My Funny Valentine というジャズのスタンダードがある。ミュージカルの中のナンバーだったかな?とても素敵な曲で、切ない歌詞。チェット・ベイカーやマイルス・デイビスなど演奏者は数多い。


あ、マイルス・デイヴィスね。下唇、噛もうね…お約束ね。はい。


高校1年で、チロル一個という成果を得た(出会い頭の事故)僕も無事に2年生に進級し、3年生直前の「さぁ受験地獄が始まる」という緊張感漂う2月14日を迎えていた。


同級生の男子たちは「受験勉強に忙しくて、バレンタインどころじゃねえだろぉ」と、もはや祝日になるんじゃないかと言われる「恐怖の日」をハスに構えてやり過ごそうとしていた。それほど必死のぎこちない空間の中で「早く15日よ来い」という呪いの声が地響きのように教室に響いて…


え?地響き?いや違う、あれは…そうだ、廊下をドタドタ走る上靴の音だ。建てつけの悪いドアを勢いよく開ける音と同時に、女子にしてはドスの効いた声が教室に響き渡った。


「今上先輩!!」

「はい!!」


つい僕も大きな声で返事をしてしまった。あれは美術部の加賀美詩歩。1つ下の学年だ。僕が仲良くしてもらってるヒロシ先輩と同じ部活で、何度か話したことがある程度だった。


加賀美さんは大きな真四角の形をした箱を両手で抱えて黒板の前までやったきて、それを教卓の上にドスンと置いた。


加賀美さんはヒロシ先輩に片思いをしていた。それは先輩も気づいていて、僕もそれとなく感じるところはあった。しかし、クラスにいたほとんど全員のクラスメートたちはそんなこと知る由もない。僕は教卓まで押された。


「バレンタインのチョコを持ってきました!!」


教室内はどよめきと拍手と冷やかしの「(あえて音にすれば)ヒューヒュー」の声で溢れかえった。


「蓋の裏にメッセージを貼り付けてます。味は保証できませんが、お腹はこわしません!!」


そう言うと、クラスにいる全員に満面の笑みで「お邪魔しました」と言って教室のドアを閉めて、パタパタと走り去った。


男子全員が教卓に集まった。複雑な感情を抱えているのはすぐに伝わった。嫉妬、憎悪、殺意。「なんでお前が」という声が、僕の喉に突き付けられていた。


「手紙かなんかあるんだろ。開けてみようぜ」


「わかったよ。仕方ねえなぁ」


リボンを解いて、箱を開けるとそこにはマジックで書かれたメッセージがあった。


「バレンタインデー、おめでとうございます。これは愛の告白では決してありません。悪しからず。ヒロシ先輩に作ったクッキーの余りです。どうぞ召し上がってください!!」


それを誰かが音読しやがったせいで、爆笑が教室に広がった。みんなの心は1つになった。


「やっぱりな」「マーボーにバレンタインとかまさかだよな」「でも手作りだからいいよ」「ま、余り物だけどな」「うらやましいわ」「ありがとう、マーボー!最高の昼休みになった」


教室の後ろに集まっていた女子たちも、泣きながら笑っていた。その中の1人から聞こえてきた言葉が僕の心臓を刺し貫いた。


「かわいそう、マーボー」


僕はみんなと一緒に声をあげて笑った。みんなに分けてあげようとしたら「いいよ、それはもらえないよ。愛のチョコだもんな」ここでまた大笑い。僕の心の中はどしゃ降りの雨。


また性懲りも無くその箱を持ち帰って妹に見せた。妹は思いもよらない言葉を口にした。


「これがあのウワサの…」

「え?どういうこと?」

「加賀美さんから放課後『お兄さんに、今日チョコ渡しました。本命はヒロシ先輩ですけど。余ったので。』って言われたんだよね。」

「あ、あぁ、そうなんだ。ふーん。」

「正直で素直ないい人だなぁ』

「でもそれって時として残酷だよね」


妹の言葉で、義理チョコが完全にその正体を明かした。


そうなんだ。時として「正直さや素直さ」は残酷なんだ。


義理チョコは、本命へのチョコとの差別化を図り、更に、義理チョコさえもらえない階層を生み、男子を分断する。


女性が優位に立ち「忖度」という言葉で義理チョコの中身をさらに細分化していくのだ。


3月14日のお返しは、2倍だ3倍だ10倍だと相場を釣り上げ、もらったものとくれた人の顔を思い浮かべて、女性は値踏みをする。


妹は「供養、供養」と言いながら、パシパシとチョコチップ入りのクッキーを食べて「あのお姉ちゃん意外と上手だよね。」と言っていた。


そうだ、もう信用すまい。ヴァレンタイン・デイなんて。僕の下唇には血が滲み、歯形が刻まれているに違いない。


加賀美さんにもらったチョコの箱から「ギリギリ」とゼンマイが巻かれていく音がする。幻聴なのか、これは。僕の自意識が崩壊しようとしていた。


その時僕は、崩壊して飛び散った自意識を回収して正気に戻った。


「え?ちょっと待てよ。さっき、加賀美さんのお姉さんのこと、上手いとかなんとか言ってなかったっけ?」

「そうだよ、これ作ったの加賀美さんのお姉さんなんだって。加賀美さんから聞いた。本当素直。」


「素直って時として残酷なのね、ホントに…」


※もうお分かりだとは思いますが、これは事実です。紛れもなく僕に起こった実話でございます。登場人物は実在の人物です。名前は仮名です。僕はマーボー、まあ坊と呼ばれていたけど…