図書館に持込んだ、もう1冊は「芝浜」の高座本。
今や、知る人ぞ知る落語になった感のある「芝浜」。
三遊亭圓朝が三題噺として創ったと言われる名作。
年の暮れともなれば、プロアマを問わず多くの人が演じている。
「芝の革財布」と言う芝居にもなっている人情噺。
残念ながら、まだ私の持ちネタにはなっていません。

先日図書館で借りた、広瀬和生さんの著作「噺は生きている」でも、丁寧に触れられていましたが、多くの噺家さんの「芝浜」(の演出)を比較して評論しています。

広瀬さんは、それぞれの演出をこんなふうに風に表現してコメントされています。

私は、人情噺を好んで演っていますが、失礼ながら、プロの師匠方の独善的な人物設定や表現、中途半端なくすぐり、それらをもっともらしくコメントする人がいるのは、あまり好きではありません。
(広瀬さんのことではありません。)
私は、基本的には、人情噺はプレーンな部分を重視して、骨太な演出をするべきだと思い、自分なりに実践しているつもりです。
「芝浜」という噺は、先々代の桂三木助師匠が掘り起こした噺と言って過言ではないと思いますが、近年、妙に注目されて、過度な人物設定や演出が多くなって、それが評価されたりしているのには、どうも違和感がある。
三木助師匠の「芝浜」は、掘り起こすためのインパクトとして、文学的な表現を入れていますが、それを除けば、私は、このプレーンな「三木助・芝浜」が一番良いと思います。
ちょっと違う個性を出し、目立とうとするために、登場人物のキャラを様々に描いていますが、果たしてどうなんだろう?
芝居とは違う、落語だから、もう少し鷹揚にさり気なく演じるべきだと思うんです。

柳家さん喬師匠の著書「大人の落語」で、「芝浜」の芸談を語っています。

さん喬師匠の人情噺のスタンスには、常々傾倒していますが、唯一「芝浜」の魚屋夫婦に子どもが生まれる演出だけは、かなり違和感があります。

その他の師匠方の様々な演出にも、ある部分(例えば女房の気持ち)だけを強調するがために、噺全体のバランスが崩れて、どうもしっくり来ないものが多いんです。

さて、圓窓師匠の「芝浜」です。
実は、私がこの噺を演っていないのは、師匠の高座本(師匠の演出)にも、ちょっと違和感があったから。
師匠は、主人公(魚屋の熊五郎)をアルコール依存症(アル中)という設定にしているんです。
確かに酒に溺れた主人公だが、そこまで破滅的ではないと思う。
だから、どうも全体にしっくり来ない。
それから、オチの台詞も・・・、そのままで良いのではと。
人情噺の主人公では、優秀な職人や商人なのに、飲む・打つ・買うの三道楽に耽って、女房・子も顧みない破滅的なパターンなのが、「芝浜」をはじめ、「文七元結」「子別れ」あたりですが、そこまで病的だと、それこそ更生出来る可能性が低くなって、現実的ではないと思うんです。
しかも、落語ですから、そこまで窮状を追い込むと、落語の良さを否定することになりやしないかと・・・。
いずれ、「芝浜」にもチャレンジするつもりですが、私が手本にするとすれば、三木助師匠をベースにして、様々な思いてんこ盛りにせずに、あえて加えるならば、古今亭志ん朝師匠のスケールの大きな要素ぐらいで十分だと思います。