ある日。塾のドアを開けて、僕の個別指導の生徒が真っ青な顔で飛び込んできた。
「大丈夫?落ち着いてから始めようか」
僕が言うと、頷いた彼女は少し震えているようにみえた。
「先生」
「どうした?」
「先生は『見えない人』ですよね」
僕は瞬時に理解した。
「うん。幸か不幸か『見えない』派だと思う」
「よかった。少し聞いてもらっていいですか?」
「うん、それであなたの気が済むなら」
彼女は、普段からいわゆる「霊」が見えるのだと言う。家でピアノを弾いていると、必ず入り口のドアのところに少年が立って聴いているのだそうだ。
「あなたは大丈夫なの?霊に見られながらピアノを弾いてて」
「大丈夫な時もあれば、どんどんキツくなる時もあります。そんな時は弾くのをやめて別な部屋に行きます」
彼女は、県下でも名の知れたピアノの名手で、発表会に行くと他の演奏者との違いは、音を出す前にわかる。その会場にいる誰しもがそれを実感することができる。否、思い知ることになる。
彼女の名前と曲名が放送されると、会場は少しざわついてから一瞬で信じられないくらいの静寂に包まれる。
彼女がステージに登場してからピアノに辿り着き、楽譜を置いて椅子の高さを調整し、椅子に座る。それから彼女は、まるで自分に何かが降りてくるのを待っているかのように、長い時間じっと前を見つめて動かない。
観客は誰1人として咳払い一つしない。先ほどの静寂よりもまだもっと深い静寂があったのかと驚くほどの静かさが会場を満たす。
それでも彼女は手を上げない。静寂の深さは、僕が味わったことのない厳かな極に達する。
誰のタイミングでもない。静寂を支配していた暴君たる彼女がゆっくりとピアノを弾き始めると、会場の静寂が豊かな空気に変わるのがわかった。演奏の間、観客は皆、演奏者に対する敬意を持って彼女の紡ぎ出す音に身を任せている。僕もその1人だ。
僕たちは魔法を解かれて、心を取り戻した陶器の人形のように豊かな感情を思い出し、椅子の硬さも忘れ、ひたすら演奏が終わらないことを願っていた。
「傘をバスの中に忘れてしまって…」
彼女は小雨に濡れた制服と髪を、リュックから取り出したタオルで拭きながら、少しずつ落ち着きを取り戻して行った。
「学校のレッスン室で入試の課題曲を練習して、塾に行こうと思ってバス停でバスを待っていたら『ヤバいかな…』って少し予兆があって。それでも、バスに乗らないといけないから、バスに乗ったら私とあと1人女の人が乗ってて…」
「その人は?」
「前方のドアの反対側に座ってたんですけど…あ、その人は普通の人です。中年のオバさんって感じでした」
「…」
「バスが次のバス停で停まって、2人乗ってきたんですけど、そのうちの1人の女の人が、私とあまり変わらない年齢くらいかな…」
「違っていたんだね」
彼女は黙って頷くと、唇を少し噛み締めた。
「半透明で向こうが透けて見えるんです。生きてる人は詰まってる感じなんですけど、死んでるのにそのことに気づいていない人…霊って呼んでいいのかわからないんですけど」
「普通に?」
「整理券を取って、周りを見回して、空いてる席に座る。本当に普通で」
「整理券は取れてるの?」
彼女は首を横に振った。
「自分では取れてるつもりなんだと思います」
「街を歩いていると、その時の体調とか天気によるんですけど、見えるんです。街を歩いている人の中にどのくらいの割合だろう、半透明な人が混じってるんです」
僕は驚かなかった。他の生徒からも聞いたことがある。その子は「半透明」とは言わなかったけど、ひどく頭痛がして吐きそうになる時に、見えるんだと言ってた。
「今日は酷かったんです。私は早く着いてくれ!!ってバスの前の座席に捕まって下を向いているしかなくて。どんどん気分が悪くなって…」
バスの中の半分近い乗客の向こうの景色が透けて見えたらしく、胸がズンズン重くなっていくのを感じたそうだった。
塾の近くのバス停で降りる時に、慌てて傘を忘れたのだと言う。
その日はまともな授業にはならなかった。別な日に補講をしようと言うと「すみません」と丁寧に頭を下げた。ピアノの前に座る暴君の姿からは程遠い、普通の高校生の姿にホッとした。
彼女は母親にラインをして、迎えにきて欲しいと頼んだ。
「先生、今度先生のオーラの色についてお話ししましょう」と母様の車を待っている間に彼女に言われたのだが、「いや、遠慮しとく」と僕が言うと彼女は屈託のない笑顔で笑った。
車に乗る時に「先生は大丈夫ですよ」とこっそり言うと車の後部座席におさまった。母様にご挨拶をして、車を見送った。
「先生は大丈夫ですよ」と言う言葉の真意を確認しないまま、彼女は東京の音楽大学に旅立った。
※もちろん実話です。ふと思い出してブログにしました。夏にふさわしいテーマかと…