越を通して燕台のもとに届きました。

燕台がすすめたのは、魚住為楽の「銅鑼」でした。幾つかある候補のなかから叩いてみたところ為楽の「銅鑼」が一番良い音だったそうです。

この銅鑼は現在、バージニア州のマッカーサー記念館に保存されているそうです。

スライド上映のあと、高村右暁の絵「奥の細道途上の芭蕉」を拝見しました。



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―本来の絵描きの絵じゃないですね、文人墨客の絵ですね

高村―制作年代はわかりませんが、この絵はだいぶ枯れとるわね。若いときの絵は湿気があるわいね。
70歳代の絵やと思います。



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高村―11月10日から魯山人の展覧会がありますが(21世紀美術館)それをご覧になれば、彼の作風の中にも燕台との交流がおわかりになるのではなかろうかと思います。

高村―もう一つは山代の草庵という寓居跡に魯山人のすばらしい作品があります。
リフォームはしましたが雰囲気も変っておりません。立ち寄っていただければと思います。

―富山にも魯山人のパトロン、古物商かがいたという話を聞いたことがあります。

高村―金沢では燕台ですけど、パトロンと色々な係わりがあって大成した、しあわせな人やと思います。

―それだけのものを持った人やったということですね。

高村―鎌倉へ行っても逆に燕台を呼び寄せて・・・
最終的には二人は仲たがいするケースがあったようですけれど、それはそれなりに二人とも文人として大成したということではないでしょうか。
金沢と東京を結んだ影の役者やったちゅうことで理解しておるわけです。

―ありがとうございました。あまたの陶工、画家を育てた燕台ですが、多くの人々に支えられた晩年であったこともたしかなようです。



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最晩年に至るまで斗酒をも辞さなかったという燕台を支えた中には、今日の話し手、高村さんのお父さん、表恵(ひょうえ)さんもふくまれていたようです。
それほど魅力あるひとだったとは高村さんの弁です。
燕台の没後、昭和50年に三越で開かれた「燕台回顧展」には石川県内の錚々たる工芸家が出品。
彼のプロデユーサーとしての力量が示されたといえるでしょう。
もちろん高村さんのお父さん表恵さんも出品されました。

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折から石川県立工業高校の創立120周年記念美術展が金沢市内の数か所で開催されていました。
人間国宝をはじめ芸術のそれぞれの分野で活躍される卒業生の作品が多くの人々の目をたのしませました。



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なかでも本校に付設の、ギャラリー「雪章」に展示された作品群のレベルの高さは、金城画壇の実力を測るにふさわしい風格あるものばかりでした。




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番外編:第10回ポットラックサロ『金澤 攝さん』に登場した「高島嘉衛門」と若き日の燕台(本名 申三)との意外な接点も知りました。

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予告編:次回「新おもてなし考」は  忠田敏男さん 「参勤交代」パート2     
女性も登場する道中ばなしです。 来年1月はお休みです。