師匠からのアドバイスで、「浜野矩随」の母親をどう位置付けるか。

この噺は講釈ネタで、江戸時代が舞台になっているので、当時のメンタリティで描かれています。
名人が1人出来る陰で、その母親が犠牲(礎?)になる。

落語では、その悲劇性があまりにも現代に合わないということで、元の型の「自害型」ではなくて、「救出型」や「生存型」で演られることも多いようです。

私はずっとプレーンな「自害型」で演じて来ましたが、師匠からは、これらの型とは違う、現代にも納得され、受け入れられる構成を考えようとのアドバイスです。
噺のインパクトの点から言えば、やはり母親が亡くなるのがベストでしょう。しかし、小刀で喉元を突いて自害するというのは、あまりにも現代のメンタリティでは理解されづらい。

「なにも、お母さんが死ぬことはないじゃないの。百歩譲って、せめて結果を知るまでは・・・」と。
さりとて、死なずに済むというのも、ドラマ性、興趣が削がれてしまうから、新たに「病死型」を考えたら・・と。

一応、そのイメージに沿い、ストーリー全体を壊さないように、私なりに手直ししてみたので、今度の演読亭の稽古でやってみることにしよう。
昔と現代のギャップというのは、若干のニュアンスの違いはあるものの、「子ほめ」で、「生まれて7日目、1歳とはお若く見える」が、今は数え年が分からないから、理解されていないと言うのに似ています。

「どう見ても半分(ただ)みたいだ」は、若い人には分からない。

・・というか、面白くない。
要するに、1(歳)よりも小さい(少ない)のを表現したいのに、数字で言っていないからだと思います。
そこで、これも師匠から言われて、私のオリジナルのオチを考えて演っているのと同様、了見も、現代にアップデートしないと、噺が廃れてしまう。
・・・手直し部分は、イメージでは、さほど違和感なく収まる気がします。