昨日の落語っ子連の稽古。
自分の稽古はともかく、他のメンバーの稽古を聴いて、とても参考になることが多いのが嬉しい。
師匠が亡くなって自主稽古になって、良い意味で個々の稽古のレベルが上がって来ている。

大看板の師匠のコメントは、何にも増して貴重なものでしたが、メンバー相互にコメントしたり、アドバイスする形になって、良い面が出ている。
これは、今の第二次落語っ子連がスタートして12年が経ち、メンバーのキャリアとともにベースが出来上がって来ているからだと思う。

基本的に落語好きが集まったグループだから、和気藹々と稽古するのもよし。
落語に対する思いはそれぞれだから、お仕着せな稽古になっては続かない。
師匠が指導してくださり、今も残るグループでは一番古い(はずの)落語っ子連は、最大のテーマ(目的)は、落語が上手くなること。
そのコンセプトの下に集まり、稽古を続けている人たちばかりだから、稽古の内容も濃くなっていると自負している。
落語を語る、演読するだけでなく、噺に直接あるいは間接に関わることの蘊蓄を教えられたり、教えたり、お互いに確認し合ったり。
例えば、夢学さんの「お見立て」で「享年」という言葉が出た。
「享年3歳」という台詞が気になった。
「享年」と同じように使われる「行年」とは?
享年を使う場合、◯“歳”とは言わない?
噺にはほとんど影響ないが、どうする?
「一周忌」と言うが「一回忌」とは言わない。
「二周忌」や「二回忌」はない?
何故、没後2年後に「三回忌」と言う?
・・・色々な話題が広がる。
さて、「抜け雀」のオチは「駕籠かき」が定番だが、師匠の高座本のオチは違う。
雀は、鳥籠に入る鳥ではない。
衝立に鳥籠を描くことはないし、そもそも絵柄も美しくないと思う。
やはり雀には竹が似合う。

師匠の高座本は、絵師の父親は鳥籠ではなく、竹を描き、オチは「親を駕籠かきにした」ではなく、「親を藪(医者)にした」としている。
やや無理がない訳ではないが、藪(竹だから)の方が、絵としても美しいと思う。
だから、私も「藪」にしている。
「駕籠かき」という言葉は分かりづらい。
マクラで説明が要る。
「薮医者」という言葉も、これから先は分からなくなって来るだろうから、また別のオチを考える必要があるかもしれない。
・・師匠、こんな感じで皆で色々話し合って稽古していますから、安心して見守ってください。