2024年もあと1時間ほどとなりました。

 なんとか小僧達と一緒に両親を連れて行ったアメリカ旅行について最後まで書き留めておきたいとほとんど無理矢理書いています笑い泣き

 

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 自分が倒れた時のことをほとんど覚えていない母は帰りの飛行機の中でも(いつもの事でもあるのですが)子どものようにわがままを言い、外出中は良くも悪くも我慢強い父は体調不良なのを隠せずその心配もしなければならなかった私は帰りの飛行機も気を抜けませんでした。

 頼りになる小僧達も、乗り物酔いのひどい2号が完全ダウン、その2号を1号がつきっきりで見ていたので、私は半日近くのフライト、ほぼ休めないまま日本に戻ってきました。

 

 日本に帰ってからもまだやることはありました。

 一番は保険の手続き。本当に、これだけは声を大にして言わせてください!!皆さん、海外へ行かれる時は、絶対に、絶対に海外旅行保険には入りましょう!!!!!

 

 今回の母にかかった費用、総額200万円を超えました!そんなに大した治療などを受けたわけではなく、一通りの検査とちょっとした注射1本と点滴、それに救急走行「しなかった」救急車で200万円以上です。(ちなみに救急車だけで15万円程度です)

 幸い、母の持っているクレジットカードには付帯の海外旅行保険があって、旅行に関わる支払いを事前にしておけば保険金が支払われるようになっていたのです。

 年齢的に両親はこのクレジットカードの保険のみだったのですが、それでも大助かりでした。

 年齢的に問題のない人はぜひ、きちんとした海外旅行保険に入りましょう!

 

 それと、海外で自分のスマホは使えるようにしておきましょう。今回の旅行で思った事は、スマホは相当使えるということです。海外で大切なのは、命、パスポート、スマホの順です。

 ただ、その一方でスマホに頼りすぎないようにしましょう。今回の事での大きな失敗はスマホにあるからと保険の内容や連絡先を紙にしておかなかったことでした。

 春先に海外出張へ行った友人に「必ずチケットは紙に印刷しておくように」と言われたので、チケットは紙で持っていたのですが、スマホはその場で調べれば大丈夫と思って印刷おらず、スマホが使えない病院内では保険会社に連絡も取れず、辞書機能もごく簡単なものしか使えなかったために胃が痛くなるような思いをしました。

 まず、保険会社に連絡ができない(病院側に保険会社に直接連絡してもらえない)ために一度この200万円の費用を自分達で支払わなければなりませんでした。母のクレジットカードだけではその時の支払限度額を超えていたために私のカードも使わなければならず、もちろんそのやりとりも全部英語。さらに、費用の申請をするための書類、特に診断書は必須なのですが、その診断書の英語が通じない!辞書機能で調べた「診断書」という単語、通じないのですよ!でも、その書類が揃わなければ200万円を自分達で支払わなければならなくなるかと思うと、もうそれこそ、私の持っている能力全部を使って病院側から必要そうな書類を全部受け取ってきました。

 そして、その書類を保険会社に提出するために連絡をし、別会計になっている救急車の請求はその時救急車を呼んでくれたSecond cousinのKのところへ行ってしまうために、Kには「支払いをせず、母の名前で請求書をもらってそれをこちら(日本)へ送ってくれ」と説明、郵送では時間がかかるからPDFで送って欲しい、等々、今までしたことのない手続きに追われました。

 

 すべての手続きが終わったのはもう秋も深まった頃。5泊7日の弾丸ツアーが本当に意味で終わるまでに数ヶ月かかったのでした。(おかげさまで母は回復、少々体力は落ちたものの大きな問題なく生活を送っています。)

 

 小僧達の力を借りて行ってきたアメリカ・カルフォルニア弾丸ツアー。2号の言葉通り、このタイミングでしか行けなかったと思います。

 

 「次」がない旅でした。

 でも、母と伯母が会えた事、向こうの一族が父を大歓迎してくれたこと、小僧達の成長と次世代の絆、大切な友人達との再会、まさにBittersweetでPreciousな旅でした。

 

 

 

 ストレッチャーに乗せられ、CTスキャンやらレントゲン撮影やらに連れて行かれる母。それを私はERの片隅でひたすら待っていました。

 そんな私の目の前にいた一人の男性。顔は真っ赤で何かわめいています。側には二人の保安官。看護師がなだめながら一通りの処置が終わると、突然ストレッチャーから立ち上がらされたと思ったら...なんと、手錠をかけられ、逮捕されたのです!よくドラマで見るような「あなたには黙秘権があって~(なんとかかんとか)」と保安官が言い、後ろ手に手錠がガチャ!日本でもそんな場面を目の前で見たことがないのに、まさか米国で遭遇するとは...

 

 検査は数分から10数分、待つのは30分以上なんてことを繰り返してやっと医師から「帰って良いですよ」と言われた時にはすでに4時間以上が経過し、夜の10時をまわっていました。

 結果、母が倒れた原因は「疲れと脱水でしょう」とのこと。点滴をしてもらって回復したから良かったようなものの、死んでもおかしくない程度の熱中症だったのです。

 乾燥しているカルフォルニア、しかも例年よりずっと暑い夏、水分を取るのが苦手な母は汗をかかないのをいいことにエアコンが寒いからと長袖を2枚も来て、全然水分を取っていなかったのでした。

 

 待合室で長いこと待っていてくれたJとKeの姉妹に連れられて帰宅途中、Keが言いました。

 

 「とぽりん母は本当にラッキーだったよね!」

 「え?どういうこと?」

 「あの時、トイレで助けてくれた人達は、たまたまそこに居合わせた消防士さん達だったんだよ!」

 

 そう、私がなぜKeに救急を要請してから数秒で現れたのか、なぜ「消防士」なのかは、こういうことだったのです。

 

 帰宅後、翌日の出発の準備をしてくれていた小僧達に詳しく聞くと...

 

 「(レストランで)お母さんが座っていた位置からは見えなかったかもしれないけれど、俺達のテーブルのすぐ近くであの消防士さん達(小僧達は最初警察官だと思っていたらしい)が食事をしていたんだよ。日本なら昼食を取れない警察官がコンビニに立ち寄るだけで文句を言われるのに、米国ではみんなが任務の合間に制服のままレストランで食事をしている。日本も見習わなければいけないよねって話していたんだ。」

 

 「おばあちゃんがトイレで倒れたあの時、騒ぎを聞きつけた、たまたま、そこにいたあの人達が食事中にもかかわらず助けてくれたんだよ。」

 

 びっくり、ただただびっくりでした。と同時に、本当にありがたかった!という感謝の気持ちでいっぱいになりました。

 

 

 おがげで、母は多少の疲労感はあるものの回復し、小僧達の奮闘もあって、翌日、無事に日本へ帰ることができたのでした。

 

 

 

 

 Second cousinのJが連れて行ってくれたメキシカンレストランのトイレでそれは起きました。

 夕食後、滞在先のKeの家に帰る前にKeの夫のJfが寄るところがあるという事で、私と母は念のためトイレに行ったのですが...

 滞在中、食事が合わないこともあって体調が万全でなかった母が突然意識を失って倒れたのです。

 白目を剥いて私に倒れ込んできた母。なんと息をしていません。何が起きているのかわからないまま、「Help! Help!」必死に助けを呼びました。

 私の叫びを聞いて、トイレに飛び込んできたのは小僧2号。

 

 「お母さん、横向きに寝かせて脈をとって!」

 

 トイレの床でしたが気にしている暇はありません。眼を開けたまま意識をなくした母を寝かすのに手間取っている間、小僧2号が脈を取っていたとき、Keがトイレに来て、

 

 「どうしよう??911(米国の救急)を頼んだ方がいい?」(米国は医療費が驚くほどに高いので、日本なら間違いなく救急車を呼ぶような時でも呼ばないことが結構あるらしい)

 

 「そうして!」

 

 万一、母がここで亡くなるようなことになっても、とりあえずは病院へ連れて行かなくては、と思ったのです。

 そんな話をしている間、2号が言いました。

 

 「お母さん、おばあちゃんの口が動いている!」

 

 たしかに母の口が動いています。でも、それは痙攣とも取れるようなものでした。

 

 「お母さん!お母さん!」

 

 必死に母に声をかけますが、反応がありません。

 そんなところへ突然どやどやと制服を着た4、5人の男性達がやってきました。

 

 「大丈夫、落ち着いて。ご婦人(Madam)、どうされましたか?」

 

 中の一人が母に声をかけたり、脈を取ったりしだし、同時に私に質問をしてきました。

 

 「どういう状況ですか?この方は何歳?あなたの家族ですか?病歴はある?倒れたとき頭は打った?」 などなど。

 

 訊かれる事に答えながら私の頭は混乱していました。

 

 (この人達、誰??)

 

 ふとみると、制服に「Fire Fighter」の文字。(なんで、消防士さん?Keが救急車を要請してから数秒しか経っていないのに?しかも消防士?カルフォルニアって消防士さんが救急もするの?)訳もわからぬまま答えているうちに母の意識が戻りました。一安心したのも束の間、母は嘔吐をしだし、相変わらず意識は朦朧としています。その母にされる質問を日本語にし、母の答えを英語にし、私の人生で一、二を争う大変な通訳作業を必死でこなしました。

 

(あとで振り返っても、この大変な状況の中、英語で助けを求め、日本語の全く出来ないKeと英語で話をし、母と助けてくれた消防士さん達との会話を通訳し、救急車の中での救急隊員への説明、病院での手続き、医師や看護師とのやりとり、などなど、ここのところの「錆び付いた」英語でよくがんばったと自分でもびっくりでした)

 

 その後、私は母と救急車で、残りの家族はそれぞれの車で病院へ行ったのですが、ここでも大変な事がたくさんありました。ER(救急救命室)は混雑していて、医師も看護師も大忙し、検査も診察も簡単には進みません。外との連絡は出来ず(病院内だから?)小僧達の連絡も簡単にはいかず、体調が悪いからなのかなんなのか、ちょっとおかしな話をする母の相手をしながらひたすら待ち続けました。

 今までに来たことのない場所で見た事のない光景を目にする中で(事故で運ばれてきた人もいて、側には保安官がいる、とか)、翌日ちゃんと日本に帰れるのか、母が帰れないなら私は残らねばならないけれど、予定の入っている小僧達は何とか帰さなければならないし、正直足手まといになりかねない父もできれば一緒に帰ってもらいたいし、となると荷物を詰めなければいけないし、とか。

 ERにいる誰か(看護師なのか誰なのかわからなかったけれど関係者)に頼んで一度私だけ外に出してもらって、小僧達と連絡を取れたときも、ほっとしながらも頭をフル回転させて今後の事を小僧達と話し合いました。

 最終的に、Jと話をして、Jfに小僧達と父を家に連れて帰ってもらい、JとKe姉妹が病院に残って私と母を待ってくれていました。

 

(長くなってしまったので、分けます。)

 

 両親とは別行動の4日目は、小僧2号のお楽しみ、本場のユニバーサルスタジオハリウッド!Second cousinのKeに連れられて、現地でKyの子どもM、B、Cと合流しました。

 

 私の一番仲良しの従姉であるCyの娘であるKe。私がCyのところに居候していた頃は、5歳の幼稚園児でした。一昨年、オンラインで彼女の結婚式に参加した時も感じましたが、この日も、一緒に朝ごはんを食べながら子ども番組を見ていたKeの車で出かける日が来るとは、嬉しいような自分が年取ったような複雑に気持ちになりました。

 小僧達はM、B、Cと何かにつけ話をしていて、本当に、いつの間にこんなに英会話ができるようになっていたのか驚くばかりで、「ああ、もう私が一人でがんばらなくても大丈夫」という嬉しい気持ちと(今までは全て私が通訳翻訳者だったから)、我が子達の成長が寂しいような気持ちで、ここでも「Bittersweet」な気持ちになったのでした。

 

 そして、5日目。事実上の滞在最後の日。この日は私にとって、とても特別な日でした。

 滞在していたKeの家、私が居候していた頃に従姉のCy一家が住んでいた場所に近く、なんと、その時通った社会人学校で知り合った親友達のAnとAlのうちのAnの家と数分しか離れていなかったのです。(クリスマスカードを送るときに気付いて訊いてみたら、Keが犬の散歩で毎朝Anの家の前を通っているくらい近い)

 その日の午後は、私達の滞在中に別の予定があって会えていなかったSecond cousinのJが訪ねてきてくれることになっていたので、私の自由時間はほんの2時間弱。その短い時間で、AnとAlに10年ぶり(Anは17年ぶり)に会うことができました。

 

 すごくすごく久しぶりに会ったのに、まるで昨日も学校で会ったように自然に話が盛り上がりました。もちろん、会えなかった時間を埋める報告もたくさんありましたが、それでも、本当に自然に楽しくおしゃべりができたのです。

 (私と彼女達が一緒の学校に通っていたのは2ヶ月。そのたった2ヶ月の間に、この二人と今は日本にいるM、その他のクラスメイトも本当に仲良くしてくれました。Mとこの二人は「一緒にいたのは数ヶ月でも、私達ととぽりんは親友だからね」と言ってくれます。Cyにも伯母にも「ほんの2ヶ月でどれだけ友達ができたの!?」と驚かれましたし、今でもこうしてつきあいがあることを喜んでくれています。本当にありがたいことです。ブログも含め実生活でもおつきあいのある人達を考えるとき、私は本当に人との「縁」に恵まれていると感謝の気持ちで一杯です)

 

 たしかに、滞在時間はとてもとても短かったけれど、母は「姉ちゃんを日本に呼んであげたいけれど、たとえそれが実現しなくても思い残すことはないわ」と言い、父も自分を慕う人達と楽しい時間を過ごすことができ、小僧達もジジババの面倒を見ながらだったとはいえ、自分達の英語力を確かめ、新しい人間関係を作り、貴重な体験を色々出来た5日間だったね、と最後の夕食をJ、Ke、Keの夫のJfと総勢8人で楽しんだのですが...

 

 この夕食後、全員にとって一生忘れられないことが起きたのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 8年ほど前から認知症の症状が出ていた伯父は、さらにその状態が悪くなっていました。今までなら私が行けば、言葉少なに、でもにっこりと出迎えてくれたのに、私の方を向いてもくれない状態でした。

 しかも今回は伯母の家には滞在できず、従姉たちは従姉たちで、色々と私達をもてなしてくれようとしたために伯母と伯父と一緒にいる時間はほんのわずかでした。

 

 3日目の夕方、私と小僧達は両親より一足先に空港寄りのKeの家に移動することになっていました。(小僧達は何よりジジババを優先してくれていましたが、だからこそ、出来そうな事は叶えてあげたいと思っていて、小僧2号の希望が「本場のユニバーサルスタジオに行きたい」だったのです。この短期間でそれをするとなると、ちょっとだけ両親とは別行動をせざるを得ませんでした)

 いよいよ伯父と伯母とはお別れの時、忘れられてしまったかも知れない恐怖があっても、やっぱり諦めきれずにいた私が「Uncle Hは私の事を覚えているのかなぁ」とふと漏らすと、「聞いてみたらいいじゃない?」と伯母。

 せっかくここまで海を越えて来たのだから、思い切って訊いてみよう!と伯父の側に行って声をかけました。

 

 「Uncle H, do you remember me?(H伯父さん、私の事、覚えてる?)」

 「Yes.I don't forget you. I don't forget everything.(もちろん。君のことは忘れないよ。僕だって全て忘れている訳ではないんだよ)」

 

 この瞬間の伯父はまさに私をかわいがってくれた伯父でした。

 

 その後の伯父はまた自分の世界に戻ってしまい、「また来るからね」と言った私に目を向ける事はありませんでした。

 

 伯母も、頭はとてもしっかりしていて、もしかしたら、妹である私の母よりもしっかりしている感じすら受けましたが、足元がおぼつかなくなるときもありましたし、昼寝をしてしまう(これは本当に今までの伯母にはあり得ないことなのです)こともありました。

 伯母にはなんとかもう一度日本に来てもらいたい、心底そう思いますし、もう一度、もう一度でいいから伯父とゆっくり過ごしたい(今回は両親、特に母がメインだったので、私の自由はあまりなかった)と切実に思いました。でも、「これが最後かもしれない」という気持ちも心のどこかにありました。

 

 コロナ禍のせいで、会えぬままかと思っていた伯父・伯母と会えてとても嬉しかった気持ちと、これが今生の別れかもしれないというなんとも言えない切ない気持ちが、旅行の間中、常に入り混じっていました。