たけくらべ論争。随分と説がある。最近でこのような作品を巡る文学論争があるのだろうか。

 「たけくらべ論争」とは、樋口一葉の「たけくらべ」の終盤に主人公美登利が見せる涙の訳についての解釈。従来の初潮説に対して小説家の佐多稲子が初店説(処女喪失、水揚げ)を述べたことに対して文芸評論家の前田愛が佐田の説に反論し、自説を発表したことに始まる。

 詳しくは様々な文献、ネットで見て欲しいが、昭和60年から活発な論争が行われたことに、まだ文学に力があったことことがわかる。一部、納得しかねる説や突飛な説もない訳ではないが、諸氏の作品に対する真摯な姿勢がうかがわれる。

 個人的には、2015年(平成27年)に川上未映子氏が示した「告知説」がしっくり来る。一葉はどの程度、「吉原」の事を知っていたのであろうか。また、下谷龍泉寺時代にどの程度のショックを受けたのであろうか。

 僕が今、この論争を調べてみて、思うことは二つ。

 一つは文学の力。ロートレックは娼館に泊り込み、娼婦の生態を描いた。娼婦と寝食を共にし、文字の書けない娼婦には手紙を読み、代筆もした。そんな中で、彼は、性病検査や娼婦同士が身体を寄せ合う姿を赤裸々に描いた。そこには、彼の彼女らに注ぐ共感や友情も感じられる。

 しかし、彼の描くこれらの絵画は、直截的である。絵画的な美しさも感じられるが、どっきりとする。一方、一葉の擬古文は、当時では随分と平易な文章であったようだが、今、読む私たちは苦労する。その文体、そして伊勢物語やその時代の歌に精通した一葉の文章力が、隠喩となり、幾通りもの解釈を可能にさせるのだろう。これこそが文学の力なのだ。

 そして二つ目、こちらはロートレックも同様なのだが、作品は、資本主義社会、都市生活の陽と陰、華やかさと過酷さを示してくれる。時代を後世に伝えてくれているのだ。この視点がもう少し、あの「吉原展」にあっても良かったと思う。

 佐多稲子が群像にこの見解を掲載したのが1985年5月号、佐多は80歳。彼女は、特養ホームで94歳で亡くなる。前田が群像に反論したのも同じ年の7月号。前田は1987年に56歳で没している。病魔との闘いの人生だった。