【阿武松】


相撲は「国技」とも言われている通り、昔から大変人気のある日本ならではのものです。
私も祖父が相撲が大好きだったので、一緒にテレビを観ながら、土俵入りで土俵に上がる力士の名前を全て言い当てて、近所のオジサンからご褒美のお小遣いをもらったものでした。


私は、「巨人・大鵬・卵焼き」のど真ん中世代ですから、横綱大鵬の大ファンでした。
身体が大きくて、とても強くて、色が白くて、優しそうな顔で、今のどこぞの横綱とは全く違って、「心・技・体」を極めた、品格のある大横綱でした。


コロナウイルスのおかげで、相撲界もご多聞にもれず、本場所が中止になったり、無観客や入場者を半減させたりしながら、色々苦労して興行を行っていますが、日本人力士の奮起も期待して、伝統を繋いでいって欲しいものです。


相撲の稽古風景を詠んだ歌があります。
「お相撲さんには どこ好うて惚れた 稽古帰りの 乱れ髪」
激しい稽古で汗だくになって外に出ると、隅田川からの風がほずれた鬢の髪を揺らしている景色は、女性にはたまらないものだったと思います。
ところが、噺家さんは、そういう訳には行かないようで、
「噺家さんには 愛想が尽きた 稽古帰りの 間抜け面」
・・稽古帰りでも、えらい違いがあったようですが・・・。

京橋観世新道に住む武隈文右衛門という幕内関取のところに、名主の紹介状を持って入門してきた若者がある。

能登国鳳至(ふげし)郡鵜川村字七海の在で、百姓仁兵衛のせがれ長吉、年は二十五。

なかなか骨格がいいので、小車というしこ名を与えたが、この男、酒も博打も女もやらない堅物なのはいいが、人間離れした大食い。

朝、赤ん坊の頭ほどの握り飯を十七、八個ペロリとやった後、それから本番。

おかみさんが三十八杯まで勘定したが、あとはなにがなんだかわからなくなり、寒けがしてやめたほど。

「こんなやつを飼っていた日には食いつぶされてしまうから追い出しておくれ」
と、おかみさんに迫られ、武隈も
「わりゃあ相撲取りにはなれねえから、あきらめて国に帰れ」
と、一分やって追い出してしまった。

小車、とぼとぼ板橋の先の戸田川の堤までやってくると、面目なくて郷里には帰れないから、この一分で好きな飯を思い切り食った後、明日身を投げて死のうと心決める。

それから板橋平尾宿の橘家善兵衛という旅籠に泊まり、一期の思い出に食うわ食うわ。

おひつを三度取り換え、六升飯を食ってもまだ終わらない。

おもしろい客だというので、主人の善兵衛が応対し、事情を聞いてみるとこれこれこういうわけと知れる。

善兵衛は同情し、
「家は自作農も営んでいるので、どんな不作な年でも二百俵からの米は入るから、おまえさんにこれから月に五斗俵二俵仕送りする」
と約束、ひいきの根津七軒町、錣山(しころやま)喜平次という関取に紹介する。

小車を一目見るなり惚れ込んでうなるばかりの綴山、
「武隈関は考え違いをしている、相撲取りが飯を食わないではどうにもならない、一日一俵ずつでも食わせる」
と善兵衛の仕送りを断り、改めて、自分の前相撲時代の小緑というしこ名を与えた。

奮起した小緑、百日たたないうちに番付を六十枚以上飛び越すスピード出世。

文政五年、蔵前八幡の大相撲で小柳長吉と改め入幕を果たし、その四日目、おマンマの仇、武隈と顔が合う。

その相撲が長州公の目にとまって召し抱えとなり、のちに第六代横綱、阿武松緑之助と出世を遂げるという一席。

・・・この「横綱阿武松」は、待ったの多い力士だったそうです。
だから、「阿武松(おうのまつ)」でなく「多乃待(おおまった)」の方が良かったかも。