尾道鉄道縮めて尾鉄
私の小さなころに乗りましたね。
母親の実家が尾道市の栗原でした。
連れられて尾道鉄道にのりました。
尾道駅から乗末までわずかの躯幹を乗ったのを覚えています。
今からいえばマッチ箱のような車両が一両ではしっていました。
バス1台分でしょうか。
ホームがあり探査がありましたね。
乗末駅から歩いて20分くらいで母親の実家に着きました。
蒸気ははいていなかったから電気鉄道だったのかな。
 中学の頃にはもう亡くなっていたような気もします
それからは尾鉄はバスだけになりましたね。
 三原には尾鉄のような鉄道はなかったですね。
 福山に鞆鉄軽便鉄道がありましたね。
これは載ったことがありません。
 懐かしい思い出です。
 その記事があったので思い出してみました。

てつたま。「てっちゃん野川のローカル魂」です。【野川キャスター】今回も前回に引き続き、こちら“オノテツの車窓”から。かつて尾道を走っていた尾道鉄道の回顧録?をガイドブックに、60年前に思いを馳せながら、廃線跡を巡っています。こうして目をつぶると…ガタンゴトン、ガタンゴトン。尾道鉄道の電車の音が聞こえてくるかのよう…それでは…【野川キャスター】「この辺りがちょうど、尾道鉄道の尾道駅のあたりだったということなんですね」尾道鉄道は、1925年に開業した尾道の市街地と当時の御調郡御調町の市駅を結ぶおよそ17キロメートルの路線でした。しかし、車社会が進み、利用者の減少から、わずか39年で廃線に。前回は、かつての線路跡をたどってJR尾道駅から北上し、尾道鉄道の痕跡を探しました。そして今回は、尾道市の美ノ郷町本郷からスタート。まずは尾道鉄道沿線の中学校へ通っていたという森下さんに線路跡を案内してもらいました。【森下美和さん・野川キャスター】「完全に生活の一部。姿変えてますね。ただ、言われてみると、確かにここを走っていたと言われればイメージがおぼろげながら浮かぶような。ここが築堤の石積みが綺麗に残っているところですね」「そうですね、そのまま残ってますね」「この辺りもちょっと他にも痕跡が」「あそこへ枕木が」「もしかしてこれですか?」「そうですね。釘の穴が残ってますね。今、横に置いてありますけど、これがこうですね。はい」「このように通ってましたから、枕木がこうなっていたわけですね」「ちょうどですから、これが線路の幅ですね。JRと一緒ですからね。線路の幅は」「1067mm。もともとここにあったかのように馴染んでますけど。この一帯というのも、もう森下さんにとってはなじみ深い場所ですか?」「そうですね。中学生時代の通学路ですから、これが近道、ここが」「ここがですか?」「これが近道、線路まさに線路の上を。枕木の上を歩いて。ほいで(電車が)来たら警笛を一応、鳴らしてくれますからね」「それはもう運転手さん側も、そんなに『あー!』って感じじゃなかった?」「ないですね、はい、怒られることもなし。学校の先生に何も言われた事はなかったですからね」「ここがちょうど、森下さんのページになってますけど、釘を電車に轢かせて平らにするのをよくして怒られた」「はい。それはふふふ」森下さんの少年時代に確かに存在した尾道鉄道…その思い出は今でも、脳裏に焼き付いているといいます。【森下美和さん・野川キャスター】「尾道はね、牛市があったんで、成牛にした牛を販売するのに、付いて行きよったですね。行きは牛について、帰りはお金が入るから電車のせてもらって帰った」「そうなるとやっぱり帰り電車に乗るというのは、特別な思い出になりますね」「思い出になります」「運賃は?」「運賃は小人で15円位だったと思うんですけどね」「尾道までその位かかると安くはないですね」「まあ倍です。大人30円ですかね?」「となると結構したんだなという印象です」「ちょうどその頃、中華そばが45円でしたからね。やっぱり、牛が売れたら、中華そば食べて帰りよったですから。まあ、今思えば本当懐かしいし、楽しかったですね。電車に乗ること自体がね」続いて美ノ郷町からさらに北上し、木ノ庄町へ。バイパスの急こう配を上る道中に、尾道鉄道において忘れてはならない歴史を刻んだ碑がありました。【野川キャスター】「失礼します。えー、慰霊碑ですね。南無妙法蓮華経と刻まれています。裏側をちょっと見てみます。昭和21年8月13日。37名遭難の碑、尾道鉄道株式会社建立ですかね。ちょうどこの辺り、本当に勾配のかなりきついところです。たくさんの方がここで命を落とされて、鉄道事故によって亡くなった方の数と言うことで言うと、中国地方では未だに一番たくさんの方が犠牲になった事故の慰霊碑であるということですね」終戦から1年後の1946年。大勢の人を乗せた市駅行きの電車は、石畦駅を過ぎ、峠越えの急こう配に入ります。その道中に突如、電気を取り入れるポールが外れ、停止。動力を失った電車は坂を1キロほど逆走し、急カーブで脱線。37人が死亡する大惨事となりました。バイパスの脇にひっそりとたたずむ慰霊碑は、その事実を今に伝えています。慰霊碑のある場所から木ノ庄バイパスを上っていくと、トンネルに差し掛かりました。【野川キャスター】「えー、ここで起点から40mと言うことで、もうもう出口が見えてきました。明るくなってきました。なんかそこに、プレートがありますね。あ!そうなんですね。この歩道トンネルは旧尾道鉄道の2号トンネルを利用して作られたものです。ということで、やっぱりここは、尾道鉄道の実際に使っていたトンネルといいますか、時代背景で言うと、あの昔の言葉と言いますか、隧道と言ったりしますけど、そんな感じですね」この後も、峠越えの急な勾配がしばらく続きます。【野川キャスター】「だいぶ登ってきましたね。あっ!あー、見えました。うわー、あれは間違いなく尾道鉄道のトンネルですね。さっき見た2号トンネルとはもう一線を画しますよね。真ん中のところ、レンガとレンガの間に石。キーストーンもはまってますし、なんか非常にこう格式高いトンネルですよね」尾道鉄道の石畦~畑駅間には6本のトンネルがありましたが、この4号トンネル1本だけが当時の姿のまま、今も利用されています。【野川キャスター】「これはあれですね、下の土台に近い部分は規則正しい石積みできてますし、真ん中より上がレンガ造りなんですかね?でも今見ても、かなりおしゃれな感じがする作りですね。これ“オノテツの車窓”からの中にはしっかりとですね、この4号トンネルについての、記述もあるんですね。『当時の面影をそのまま伝えてくれるのが、4号トンネルになり、緩やかにカーブするトンネルは総延長およそ80m。レンガと石を組み合わせた作り、フランドル積みという造りになる』と、記述がありますね。イギリス式とフランス式があるそうで、1段あたりに長いレンガと短めのレンガを交互に並べるものがフランドル積み。なんか長め、長め、長めな気もしますけど。地味で暗いイメージのトンネルにあって、どこか洒落た印象を与えている。本当にこれはそう思いますね。こう一つやっぱり構造物として美しいなあっていうのをね、非常に感じますよ。この石積みとレンガの調和もそうですし、このトンネルの美しいアーチ状のこう断面といい」

  孫たちが春休みに遊園地に行く約束をしていた。
これは無理となった。
 家内が膝関節の靱帯損傷で装具をつけて松葉ぢ杖歩行となったためである。
 両親が連れていくだろう。
 こちらはその代わりに握りずしが食べたいというので
はま寿司にいった。
 私は久しぶりだった。
 お父さんは仕事である。
 昼食を兼ねて行ったのである。
 回転ずしだが今は回転していない。
ストレートでベルトは動いている。
回転しているベルトに載っている握りずしなどを気に入ったものを皿事とるのではない。

衛生的な面を考慮したのだろう
ずっと回転しているベルトの上を回っていたのでは空気中のほこりや雑菌などが付着する。
プラスチックのカバーで覆っていたこともある。
それでだけではいけないのだ。
 6人座れるテーブルに着いた。
ストレートのベルトに近い側に座ったものが世話係である。
タブレットで注文したものが届いたらアナウンスがある
気を付けていて見つけたら取るのだ。
 タブレットも私は苦手である。
娘が全部やってくれた。
 中トロを頼んだら
いくつもあった
3種類以上あった。
大トロもいくつもあった。
アナゴやうなぎを食べた。
いくらはあったがウニがなかった。
サーモンや鯛、ブリを食べた。
孫たちもポテトチップスやのみもののセットを取り
握りずしもマグロなどお母さんに注文してもらっていた。
お兄ちゃんは自分でも注文したいとタブレットをいじっていた。
ベルトからとるものだけでなく
お店の方がテーブルまで運んでくるものもある。
2巻でセットかと思ったら1巻だけのあった。
孫たちはラーメンを一つとって半分分けしていた。
やはり妹の方が食べるのは少ない。
お兄ちゃんがリクエストしただけあって握りずしをよくたべた。
茶碗蒸しもいただいた。
昼間でもあるしあとの予定があったからアアルコール類は飲まなかった。
 最後にデザートを食べた。
孫たちはチョコアイスを頼んでいた。
 私はよくわからん頼んだようだった。
上にアイスが乗っかっていた。
それにコーヒーを追加した。
 コーヒーは陶器のコーヒーカップでなく
紙コップだった。
持ち帰り用にでもできるものだ。
MとSがあるというからMにした。
ちょっと多めだったかな。
6人掛けのテーブルに
おばあさんが真ん中で孫たちが左右に座った。
私と娘つまり孫の母親と二人で据わった 

孫たちはおばあさんが大好きな野田。
1じかんはんがあっという間にすぎた。
 マイカーはお父さんがたまに通勤に使っている。
今日はマイカーがない。 行も帰りもタクシーをつかった。
 大人3人と小さい子が二人である。
娘が自転車で行くことにしていたが
タクシーの運転手さんが娘さんも乗れるというので
自転車をおいてみなタクシーに乗った。
ほんとはいけないと思う。
でもお兄ちゃんが小さいので幼稚園ににも見える。
いいとするか。
孫たちの春休みのリクエストが一部かなった。
遊園地は両親といってくれ。
 おじいさん、おばあさんとはまた行こう。
二人の孫はあまり食べない。
小食なのであるが
好きなものはよく食べる。
デザートも別腹いって食べていた。
おいしく食べてくれてこちらもうれしかった。
春休みの一日が終わった。


 

 富士グランの近くの歩道の街路樹が2月ころから伐採されている。
大きな樹木である。
短い時間だが歩道がその付近だけ通行止めになっていた。
何回もそれに出くわして交通誘導員に車道を通って案内してもらった。
風景は見えないが大きな樹木が切られて、よく見えるようになったのかも知れない。
 市道であるから三原市が実施しているのだ。
 都市計画課が何年か前からアンケート調査をしていたように思う。
歩道の花壇や樹木のことをよくたずねていた。
 沼田川の川土手の庭園も
調査があったように思う。
 大きくなった樹木は邪魔になるのか。
枝が低い部分からでると歩行の邪魔になる。
車も通りにくくなるから枝はすぐ切る。
低い部分から枝のでる樹木は街路樹に適していないのかもしれない。
港にあるワシントンや市のような7メートルから10mはありそうな樹木であるが
最上部に枝があるだけでその下はまっすぐな柱のような状態になっている。
ワシントンヤシは南国風で港に適した樹木だと思う。
 わたしの住んでいるマンションも
大きな樹木を伐採した。
 数年前から夏にクマゼミなどが泊まって喧しく鳴く。
2階や3階は窓を開けていると非常にやかましい。
管理人さんがセミを網でとっていたこともある。
 理事会で大きな10メートルあまりになる樹木を伐採してほしいとの要望があると言われていた。
緑はあった方がいいと私は思っていた。
この2月に何本かの大木が伐採された。
残念。
 すっきりしたかも知れない。
 この夏はクマゼミなどがあまり来なくなるかも知れない。
 公園や山麓の緑はいい
それを求めて散歩する。
山歩きも森林のヒトンチッドが出て
気持ちが落ち着くのである。
緑は大切にしたいものである。

  ここのところ、有名人がよく亡くなっている。
нHKの元アナウンサーの鈴木健二さんが老衰のため、95才でなくなった。
テレビでよく出ていた。
小太りな方で髪の毛が薄くなってきていた。
いろんな知識をもらった。
記憶に残っていた。
 元気に何か趣味の生活をしながら頑張っておられるのかと思っていた。
残念ですね。
鈴木健二さんをしのぶテレビやラジオの番組でもあれば
お声を聞いてみたい気がする。
懐かしく頭の中で声を思い出している。
 以下はその記事です。


元NHKアナ・鈴木健二さん死去 名セリフ残す「私に1分ください」「知るは楽しみなりと申しまして」

 「クイズ面白ゼミナール」の司会、ベストセラー「気くばりのすすめ」などで人気を博した元NHKアナウンサーの鈴木健二(すずき・けんじ)さんが3月29日、老衰のため死去した。95歳。東京都出身。葬儀は近親者で行った。

1952年東北大学卒業後、画家を目指していたが、友人に誘われて受験したNHK採用試験に合格して入局。アナウンサーとして熊本放送局に配属された。2度目の東京配属となった60年ごろからドキュメンタリー番組のナレーションを数多く担当。全線開通前の東海道新幹線からの4時間に及ぶ実況生中継(64年)、アポロ11号月面着陸特別番組(69年)などの司会を務め話題となった。

 66年スタートの「こんにちは奥さん」の司会では、主婦層をターゲットにしたこの番組でも多くの視聴者の心をつかんだ。69年には「こんにちは奥さん」や「昭和の放送史」の司会に対して、第6回放送批評家賞(ギャラクシー賞)を受賞。78年「歴史への招待」、81年「クイズ面白ゼミナール」などが人気となり、83年から3年間「NHK紅白歌合戦」で白組司会を担当した。

 「クイズ面白ゼミナール」は鈴木さんが「主任教授役」で登場。オープニングには「『知るは楽しみなり』と申しまして、知識をたくさん持つことは人生を楽しくしてくれるものでございます。私は当ゼミナールの主任教授でございます」という決まり文句でスタートし、番組の名物となった。

 1982年9月12日にマークした視聴率42・2%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)は「クイズダービー」「連想ゲーム」「ぴったしカン・カン」「なるほど!ザ・ワールド」「平成教育委員会」「世界まるごとHOWマッチ」などの各局の伝説的番組を抑えて、クイズ史上最高視聴率として今もなお君臨している。
 2度目の白組司会を務めた1984年の「第35回紅白歌合戦」では、同年に引退宣言をしていた都はるみさんがトリで歌った後、会場からアンコールが巻き起こる中、「私に1分間時間をください」と呼び掛けた。その後、涙にくれてしゃがみ込んでいる都さんに「エネルギーが少しでも残っていたら歌ってください」と声をかけ、感動のアンコールシーンを演出した。「私に1分間時間をください」は当時の流行語にもなった。

 3日前か、三原市のラインに入っていた。
竜王みはらしラインが全面通行止めという。
4.6キロのスカイラインである。
途中ののり面が幅20メートル高さ10メートルほどが崩落しているとか。
早めに工事して片側通行までには復旧したいという。
 竜王山の展望台不付近は樹木が折られたり
傷つけられたりしていて
桜の花見に備えて2月に枝切りや草刈りなどをして整備したとか。
しかし車道が通行止めでは花見客少なく成る
 竜王みはらしラインが通れなくても
幸崎町の久和喜からの車道を登れば竜王の山頂近くの駐車場まではイケル
 あるいは和田か須波の登山口から筆影山の峠を経て竜王山に登れば車も竜王山駐車場まではイケル。
硫おみはらしラインが全面的に通行止めでも
竜王山の展望台付近の桜の花見には行けないことはない。
しかし花見客は減るだろう。
今が花見の最中であるからだ
 筆影山の山頂と7合目の峠の駐車場付近のさくら
竜王山の展望台付近のさくらは三原の桜の名所にもなっている。
 他には宮浦公園のさくら
妙正寺と本町中央公園付近のさくら
妙正寺あたりは以前はぼんぼりも飾られていた。
 三原城跡公園の天守台にも数本さくらはある。
沼田川の川土手に
沼田大橋の北側の川土手にも数本さくらはある。
 尾道市の千光寺好塩や瀬戸田の耕三寺のさくら
因島の因島ロッジの付近の桜
岩城島の積善山の桜
世羅甲山ふれあいの里の枝垂れ桜
御調八幡の枝垂れ桜
福山城公園のさくら
服部大池の桜
まだ広げればたくさんのさくらの名所はある。
 桜前線に沿って北上すれば何度もさくらの花見はできる。
でも同じ小地域では
一度にさくらは開花するから
あちこちのさくらを同時に見にはいけない。
 ソメイヨシノは500年後には消えてしまうとか。
理由も書かれていたが
そうならないように対応してほしい。
まあ500年先など私にはわからない。
 

 駅前のサンシープラザというかペアシティー西館の2階の市民ギャラリーで
江草晋二絵画展が開かれている。
 絵画がたくさん展示してありました。
外国旅行をして書いた絵が主です。
32才の時に初めて外国旅行をしたとか。
それからがほとんどの国々に旅行していますね。
地球を歩く
こんな表現もされています。
 現在、67才
三原に帰ってきて2年余りとか。
 それまで名古屋で65才まで勤務していたとか。
江草晋二さんは私は面識はなかったのですが
 知り合いの肩の紹介で個展が市民ギャラリーで開かれているというので
家内と見に行きました。
 知り合いの視覚障害者の助成をよく介護して
イベントなどに行かれている方がその江草晋二さんの母親だとか。
 昔からその視覚障害女性の介護をしているところに出くわして挨拶したことはありました。
江草晋二さんの母親は定年まで三原市役所にきんむされていたようですね。
 江草晋二さんは67才という
その母親は90才に近いのではないか。
 今回の絵画展の受付におられました。
挨拶しておきました。
よくきてくださいましたとのこと
 本人もいたようなのですが
よくわかりませんでした。
建物の絵画が多い印象でした。
 絵画の横にある説明を読んでもらってその絵画の印象を聞きました。
眼をぐいと近づけても見ました。
 パリ アムステルダム
ニューヨーク ローマ
上海  イスタンブール  
いろんな国に行かれているのがわかります。
 人物絵はほとんどありません。 外国の子供たちが数人大きく描かれている絵画はありました。
ほとんどが風景絵です。
それも建物が多いですね。
市民ギャラリーの4室を埋め尽くして100点以上はあったでしょうか。
 個展を開くまでになっているとはすごいですね。
 どこに勤務されていたのかわかりませんが
勤務しながら外国旅行をして絵画を描くのですから
すごいですね。
 日展の絵画部門で優秀賞をとったとかあれば
絵画の価値も高まるのでしょうがね。
説明を読んでもらった限りではそんな賞を受けた話題はなかったようにも記憶しています。
あったかも知れませんから
賞の話はこれにて終わりです。
何にしてもすごいですね。
 江草さんという方が身近に感じられるように思いました。
 知り合いの視覚障害女性の方と一緒に歩かれているところに出会ったら
挨拶しておきたいとおもいました。
ありがとうございました。
 

 春の選抜高校野球は群馬県の県第高崎が優勝した。
春では群馬県で初めてだとか。
 夏は桐生硬高校などがある。
 優勝の候補は大阪桐蔭や報徳、やまなしがくいなどあったが
それらを抜いて群馬県立福祉大学高崎高校が優勝した。
エースの佐藤党首が指の出血そしてまめ
2番エースの石垣当主が準決勝と決勝で頑張った。
 今大会は低反発バッドでホームランは3本だった。
そのうち1本はランニングホームランである。
ホームランも少なかった。
 広島県の広陵は残念だった。
 96回春の選抜高校野球も終わった。
 報徳高校の残念な記事があった。

選抜高校野球大会で2年連続の準優勝だった報徳学園(兵庫県西宮市)の選手たちは、決勝から一夜明けた1日、宿舎のホテルを後にした。

 大角健二監督は取材に「夜は悔しくて、寝てもすぐに目が覚めた。優勝と準優勝とでは天と地の差がある。選手も悔しさが9割9分を占めていると思う」と話した。

 決勝の後にホテルでミーティングを開き「多くの人に応援してもらえるチームにしていこう」と選手へ呼びかけたという。

 エースの間木歩主将(3年)は「決勝で『もっとこうすれば良かった』と思うと、悔しくて寝付けなかった」。朝に準優勝旗を見て「やっぱり決勝で負けたんだ」と実感し、再び悔しさがこみ上げたという。

 「部員は誰もこの結果に満足していない。この悔しさを全員が忘れず、気持ちを切り替えて、夏の兵庫大会に向けて一から始動したい」と話していた。
 

 

 

 

  RCCの気象予報士の乙藤良平さんが転勤する。
 というかRCCからнhkの仙台局に勤務するという。
RCCは3年くらいの者だろうか。
 岸まゆみさんがいる。
もう一人男性の気象予報士がいた。
ニュースについで気象予報は欠かせない。
 乙藤良平さんはスポーツマンだった。
自転車で長い距離を走ったり
マラソンをしたり天気予報の合間に
話が出ていた。
走るのがお好きなようだった。
 以前にнHKの山形局に勤務したこともあるとか。
 てきぱきと天気予報をしゃべってくれていた。
仙台局の放送を聞くことはないが
頑張ってください。
4月は就職、入学、転勤などの変化のある時期だ。
 ラジオやテレビの番組も変わるし
短刀のアナウンサーも変わる。
 нHKのマイあさの担当も変わる。
ラジオ深夜便の担当者もかわるようだ。
みんなごっそりと変わっては困るが
一部が変わっていく。
 нHKおの朝方の気象予報士の伊藤みゆきさんは
結構、長くやっている。
土日や祝祭日は他の気象予報士がやっている。
月曜日から金曜日までのウイークデーが担当だ。
  RCCに出れくる交通情報の方も
少しずつ変わっている。
田下さんとか下岡さんとか
声が聞えなくなったと思ったら
転勤したか辞めたかである。
いろんな番組の担当あなうんさ。も長くやっておられると
なじみになって心に残る。
変わると寂しさを感じる。
 

 園田さんの誕生会で会食の後、リバークルーズを行った。
 原爆ドームの近くにリバークルーズの桟橋がある。
川の流れに直角に突き出しているのでなく川の流れに並行して川土手に沿って桟橋がある。
 川土手のリバークルーズの受付から階段を下りて川岸の桟橋に移る。
 ここでは宮島コースもある。
25分で行くとか。
54人乗りだという大型ボートがいた。
外国人客がおおい。
 リバークルーズは1時間コースと25分コースなどがある。
1時間コースを1週間前に予約したが
予約でいっぱいだといわれた。
 実際に行って見ると外国人の団体客が多かった。
 25分コースを予約していたが
これは少なかった。
予約していなくても乗れた感じだ。
 出航直前までスピーカーで案内していた。
 我々とほかに2人のペアが乗り6名のお客だったようにおぼえている。
 キャビンは部屋になっているのかと思っていたら
開放型で顔を出せばすぐ川面である
 女性のガイドがスピーカーで25分間、ずっと案内してくれた。
広島人でもよくわかった。
 元野洲川から本川にいって引き返してくるのだった。
 基町の高層アパートがいくつもある
4千人あまりが住んでいるとか。
基町小学校もあり病院もありコンビニもありいろんなものが揃っているとか。
 以前は基町スラムといってバラック建ての小さな家が並んでいた。
 元町原爆スラムといっていた。
他には駅前と比治山の間の段原に原爆スラムがあった。
ここも街づくりが進んできれいになっている。
 グリーンアリーナの屋根の縦の線と平和公園の慰霊碑と原爆ドームが一直線に並んでいるとか。
グリーンアリーナは屋内体育館でG7の時に
メディアセンターとして使われた。
 この県立体育館は私が20才の時に成人式があって行った場所でもある。
大成さんと建部さんと3人で行った記憶がある。
 元野洲川を上流に向かってすすんでいった。
川面はあまりきれいでなかった。
川面から見る風景はまた違っていた。
 川面に降りる階段がある。
昔ながらの雁木である。
ここから乗り降りしていたのだ。
雁木に名前がついていたが覚えていない。
 川風が涼しかった。
寒くはなかった。
元気な案内の助成の声がきれいに聞こえていた。
大田川の6つの川の名前も行っていた。
広島温度では七つ川なす広島の
と歌われている。
七つでなく実際は六つになった。
大田川放水路でまとめられたのだ。
東から猿猴川、元康川、京橋川、本川、天満川、大田川放水路となる。
平和公園の東側に京橋川があり西側に元野洲川がある。
猿猴川と京橋川に囲まれたところに比治山がある。
比治山はマウント比治でなくヒル比治である。
高さは70mである。
 橋の下をくぐった。
 原爆投下の目標にされた相生橋も説明していた。
私はyの字だと思っていたら
ガイドさんはtの字だという。
似ているからそれでもいいか。
川風が冷たく感じられるようになった
ジャンバーを脱がなかった。
写真も撮ったが狙ったものが撮れているかわからない。
川土手を散歩している方が手を振ったら皆さんも手を振っていただくと嬉しいとガイドさんがいっていた。
リバークルーズの観光客に手を振ってくれるのだ。
川土手には桜並木があって桜の咲く時期には花見客でにぎわうとか。
公園だがカセットふーなどを持ち込んでバーベキューをするグループもいるという。
花見の時期には賑わうのだ。
平和公園も近い市、比治山も桜の名所でもある。
比治山はちょっと遠い。
  いつ本川に入ってUターンしたのかよくわからなかった。
 いつの間にか川の流れに沿って下っていた。
25分はあっという間だった。
桟橋に着いた。
 白杖をもっているので船から段を上がって桟橋に乗り
桟橋をいくらか歩いて土手の階段を上がった。
リバークルーズの職員さんがありがとうございますと何人も
何人も挨拶してくれた。
気持ちがよかった。
 久しぶりにリバークルーズをした
 以前のリバークルーズはキャビンが部屋で
船室に入って川を眺めるのだった。」今回の開放的な風の吹く、顔を乗り出せば川に落ちるような気もする船は
川風を受けて自然を感じてよかった。
気分がさっぱりした。
園田さんもよい体験ができたと思う。
 

  最近、話題になっている小林製薬の紅麹。
サプリメントとして飲んでいた人々が腎臓障害を起こしている。
2名が死亡してたくさんの方が腎機能障害を起こして入院している。
そして通院している。
 紅麹は発酵する食品に使われているから
酒やみそなどの製造会社で使われていた。
アオカビの毒素のプレるる酸がどこで混入したのか。
この事件の経過を見守りたい。
 サプリメントは気を付けなければならない面が多い。
 私はひとつ、飲んでいる。
ブルーベリーである。
大丈夫だと思っているが
わからない。

 以下に記事をつけます。

. 専門家の見方

 サプリメント服用を巡って健康被害が起きた原因物質の可能性として、製造元の小林製薬の調査で、有毒物質「プベルル酸」が浮上した。


 厚生労働省によると、プベルル酸は青カビが産生する物質で、抗生物質としての特徴がある。米国立衛生研究所(NIH)のデータベースなどでは、ヒヤシンスに病気をもたらす原因菌などから見つかった天然化合物としている。

 唐木英明・東京大名誉教授(毒性学・薬理学)は、プベルル酸について詳細は不明だとしたうえで、「青カビが産生する物質であるなら、紅こうじ菌から自然に作られることはありえない」と指摘。製造過程で青カビが混入した可能性があるが、紅こうじを作る培養器はカビも非常に増えやすい環境のため、混入すれば一気に増殖し、色の違いで一目で分かるはずだという。

 また、プベルル酸が腎臓にどのような影響を及ぼすのかも明らかになっていない。「腎臓への毒性があるかを動物実験で調べることが必要だが、結果が出るまで1~2カ月はかかるのではないか」とみる。


 医薬品の製造現場に詳しい光本泰秀・北陸大教授(神経薬理学)もプベルル酸について、「なぜ腎臓に集積したのかや、もしくは集積していなくても、腎臓に毒性を示したのかを明らかにしなければ、原因物質として特定できない」と指摘する。そのうえで「これまで紅こうじを使った製品を長年製造してきたなかで、急に特定のロットの製品で健康被害が出るのは不思議だ。外部からの混入などの可能性も含めて調査する必要がある」と話した。