まただよ…
毎朝のように同じミスをする。
フライ返しを買い渋って、百均で買った調理用のヘラで、焼いた魚をひっくり返そうとして右手の小指をフライパンに当てる。寝起きのせいなのか加齢のせいなのか。それとも朝の冷気のせいなのか。しばらく経って気づいた時には小指は焼けている。
熱っ!
こんなことを繰り返していると、学習しない自分への情けなさが怒りへと変わり、自分だけならともかく周囲に向けられる。しかし、その怒りをぶつける相手も当たるモノもない。それに元々そんな性格ではない。
仕方ないか…ケチってないでフライ返し買おう。百均で。
そんな気分のまま部屋を出ると、手袋がないことに気づく。
どこかに落としたのか…
自分が歩いてきた道程を引き返すがどこにもない。部屋のドアを開けて中を覗くと、キッチンのテーブルの上にちょこんと手袋が…
そういえば昨日の夜、忘れないようにここに置いたんだった。でもそのことを忘れてこんなことになっちまった。
やれやれ…
手袋をして自転車に跨り、ゆっくりといつもの角に出る。交通指導員のおじさんがいるはずだ。僕から「おはようございます」と笑顔で声をかけると決めている。おじさんが子どもたちに挨拶をしている時は遠慮してこっそり小声で言う。優先順がある。
僕は「おはようございます」と笑顔で言った。おじさんは「おはようございます」と返してくれた。
よし、今日もいい日になる!!そう思った瞬間、僕の背中に言葉が届く。
「行ってらっしゃい。気をつけるんだよ!」
油断していた。不意のその言葉が背中から僕の心を貫いた。僕は振り返らずに「はい!」と返すのが精一杯だった。前方の風景が滲んだ。
「行ってらっしゃい」どれくらいぶりだろう。
「行ってきます」が空(くう)に響いて、その反響が心を少しずつ食い破る。言われなくなった「行ってきます」は、人とつながる欲求の骸となって、玄関に降り積もっていった。
1人で異郷に出て暮らし始めて、忘れていた言葉が僕の朝のドジを全て溶かした。
生きてみよう、そう思う。まだまだ生きていたい、そう思う。この異郷は優しい。そして温かい。
自転車を漕ぐ脚に力がこもる。さぁ今日も生きる。