「戦争体験と思想(昭和九年会から)
トラック野郎シリーズについて諸々と調べていているうちに、関心が愛川欽也に代わってしまった。
愛川欽也については特に何の感情も持っていなかった。彼のキャリアや演技についても、何か特別に書き記すことはあまりない。晩年、うつみ宮土理以外に女性がいたらしいが、うつみ宮土理も妻のある愛川との恋愛で随分と話題を振りまいたので、ここは回り廻ったのかなという程度。
そして関心は「戦争体験」へと移っていった。
「昭和九年会」という、昭和9年に生まれで、名を成した芸能人で結成された親睦団体があった。昭和9年生まれは戦争を少年、少女時代に経験し、戦後に学校教育が180度転換して、彼らは子供心に「不変の価値観」を疑った世代である。なすがままに戦争に振り回されてしまった世代。
「昭和九年会」のメンバーの人生、言動、活動を振り返るとやはり「あの戦争」の影響がとても大きい。愛川も母親一人に育てられ、疎開先では壮絶ないじめを体験し、各地を転々とし、その強烈な傷は終生、彼の言行の土台に根を張っていた。左様な人に、戦争体験がその後の人生にどのように影響を与え続けていたのか、NHKのアーカイブを是非観て欲しい。この年代の戦争体験は幼いながらもそれぞれが強烈で、そして、戦後の価値観の大転換と大人たちの変節に人間というものを疑う装置のスイッチを否応なしに持たされてしまったのである。
もちろん戦時中に、高校(旧制中学)以降の年代や、成人してからの強烈な記憶(出征、死‥)を抱えて生きる人、それらが創作活動の原動力になっている芸術家は枚挙に暇がない。
今回は、あの戦争時、子供、少年少女だった人物だけに絞って、特に、昭和9年前後の人たち、敗戦時は11歳、小学校4,5年生。また、敗戦時、まだ幼くて自身の記憶になくても、その後の生活に戦争が痕を残し、それが生きる道を決めたであろう人たち。彼らのうちで、僕を楽しませ、僕の考え方や生き方に影響を与えた作品を生み、そして「あぁ、この人も、やはり戦争が創作の原点なのだな」と感じる人物を挙げてみたい。
徴兵はされないが、勤労動員される位の年頃、昭和9年よりも少し前の世代から、筆頭は野坂昭如(昭和5年生まれ、中学生、妹の死)、深作欣二(昭和5年、水戸空襲)、東松照明(昭和5年)、半藤一利(昭和5年、東京大空襲)、篠田正浩(昭和6年、B29の爆撃体験)、大島渚(昭和7年、「タケノコごはん」)、内橋克人(昭和7年)、早乙女勝元(昭和7年、活動の原点は東京大空襲)、平岩弓枝(昭和7年)、黒柳徹子(昭和8年、「トットちゃんの15つぶのだいず」」、永六輔(昭和8年)、大橋巨泉(昭和9年)、井上ひさし(昭和9年、「ぼくらの先輩は戦争に行った」、戯曲「父と暮らせば」)、宝田明(昭和9年、満州引き揚げ)、筒井康隆(昭和9年、疎開先でのいじめ)、米倉斉加年(昭和9年、弟を2歳で栄養失調でな亡くす)、高畑勲(昭和10年、岡山空襲、「君が戦争を欲しないならば」)、大江健三郎(昭和10年)、田名網敬一(昭和11年、東京大空襲)、阿久悠(昭和12年、「瀬戸内少年野球団」)、なかにし礼(昭和13年、満州引き揚げ、「赤い月」)、大林宣彦(昭和13年)、立花隆(昭和15年、「「戦争」を語る」)、清水真砂子(昭和16年、「戦争を伝えることば:いらだつ若者を前にして」共著」)。まだまだ色々な人物がいるのだがざっと今思いつく人々を列挙してみた。
「その人」、「その人と戦争」とは何かということを解き明かそうとしてみる。右辺に「その人」を、そして「その人」が「その人」であろう事柄、出自、育った土地、親や親族、友、体験などなどを左辺に置いた等式を作る。この時代を生きた人々で、自らを等式の左辺に置いた時に、右辺に「戦争」若しくは「戦争体験」という記号が含まれない者はいない。左辺に戦争だけを置いて、式を変形させると、戦争が姿を現してくる。その人物にとっての戦争の一片、戦争がどれだけ、どのように、その人の中にあるのかが見え始める。人は一面だけでは分からないので、さらに様々な要素を入れた等式をいくつか作る。それら一連の等式を
連立方程式として、「その人」について解いてみる。戦争の輪郭がはっきりと見えてくる。
ただし、その解を解くには人間というものに対しての優れた考察力と洞察力が要求されるし、史上で天才的数学者と言われる人々が持つ、ひらめきと言ってもいい何かが必要とされるだろう。等式に含まれるあらゆる記号の意味、それが負でであっても正であっても、その人とは何かという問いを解くには、代入したり、消去したり、それらの一連の洞察・考察力が必要なのだ。
さて、そうした作業をしてみると、僕にとって不可解な人物が現れる。式の中に強烈な「戦争」という定数を含みながら、右辺において理解しがたい「自己」が現れるのである。
これらの人々は作品や著作、パフォーマンスで確実に僕を楽しませてくれ、影響を与えた。しかし、彼、彼女についての人生の方程式は僕には解けない。これらの人々を考察することがより「戦争」の本質を掴むことになるのかもしれない。
これらの人々にとっては「戦争」が生涯の「定数」に近いものであったのではなく、「変数」であったのかもしれない。また、人物の謎解きを、「方程式」ではなく、「化学式」として捉えた方が、理解が近づく気がする。「戦争」が他の何かと強烈な反応を起こして、ある時期から反応が真逆の結果を示してしまう。薄っぺらい言葉で恐縮だが、右翼的、軍事肯定、反中、極端な反米、戦前の思想への憧憬。ある時期から転向をした人物を含めて、彼らには一体、何があったのか。
黛敏郎(昭和4年、父親は山下汽船、戦中・戦後と音楽生活を送る)、すぎやまこういち(昭和6年、びっくりシチュー)、浅利慶太(昭和8年、軽井沢疎開、後に転向)、児玉清(昭和9年、疎開先でのいじめ、空襲で実家焼失、強烈な保守思想)。
私見だが、彼らの多くは中産階級以上の暮らしをしていた。その境遇で食料や薬を入手して一命をとりとめたり、戦後も比較的、生活に追われずに文化に親しんでいたように思われる。途中で、思想的に転向していった者は、戦争への怒りというよりは、戦争、特に「敗戦」という事が屈辱的に感じる体験を積み重ねていったのではないか。
黛敏郎は、年表などをみると、自身は酷い戦争体験をしていないようだ。もちろん、その時代を生きた人で戦争が影響を与えなかった人物はいないが。1981年からの「日本を守る国民会議」の各都道府県の地方支部の結成式では、広島、長崎への原爆投下、日本の敗戦は日本が核兵器を持たなかったからと言っていた。今、ユーチューブの「日本会議チャンネル【公式】」では、平成5年(1993年)8月15日、靖国神社での「一体、何を謝罪し何を償うというのかー靖國の英霊に捧ぐ」と題した氏のスピーチを視聴できる。
彼らの思想の背景にあるのは戦後、つまりポツダム宣言受諾後の体験にある。「戦争は負けるもんじゃない」(戦争否定にはつながらない)。「日本は日本である」(占領軍が破壊した)。私が知る限り、彼らは悲惨な戦争体をよりも、戦後の屈辱感、占領軍から受けた仕打ち、または自らの生活が民主化によって破壊されたことの影響が大きい。
映画「火垂るの墓」。ラスト近くで、疎開先から無傷の自宅に帰ってくる令嬢たちのシーンがある。「久しぶりやな~。蓄音機。」蓄音機からアメリータ・ガリ=クルチが英語で歌う「埴生の宿」が流れる。
この拙文をまとめる際に、ネットである論文に巡り合った。2011年度発表、慶応の学生の重光英明氏の「戦後知識人の対アメリカ感~小田実と江藤淳の体験から」です。同年代である小田と江藤の思想の相違、バックボーンを論じている。短い論文だが、実に的確で、読んでいて得心することが多かった。また、両者をクールな視線で分析している。
重光氏の論文は、どちらかに与することもなく、僕が持ち合わせていなかった視点での論旨は本当に首肯できた。この論文を読めば、江藤淳が、今時の単純な復古的、守旧派、右派の部類ではないことは明らかであるが、本論の当初の疑問、「どうして同世代で、敗戦を経て、同時代を生きてきたのに、先の戦争、ひいては戦争観に違いが出てきたのか?」という問いに対する解答へのヒントとして示唆的な個所を引用して締めくくりたい。
「平和を国是とする新憲法の評価の背景には、小田の空襲体験が影響している。圧倒的な恐怖と破壊に苦しんだ小田にとっては、従軍こそしなかったものの、戦争は「観念」ではなくて生々しい「経験」だった。空襲の恐怖に比べれば憲法が誰によってつくられたか、またはどのようにして制定されたのかなどは些末なことに過ぎなかった。小田は憲法が日本人自身によって獲得されたものではないということは全く問題としない。なぜなら、小田にとっては新憲法が江藤淳や三島由紀夫が主張するように「押しつけ」だったにしろ、新憲法の理念が日本の「民衆」の心情と合致していたという事実の方が大切だったからである。彼は敗戦がもたらした状況と「押しつけ」られた新憲法について、次のように言う。(中略)。
「1962 年、文芸評論家の江藤淳はロックフェラー財団研究員としてプリンストン大学へ留学し、現地で一年間日本文学を講じた後帰国し、「戦後民主主義」批判の旗手として戦後の言論をリードした。1933年生まれで敗戦時に12歳だった江藤は小田と同年代にあたるが、その戦争観、アメリカ観は対照的である。まず江藤は戦争が始まる前に鎌倉に疎開しており、終戦まで鎌倉に居続けた(参照記号xxvii)ため、実際に空襲を受けた経験がない。そして日露戦争時に海軍で大佐を務めた祖父(参照記号xxviii)と三井銀行行員の父を持ち、当時高級住宅街であった新宿、大久保百人町の一軒家で育ったブルジョワ階級の出である江藤にとって、戦後とは「平和」でも「民主主義」でもなく、父のボストンバッグと衣類がコソ泥に盗まれること(参照記号xxix)であり、自分と自分の家族が下の階級に転落したということへの喪失感(参照記号xxx)だった。そこには小田のような天皇への不信も、戦争はもうこりごりだという感情もない。小田とは対照的に大日本帝国の膨張と軌を一にして栄えたブルジョワの家系―帝国軍人の祖父と財閥系銀行の父というのは象徴的である―に産まれ、「明治」を賞賛して「戦後」を否定し、後にアメリカとの決別に至る江藤の思想は、どのようにして形成されたのだろうか。」(以下略)