Second cousinのJが連れて行ってくれたメキシカンレストランのトイレでそれは起きました。

 夕食後、滞在先のKeの家に帰る前にKeの夫のJfが寄るところがあるという事で、私と母は念のためトイレに行ったのですが...

 滞在中、食事が合わないこともあって体調が万全でなかった母が突然意識を失って倒れたのです。

 白目を剥いて私に倒れ込んできた母。なんと息をしていません。何が起きているのかわからないまま、「Help! Help!」必死に助けを呼びました。

 私の叫びを聞いて、トイレに飛び込んできたのは小僧2号。

 

 「お母さん、横向きに寝かせて脈をとって!」

 

 トイレの床でしたが気にしている暇はありません。眼を開けたまま意識をなくした母を寝かすのに手間取っている間、小僧2号が脈を取っていたとき、Keがトイレに来て、

 

 「どうしよう??911(米国の救急)を頼んだ方がいい?」(米国は医療費が驚くほどに高いので、日本なら間違いなく救急車を呼ぶような時でも呼ばないことが結構あるらしい)

 

 「そうして!」

 

 万一、母がここで亡くなるようなことになっても、とりあえずは病院へ連れて行かなくては、と思ったのです。

 そんな話をしている間、2号が言いました。

 

 「お母さん、おばあちゃんの口が動いている!」

 

 たしかに母の口が動いています。でも、それは痙攣とも取れるようなものでした。

 

 「お母さん!お母さん!」

 

 必死に母に声をかけますが、反応がありません。

 そんなところへ突然どやどやと制服を着た4、5人の男性達がやってきました。

 

 「大丈夫、落ち着いて。ご婦人(Madam)、どうされましたか?」

 

 中の一人が母に声をかけたり、脈を取ったりしだし、同時に私に質問をしてきました。

 

 「どういう状況ですか?この方は何歳?あなたの家族ですか?病歴はある?倒れたとき頭は打った?」 などなど。

 

 訊かれる事に答えながら私の頭は混乱していました。

 

 (この人達、誰??)

 

 ふとみると、制服に「Fire Fighter」の文字。(なんで、消防士さん?Keが救急車を要請してから数秒しか経っていないのに?しかも消防士?カルフォルニアって消防士さんが救急もするの?)訳もわからぬまま答えているうちに母の意識が戻りました。一安心したのも束の間、母は嘔吐をしだし、相変わらず意識は朦朧としています。その母にされる質問を日本語にし、母の答えを英語にし、私の人生で一、二を争う大変な通訳作業を必死でこなしました。

 

(あとで振り返っても、この大変な状況の中、英語で助けを求め、日本語の全く出来ないKeと英語で話をし、母と助けてくれた消防士さん達との会話を通訳し、救急車の中での救急隊員への説明、病院での手続き、医師や看護師とのやりとり、などなど、ここのところの「錆び付いた」英語でよくがんばったと自分でもびっくりでした)

 

 その後、私は母と救急車で、残りの家族はそれぞれの車で病院へ行ったのですが、ここでも大変な事がたくさんありました。ER(救急救命室)は混雑していて、医師も看護師も大忙し、検査も診察も簡単には進みません。外との連絡は出来ず(病院内だから?)小僧達の連絡も簡単にはいかず、体調が悪いからなのかなんなのか、ちょっとおかしな話をする母の相手をしながらひたすら待ち続けました。

 今までに来たことのない場所で見た事のない光景を目にする中で(事故で運ばれてきた人もいて、側には保安官がいる、とか)、翌日ちゃんと日本に帰れるのか、母が帰れないなら私は残らねばならないけれど、予定の入っている小僧達は何とか帰さなければならないし、正直足手まといになりかねない父もできれば一緒に帰ってもらいたいし、となると荷物を詰めなければいけないし、とか。

 ERにいる誰か(看護師なのか誰なのかわからなかったけれど関係者)に頼んで一度私だけ外に出してもらって、小僧達と連絡を取れたときも、ほっとしながらも頭をフル回転させて今後の事を小僧達と話し合いました。

 最終的に、Jと話をして、Jfに小僧達と父を家に連れて帰ってもらい、JとKe姉妹が病院に残って私と母を待ってくれていました。

 

(長くなってしまったので、分けます。)

 

 両親とは別行動の4日目は、小僧2号のお楽しみ、本場のユニバーサルスタジオハリウッド!Second cousinのKeに連れられて、現地でKyの子どもM、B、Cと合流しました。

 

 私の一番仲良しの従姉であるCyの娘であるKe。私がCyのところに居候していた頃は、5歳の幼稚園児でした。一昨年、オンラインで彼女の結婚式に参加した時も感じましたが、この日も、一緒に朝ごはんを食べながら子ども番組を見ていたKeの車で出かける日が来るとは、嬉しいような自分が年取ったような複雑に気持ちになりました。

 小僧達はM、B、Cと何かにつけ話をしていて、本当に、いつの間にこんなに英会話ができるようになっていたのか驚くばかりで、「ああ、もう私が一人でがんばらなくても大丈夫」という嬉しい気持ちと(今までは全て私が通訳翻訳者だったから)、我が子達の成長が寂しいような気持ちで、ここでも「Bittersweet」な気持ちになったのでした。

 

 そして、5日目。事実上の滞在最後の日。この日は私にとって、とても特別な日でした。

 滞在していたKeの家、私が居候していた頃に従姉のCy一家が住んでいた場所に近く、なんと、その時通った社会人学校で知り合った親友達のAnとAlのうちのAnの家と数分しか離れていなかったのです。(クリスマスカードを送るときに気付いて訊いてみたら、Keが犬の散歩で毎朝Anの家の前を通っているくらい近い)

 その日の午後は、私達の滞在中に別の予定があって会えていなかったSecond cousinのJが訪ねてきてくれることになっていたので、私の自由時間はほんの2時間弱。その短い時間で、AnとAlに10年ぶり(Anは17年ぶり)に会うことができました。

 

 すごくすごく久しぶりに会ったのに、まるで昨日も学校で会ったように自然に話が盛り上がりました。もちろん、会えなかった時間を埋める報告もたくさんありましたが、それでも、本当に自然に楽しくおしゃべりができたのです。

 (私と彼女達が一緒の学校に通っていたのは2ヶ月。そのたった2ヶ月の間に、この二人と今は日本にいるM、その他のクラスメイトも本当に仲良くしてくれました。Mとこの二人は「一緒にいたのは数ヶ月でも、私達ととぽりんは親友だからね」と言ってくれます。Cyにも伯母にも「ほんの2ヶ月でどれだけ友達ができたの!?」と驚かれましたし、今でもこうしてつきあいがあることを喜んでくれています。本当にありがたいことです。ブログも含め実生活でもおつきあいのある人達を考えるとき、私は本当に人との「縁」に恵まれていると感謝の気持ちで一杯です)

 

 たしかに、滞在時間はとてもとても短かったけれど、母は「姉ちゃんを日本に呼んであげたいけれど、たとえそれが実現しなくても思い残すことはないわ」と言い、父も自分を慕う人達と楽しい時間を過ごすことができ、小僧達もジジババの面倒を見ながらだったとはいえ、自分達の英語力を確かめ、新しい人間関係を作り、貴重な体験を色々出来た5日間だったね、と最後の夕食をJ、Ke、Keの夫のJfと総勢8人で楽しんだのですが...

 

 この夕食後、全員にとって一生忘れられないことが起きたのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 8年ほど前から認知症の症状が出ていた伯父は、さらにその状態が悪くなっていました。今までなら私が行けば、言葉少なに、でもにっこりと出迎えてくれたのに、私の方を向いてもくれない状態でした。

 しかも今回は伯母の家には滞在できず、従姉たちは従姉たちで、色々と私達をもてなしてくれようとしたために伯母と伯父と一緒にいる時間はほんのわずかでした。

 

 3日目の夕方、私と小僧達は両親より一足先に空港寄りのKeの家に移動することになっていました。(小僧達は何よりジジババを優先してくれていましたが、だからこそ、出来そうな事は叶えてあげたいと思っていて、小僧2号の希望が「本場のユニバーサルスタジオに行きたい」だったのです。この短期間でそれをするとなると、ちょっとだけ両親とは別行動をせざるを得ませんでした)

 いよいよ伯父と伯母とはお別れの時、忘れられてしまったかも知れない恐怖があっても、やっぱり諦めきれずにいた私が「Uncle Hは私の事を覚えているのかなぁ」とふと漏らすと、「聞いてみたらいいじゃない?」と伯母。

 せっかくここまで海を越えて来たのだから、思い切って訊いてみよう!と伯父の側に行って声をかけました。

 

 「Uncle H, do you remember me?(H伯父さん、私の事、覚えてる?)」

 「Yes.I don't forget you. I don't forget everything.(もちろん。君のことは忘れないよ。僕だって全て忘れている訳ではないんだよ)」

 

 この瞬間の伯父はまさに私をかわいがってくれた伯父でした。

 

 その後の伯父はまた自分の世界に戻ってしまい、「また来るからね」と言った私に目を向ける事はありませんでした。

 

 伯母も、頭はとてもしっかりしていて、もしかしたら、妹である私の母よりもしっかりしている感じすら受けましたが、足元がおぼつかなくなるときもありましたし、昼寝をしてしまう(これは本当に今までの伯母にはあり得ないことなのです)こともありました。

 伯母にはなんとかもう一度日本に来てもらいたい、心底そう思いますし、もう一度、もう一度でいいから伯父とゆっくり過ごしたい(今回は両親、特に母がメインだったので、私の自由はあまりなかった)と切実に思いました。でも、「これが最後かもしれない」という気持ちも心のどこかにありました。

 

 コロナ禍のせいで、会えぬままかと思っていた伯父・伯母と会えてとても嬉しかった気持ちと、これが今生の別れかもしれないというなんとも言えない切ない気持ちが、旅行の間中、常に入り混じっていました。

 

 

 

 

 80半ばをすでに超えた両親を連れてのカルフォルニア5泊7日弾丸ツアー、出発する日までの猶予がなく、日程が迫る中での予約だったので飛行機の座席がほぼバラバラ。かろうじて父と2号は隣同士、母と私は前後、完全一人は1号。こんな事は15回以上の渡米の中で初めての事でした。

 

 荷物も、時間がないのに、自分達の持ち物に加えて、向こうにいる家族や友人へのお土産がかなりの量となり(どうしても特に伯母にはあれもこれも持って行ってあげたいとギリギリまで増えてしまいした)、大きなスーツケースが5個!空港へ宅配したものの、空港で受け取ってから航空会社のカウンターに持って行くのが一仕事でした。

 

 さらに、フライト時間がいつもより結構長かった!ウクライナとロシアの戦争で飛行ルートが今までと違うとかで以前よりも1時間以上も長いのだそうです。時差も大きいカルフォルニアへの旅は年の割に元気な両親にも大変だったようです。(乗り物酔いのひどい2号にも辛かったかも)

 そんなこんなでロサンゼルス国際空港(LAX)に到着、ロストバゲージなどの問題もなく入国手続きも税関も済ませ、無事に出迎えのSecond cousinのKyとKeに会うことができ、途中Kyの子ども達3人も合流して伯母の家へと着きました。

 

 小さかったKyの子ども達M、B、Cはすっかり大きくなり(20歳、18歳、15歳)、16歳と22歳の小僧達と仲良く話していて(小僧達がここまで英語ができるとは思っていなかったので、かなりびっくりした)、Third Generation(伯母達第1世代、私達の第2世代に次ぐ第3世代)のつながりが強くなったなぁと嬉しく思うと同時に、もはや空港へ出迎えに来てくれる事のなくなった伯母と伯父の衰えと、何かにつけ1号と2号に面倒を見てもらっている両親の「老い」を目の当たりにしてとても切なくもなり、まさにBittersweetな旅が始まったのです。

 

 

 

 

 日々の忙しさに追われて、気付けばすでに9月、前回の記事から半年近くが過ぎてしまいました。これでは月刊どころか季刊にもならない...ガーン でも、備忘録としても残したいので書こうと思います。

 

 実はこの夏休み、6年ぶりにカルフォルニアの伯母と一族に会いに行ってきました。5泊7日、今までの最短記録の旅、ずっと会いたかった家族・友人との久々の再会となりとても嬉しいのと同時に、口には出せないけれど私の両親にとっては「最後の渡米」となるまさに

”Bittersweet”な旅でした。

 

 90をすでに超えている伯母と7月に米寿を迎えた母は7人いる兄弟姉妹の中でも仲良しだったので、この数年はまるで合い言葉のように「死ぬまでにもう一度会いたいわね」と電話で話していました。母はもちろん私達も伯母の「もう一度日本に帰りたい」という希望を叶えてあげたいと常日頃思っていました。

 けれど、コロナ禍のため移動が難しくなりその間に伯父の認知症は悪化、24時間目が離せない状態となってしまいました。伯父の面倒を見てくれる人も見つからないまま時だけが過ぎ伯母の帰国の目処がたたない中、今度は母が「死ぬまでにもう一度姉ちゃんに会いたいのよ。申し訳ないけれど、連れて行ってもらえない?」と言い出しました。

 連れて行くのは構わないけれど、夏は暑くて移動も大変だから来年の春くらいか?と考えていた私に、夏も迫ったある日、小僧2号が言いました。

 

 「お母さん、一刻の猶予もないと思うよ。行くならこの夏休みだよ」

 

 そしてさらに続けました。

 

 「お母さんが一人でジジババ二人を連れて行くのは無理だと思うから、俺の部活の合宿と発表会の間に一緒に行くよ。英語はまだ満足に出来ないけれど、ジジババの相手くらいならできるから、少しはお母さんも楽だと思う。」

 

 たしかに、80も後半の二人を私一人で連れて行くのは不安がありました。二人とも年齢の割にはかなり元気でも、体力的な衰えはあるし、わがままにもなってきたし。

 小僧2号の言葉に背中を押され、いよいよ私も決心をしました。英語が満足に出来ないといっても、書かれている事はそこそこ読める2号、とても頼れる相棒です。さらに、インターンの日程を調整して1号も一緒に行ってくれる事に。私はもちろんのこと、2号は大喜び!(「ほんと?ほんとに1号くん行けるの?あ~、安心した!嬉しい!」と小躍りせんばかりの喜びよう。がんばるとは言ったものの、自分だけでは頼りにならないと不安だったようです)

 

 ジジババを上手く(爆  笑)扱えて英語もできる最強の助っ人二人、とても心強い相棒達と80代のご老体を二人連れての5泊7日弾丸ツアーを決行することになったのです。