尾道鉄道縮めて尾鉄
私の小さなころに乗りましたね。
母親の実家が尾道市の栗原でした。
連れられて尾道鉄道にのりました。
尾道駅から乗末までわずかの躯幹を乗ったのを覚えています。
今からいえばマッチ箱のような車両が一両ではしっていました。
バス1台分でしょうか。
ホームがあり探査がありましたね。
乗末駅から歩いて20分くらいで母親の実家に着きました。
蒸気ははいていなかったから電気鉄道だったのかな。
 中学の頃にはもう亡くなっていたような気もします
それからは尾鉄はバスだけになりましたね。
 三原には尾鉄のような鉄道はなかったですね。
 福山に鞆鉄軽便鉄道がありましたね。
これは載ったことがありません。
 懐かしい思い出です。
 その記事があったので思い出してみました。

てつたま。「てっちゃん野川のローカル魂」です。【野川キャスター】今回も前回に引き続き、こちら“オノテツの車窓”から。かつて尾道を走っていた尾道鉄道の回顧録?をガイドブックに、60年前に思いを馳せながら、廃線跡を巡っています。こうして目をつぶると…ガタンゴトン、ガタンゴトン。尾道鉄道の電車の音が聞こえてくるかのよう…それでは…【野川キャスター】「この辺りがちょうど、尾道鉄道の尾道駅のあたりだったということなんですね」尾道鉄道は、1925年に開業した尾道の市街地と当時の御調郡御調町の市駅を結ぶおよそ17キロメートルの路線でした。しかし、車社会が進み、利用者の減少から、わずか39年で廃線に。前回は、かつての線路跡をたどってJR尾道駅から北上し、尾道鉄道の痕跡を探しました。そして今回は、尾道市の美ノ郷町本郷からスタート。まずは尾道鉄道沿線の中学校へ通っていたという森下さんに線路跡を案内してもらいました。【森下美和さん・野川キャスター】「完全に生活の一部。姿変えてますね。ただ、言われてみると、確かにここを走っていたと言われればイメージがおぼろげながら浮かぶような。ここが築堤の石積みが綺麗に残っているところですね」「そうですね、そのまま残ってますね」「この辺りもちょっと他にも痕跡が」「あそこへ枕木が」「もしかしてこれですか?」「そうですね。釘の穴が残ってますね。今、横に置いてありますけど、これがこうですね。はい」「このように通ってましたから、枕木がこうなっていたわけですね」「ちょうどですから、これが線路の幅ですね。JRと一緒ですからね。線路の幅は」「1067mm。もともとここにあったかのように馴染んでますけど。この一帯というのも、もう森下さんにとってはなじみ深い場所ですか?」「そうですね。中学生時代の通学路ですから、これが近道、ここが」「ここがですか?」「これが近道、線路まさに線路の上を。枕木の上を歩いて。ほいで(電車が)来たら警笛を一応、鳴らしてくれますからね」「それはもう運転手さん側も、そんなに『あー!』って感じじゃなかった?」「ないですね、はい、怒られることもなし。学校の先生に何も言われた事はなかったですからね」「ここがちょうど、森下さんのページになってますけど、釘を電車に轢かせて平らにするのをよくして怒られた」「はい。それはふふふ」森下さんの少年時代に確かに存在した尾道鉄道…その思い出は今でも、脳裏に焼き付いているといいます。【森下美和さん・野川キャスター】「尾道はね、牛市があったんで、成牛にした牛を販売するのに、付いて行きよったですね。行きは牛について、帰りはお金が入るから電車のせてもらって帰った」「そうなるとやっぱり帰り電車に乗るというのは、特別な思い出になりますね」「思い出になります」「運賃は?」「運賃は小人で15円位だったと思うんですけどね」「尾道までその位かかると安くはないですね」「まあ倍です。大人30円ですかね?」「となると結構したんだなという印象です」「ちょうどその頃、中華そばが45円でしたからね。やっぱり、牛が売れたら、中華そば食べて帰りよったですから。まあ、今思えば本当懐かしいし、楽しかったですね。電車に乗ること自体がね」続いて美ノ郷町からさらに北上し、木ノ庄町へ。バイパスの急こう配を上る道中に、尾道鉄道において忘れてはならない歴史を刻んだ碑がありました。【野川キャスター】「失礼します。えー、慰霊碑ですね。南無妙法蓮華経と刻まれています。裏側をちょっと見てみます。昭和21年8月13日。37名遭難の碑、尾道鉄道株式会社建立ですかね。ちょうどこの辺り、本当に勾配のかなりきついところです。たくさんの方がここで命を落とされて、鉄道事故によって亡くなった方の数と言うことで言うと、中国地方では未だに一番たくさんの方が犠牲になった事故の慰霊碑であるということですね」終戦から1年後の1946年。大勢の人を乗せた市駅行きの電車は、石畦駅を過ぎ、峠越えの急こう配に入ります。その道中に突如、電気を取り入れるポールが外れ、停止。動力を失った電車は坂を1キロほど逆走し、急カーブで脱線。37人が死亡する大惨事となりました。バイパスの脇にひっそりとたたずむ慰霊碑は、その事実を今に伝えています。慰霊碑のある場所から木ノ庄バイパスを上っていくと、トンネルに差し掛かりました。【野川キャスター】「えー、ここで起点から40mと言うことで、もうもう出口が見えてきました。明るくなってきました。なんかそこに、プレートがありますね。あ!そうなんですね。この歩道トンネルは旧尾道鉄道の2号トンネルを利用して作られたものです。ということで、やっぱりここは、尾道鉄道の実際に使っていたトンネルといいますか、時代背景で言うと、あの昔の言葉と言いますか、隧道と言ったりしますけど、そんな感じですね」この後も、峠越えの急な勾配がしばらく続きます。【野川キャスター】「だいぶ登ってきましたね。あっ!あー、見えました。うわー、あれは間違いなく尾道鉄道のトンネルですね。さっき見た2号トンネルとはもう一線を画しますよね。真ん中のところ、レンガとレンガの間に石。キーストーンもはまってますし、なんか非常にこう格式高いトンネルですよね」尾道鉄道の石畦~畑駅間には6本のトンネルがありましたが、この4号トンネル1本だけが当時の姿のまま、今も利用されています。【野川キャスター】「これはあれですね、下の土台に近い部分は規則正しい石積みできてますし、真ん中より上がレンガ造りなんですかね?でも今見ても、かなりおしゃれな感じがする作りですね。これ“オノテツの車窓”からの中にはしっかりとですね、この4号トンネルについての、記述もあるんですね。『当時の面影をそのまま伝えてくれるのが、4号トンネルになり、緩やかにカーブするトンネルは総延長およそ80m。レンガと石を組み合わせた作り、フランドル積みという造りになる』と、記述がありますね。イギリス式とフランス式があるそうで、1段あたりに長いレンガと短めのレンガを交互に並べるものがフランドル積み。なんか長め、長め、長めな気もしますけど。地味で暗いイメージのトンネルにあって、どこか洒落た印象を与えている。本当にこれはそう思いますね。こう一つやっぱり構造物として美しいなあっていうのをね、非常に感じますよ。この石積みとレンガの調和もそうですし、このトンネルの美しいアーチ状のこう断面といい」