最近、スポーツなどの熱戦や好成績に対して、「勇気をもらった」とか「感動をもらった」という表現が使われます。
オジサン、またまた違和感があるんです。
勇気や感動は、物のようにもらったりするものではないから。

ある、私の嫌いなお笑い芸人も、これに違和感があるようで、そこは一致。

MicrosoftBingくんに、「『勇気をもらう』は、正しい日本語なのか?」と尋ねてみました。

「勇気をもらう」というのは、正しい日本語ですが、一部の人には好ましくない表現として捉えられることがあります。

その理由は、この表現が「受け身な姿勢」を示していると感じるからです。

つまり、自分ではなく他人に頼って勇気を得ているという印象を与えるのです。
しかし、これはあくまで一つの見方であり、実際には「勇気をもらう」という表現は広く使われています。

例えば、スポーツ選手や芸能人などが何かに真剣に取り組んでいる姿を見て、「勇気をもらった」と感じる人は多いでしょう。

また、友人や家族などから励ましや応援を受けて、「勇気をもらった」と言う人もいます。

これらの場合は、「勇気をもらう」という表現に否定的な意味はありません。
むしろ、「勇気をもらう」という表現は、相手に対する敬意や感謝の気持ちを表しています。

相手の行動や言葉によって、自分の心が動かされたり、元気が出たりすることを認めています。

それは決して恥ずかしいことではなく、素直なことだと思います。
ただし、「勇気をもらう」という表現は、自分の中にある勇気を見つけ出すきっかけに過ぎません。

自分が何かに挑戦したり、立ち向かったりするのは、最終的には自分自身の力です。

だから、「勇気をもらう」だけで満足せずに、「勇気が湧いてくる」や「勇気が出る」という自発的な表現に変えてみると、より前向きな姿勢になれるかもしれません。

「勇気をもらう」というのは、「勇気づけられた」「勇気が湧いて来た」と言うことなんだから、そう言えば良いだけのことだと思うのですが・・。

昔、NHKの「みんなのうた」で聴いて好きだった、やなせたかしさん作詞のこの歌は、勇気は、人からはもらっていませんでした。

・・・私と同じことを思う人もいるようです。
勇気は「奮い起こすもの」「奮い立たせるもの」でしたが、最近はもっぱら「人からもらうもの」になってるようで、「勇気をもらいました」が大はやりです。

私は古い人間なので、勇気は人の立派な行いを見て「学ぶ」ことはあっても「もらう」ものではないと思っています。

自分が大変な局面を経験して、真剣に向き合って、内面から奮い立たせるのが勇気だと思っています。

そのために励ましをもらったら「励ましをありがとう。勇気が出ました。」ではないでしょうか?
同様に、「感動をもらいました」「感動をありがとう」も「感動しました。ありがとう。」じゃないかな?と思います。

日本語は変わっていくから、いいのでしょうか?

それとも一過性のはやりの言い方でしょうか?

この問いかけの回答にも共感です。

私は日本人が、主観というか、自分にスポットライトを当ててものごとを言うようになったと感じます。

たとえば、「被災者から勇気や元気をもらった」なんて真顔で語る芸能人・スポーツ選手をみると、アンタ、どこまで「自分語り」をしたいんだよと。

スポーツ選手の勝利者インタビューでも、最近は必ず「応援よろしく!」でしょう。

むかしの王選手や柔道の山下選手のような“サムライ”がそんな自己宣伝を言ったでしょうか。

春のセンバツの選手宣誓「私たちは阪神淡路大震災の時に生まれました!」も、感動的だったというけれど、それじゃ感想文だよと言いたくなった。

負けたとはいえ、大の男が人前(全国中継)でボロボロ泣くのも気に食わない。

私がひねくれてるのかもしれませんが、なんだか日本人全体が自分に酔っているように思えてなりません。

そう言えば、小泉首相が、平成13年(2000年) 夏場所 、 貴乃花 に優勝のトロフィーを渡すときに言った言葉。
「痛みに耐えて、よく頑張った。感動した!」でしたよね。

「感動をもらった」とは言わなかった。