大学生の頃、こんな記事を読んだ。
駅のホームに迷い込んだ野良犬が線路の上に落っこちた。誰も気にかけない中、電車が近づく音がして、最悪の状況をみんなが思い浮かべる中、うだつの上がらない中年のサラリーマンが線路に降り、その犬を追いかけ回してやっとのことで捕まえてホームに押し上げた。サラリーマンがホームに上がろうとすると電車が入ってきて、サラリーマンは亡くなってしまった。みんなが騒いでいた間にその野良犬はいなくなっていた。
僕はその記事を読んで、いたたまれない気持ちになって、ずっとそのことの意味を考えていた。取り憑かれたように、彼の背景を想像して大学ノートに記していた。奥さんや子どもがいたとしたら、美談にもならない間抜けな夫であり父親のことをどう飲み込んだらいいのか。周囲の噂話や学校での好奇の眼差しにどう耐えたらいいのか。人間を救っていたらヒーローになれたであろうが、1匹の野良犬を救って死んだ男の話は、どうしようもなくいたたまれない気持ちを僕の中に生んだ。胸の中に上手く解けない絡まりがあり、それが解けないまま澱のように心の襞(ヒダ)に絡まりついている。
僕は映画を観ても、演劇を観ても、なんだか胸の中にこの「切なさ」が宿る作品が好きなのだと気づくようになった。本当だったら真っ直ぐに絡まることのなかった複数の糸が、そうあって欲しくない事情で捻れて絡まり合う。それが心の襞を擦ることで透明な血を流し、目から溢れ出していく。
オデオン堂での何気ない会話。8月5日。広島に行くんだと伝え合う。僕たちは8月6日に広島で何があったか知っている。僕は客席で声が漏れるのを堪えていた。
「やめろ。行くな。そこに行ってはダメだ。」心が叫んでいた。僕は客席で口を押さえ、涙が頬から襟にまで流れ落ちていた。あの時の首に伝う涙が冷めてゆく感覚は今でも忘れない。井上ひさしさんの戦争を憎む心が生んだ残酷が僕を刺し貫いた。
五島列島から東京に憧れて出てきた男と女。男は自動車工場で純なところにつけ込まれ、搾取され、騙され、小突かれる。女は風俗に身を沈め、千円で男の股座に顔を埋めるどうしようもないブス(原作のままの表現)である。男は幼馴染の彼女を熱海などという時代遅れの海岸にデートに誘い、プロポーズをする。一瞬ときめく女だったが、自分の価値を釣り上げようとそっけない態度に出ようとするが、男が彼女が「千円女」だと呼ばれているのを知っていることを明かす。女は激昂する。男が故郷の相撲大会で、彼女だけが応援してくれて勝った一番の話をするが「忘れたばい」と嘯く。男は人生で唯一の栄光を踏み躙られ、腰紐で女を絞め殺す。この事件の真相を暴くために差別満載で、人権を踏み躙る言葉が行き交う捜査室。捜査員たちはこの男の無知で純な想いに打たれる。つかこうへいさんの作劇は、このお芝居に笑い転げて涙なんぞを流す客席を糾弾する。「あんたたちは差別や不公平に塗れた社会や人々の一部なんだ」そう突きつける。
切なさは僕を蹂躙し、心の襞を柔らかくしてしまった。涙は心の流す血なのだと認識する。僕は糾弾される側にいるのだと思い知る。
あの犬は…救われてホームから立ち去ったあの犬は振り返ったのだろうか。自分を救ったヒーローのことを顧みたのだろうか。