龍と女神のツインレイ夫婦
Mosscual・りこにゃんですウインク
 

前回、高野山が

「八葉の蓮華」と呼ばれる

理由について書きました。

 

初めて訪れたはずなのに、

なぜか懐かしい。

 

帰ってきたような感覚になる。

 

その背景には、

空海が描いた

ひとつの設計図があるのかもしれません。

 

そして今回は、

その設計図の中心に触れてみたいと思います。

 

 
 

 

高野山には、

二つの曼荼羅があります。

 

胎蔵界曼荼羅。

 

金剛界曼荼羅。

 

空海はなぜ、

宇宙を二つに分けて

表したのでしょうか?

 

もし宇宙がひとつなら、

曼荼羅もひとつでよかったはずです。

 

それなのに、

空海は

二つを並べた。

 

わたしは最近、

その理由が少しだけ分かる気がしています。

 

それは、

宇宙の話であると同時に、

わたしたち自身の話でもあるからです。

 

 
 

 

少し、

自分のことを振り返ってみてください。

 

これまでの人生の中で

「本当はどうしたいのか分からない」

そんな感覚になったことはありませんか?

 

やりたいことがないわけではない。

 

選択肢がないわけでもない。

 

それなのに決められない。

 

進みたい気持ちはある。

 

でも動けない。

 

そんなときわたしたちは、

「答えが分からないからだ」

と思っています。

 

けれど、

もしかすると違うのかもしれません。

 

答えがないのではなく、自分の中で

「OKな自分」と「ダメな自分」を、

細かく分けすぎてしまっただけ

なのかもしれない。

 

 

 
 

 

 

わたしたちは、最初から

自分を分けていたわけではありません。

 

泣いたら迷惑だと言われる。

 

怒ったら嫌われる。

 

失敗したら認めてもらえない。

 

そうやって生きているうちに、

少しずつ学んでいきます。

 

見せてもいい自分。

 

隠したほうがいい自分。

 

認められる感情。

 

認められない感情。

 

そうやって自分に

○と×をつけて切り離していくうちに、

周りから見える

“表の自分”ばかりが大きくなって、

本当の自分がどこにいるのか

分からなくなってしまう。

 

この

「自分を分ける(分離する)こと」は、

もともとは傷つかないように始まった

自分を守るために防衛策だったはずです。

 

でも、

×をつけて心の奥に押し込んだ自分は、

消えてなくなりはしません。

 

ただ見えなくなっているだけです。

 

進みたい自分と、

心の奥で怯えている自分。 

 

その両方が引っ張り合うから、

迷いになり、動けなさになり、

理由の分からない疲れになって現れる。

 

だから今

あなたが苦しいのは、

何かが

「できていないから」ではありません。 

 

自分を○と×に分け続けて、

内側でずっと戦わせているから

なのかもしれません。

 

 

 
 

 

 

密教には、

二つの曼荼羅があります。

 

胎蔵界曼荼羅と、金剛界曼荼羅。

 

わたしは

この二つを知ったとき、

まるで人の中にある二つの力を

表しているように感じました。

 

ひとつは、

「そのままでいい」

と抱きしめる力。

 

もうひとつは、

「それでも進もう」

と背中を押す力。

 

胎蔵界曼荼羅は、

命が育まれる世界です。

 

まだ何者でもないものも、

迷っているものも、

未完成なものも、

そのまま包み込まれている世界。

 

一方で金剛界曼荼羅は、

目覚めた意識の世界です。

 

本質を見失わず、

自ら選び、

進んでいく世界。

 

 

 
 

 

 

包む力、貫く力。

 

受け入れる力、選び取る力。

 

優しさ、覚悟。

 

一見すると、

まったく違うものに見えます。

 

けれど空海は、

この二つを

対立するものとして扱いませんでした。

 

むしろ、

「両部不二」。

 

ふたつで、ひとつ。

 

分けられないものとして

捉えていました。

 

慈悲があるから智慧が活きる。

 

智慧があるから慈悲が揺るがない。

 

どちらかだけでは、

宇宙は完成しない。

 

空海が二つの曼荼羅を残したのは、

宇宙を分けるためではなく、

本来分けられないものだと

伝えるためだったのかもしれません。

 

 
 

 

 

統合という言葉を聞くと、

すべてが整った状態を

想像するかもしれません。

 

迷わない。

 

ブレない。

 

いつも穏やか。

 

でも、

わたしが感じる統合は少し違います。

 

怖がっている自分もいる。

 

疑っている自分もいる。

 

まだ決められない自分もいる。

 

全部ここにいていい。

 

消さなくていい。

 

追い出さなくていい。

 

その全部を連れて、

進めばいい。

 

胎蔵界が

「そのまま受け入れること」

だとしたら、

 

金剛界は

「それでも選ぶこと」。

 

 

 
 

 

胎蔵界は、

「まだ完成していなくてもいい」

という世界です。

 

迷っていてもいい。

 

揺れていてもいい。

 

今のままでも、

命には価値がある。

 

一方で金剛界は、

「だからこそ選びなさい」

という世界です。

 

待つのではなく。

 

誰かに決めてもらうのでもなく。

 

自ら選び、その感覚を

現実の中で「使って」

歩き出していく。

 

受け入れることと、

選ぶこと。

 

優しさと覚悟。

 

空海は、

その両方が揃ったとき、

人は初めて

自分の中心から動ける、

そのどちらも欠かしてはいけないと

伝えたかったのかもしれません。

 

 

 
 

 

 

高野山には、

壇上伽藍と奥之院という

二つの中心があります。

 

壇上伽藍は、

力強く開かれた動の空間。

 

奥之院は、

深い静寂に包まれた静の空間。

 

動と静。

 

智慧と慈悲。

 

進む力と、

受け入れる力。

 

高野山という山全体が、

まるで二つの曼荼羅を

体現しているようにも見えます。

 

そして

その両方を歩くとき、

わたしたちは自分の中にある

同じ二つの力に気づき始める。

 

前へ進みたい自分。

 

立ち止まりたい自分。

 

強くありたい自分。

 

もう休みたい自分。

 

それらは矛盾ではなく、

ふたつで、ひとつ。

 

高野山は、そのことを

山全体で教えている場所

なのかもしれません。

 

 

 

空海が残した設計図は、

頭で理解するものではありません。

 

歩いて、

感じて、

自分の内側で確かめるものです。

 

だから高野山は、

何かを学びに行く場所ではなく、

 

自分の中に眠っていた設計図を

思い出しに行く場所

なのかもしれません。

 

思い出す。

 

受け入れる。

 

そして選ぶ。

 

振り返れば、

このシリーズで書いてきたことは、

ずっと同じことだったように思います。

 

空海が残した設計図もまた、

何か特別な力を

手に入れるためのものではなく、

分かれてしまった自分を、

もう一度結び直すための地図だった。

 

高野山を歩くとは、

その地図の中を歩くこと。

 

そして空海は、

この二つの曼荼羅の中心に、

ひとつの存在を置きました。

 

胎蔵界にも。

 

金剛界にも。

 

必ずその中心にいる存在。

 

大日如来です。

 

それは神様というより、

すべての命の奥にある光。

 

分かれてしまったものを、

再びひとつに

結び直す中心。

 



 

もし高野山全体が曼荼羅だとしたら、

その中心はどこにあるのでしょうか?

 

そして、

わたしたち自身の中心は、

どこにあるのか?

 

次回は、

空海が宇宙の中心に置いた

「大日如来」

について辿ってみたいと思います。