先日、落語愛好者の知人が、ある落語会で、私の持ちネタでもある人情噺を聴いたそうです。
曰く、「演者は、かなりくすぐりを入れて受けを狙っていた」と。
それを聞いて、「唐茄子屋」の高座本の対談記事を思い出しました。
師匠は、圓生師匠が噺の中に入れたくすぐりを批判しています。
昭和の名人ともなれば、これを超越しているのでしょうが、人情噺の中に受けを狙って不必要にくすぐりを入れて、人情噺そのものを壊してしまう懸念を問われたことを、厳しい眼で見ていました。

その場で受けるため(だけ)に、大切な噺を台無しにする若手について、「真っ当に演っていれば、時間はかかるだろうが、いつか格調高い良質の噺家になれそうないいソシツヲ持っている者が、知らず知らずのうちに違った流れの中に行っちまうのは、見てて残念です」と。
人情噺は、敢えて(余計な)笑いを取ろうとしてはいけないと思う。
勿論、語りの中で、自然にストーリーの邪魔にならないものが入ることはあるかもしれません。
聴き手も、人情噺に軽薄な笑いを期待していないはず。
人情噺というのは、聴き手の琴線に触れる筋を、登場人物や場面を忠実に表現して伝えることが全てだと思います。
プロもアマも、落語では、笑いを取れないと不安になるようてすが、決してそんなことはないと思います。
落語原理主義者の私は、この基本を貫きたい。