「先生、明日の授業休んでいいですか?」
「どうした?」
「叔父さんが亡くなって、葬儀なんです」
「お気の毒に。大変だけどしっかりお母さんを支えてあげるんだぞ」
「はい」
「補講の日程は、また打ち合わせよう」
「ありがとうございます」
大輔は両親が離婚し、母親と妹との3人暮らし。こんなにいい奴がいるのかと思うほど純粋で、真面目な若者だった。東京での葬儀から帰ってきた彼の個別授業の前に、僕たちは少し話す時間を持った。
「先生、プロレスって詳しいですか?」
「ああ、大好物だ」
「亡くなった叔父は三沢光晴なんです」
僕は言葉を失った。2009年6月13日広島県立総合体育館の試合中にバックドロップを受けて、帰らぬ人となった。僕のヒーロー喪失と大輔の叔父様の喪失がまさか重なるとは…誰が想像できただろうか。
二代目タイガーマスクとしてデビューした三沢さんも、怪我と故障で満身創痍の中、受け身が取れなかったことは確かで、悲劇としか言いようがない最期だった。
大輔の亡くなった叔父さんが三沢光晴さんだったとは想像もつかなかった。
「先生、霊の存在って信じますか?」
え?三沢光晴の話は?まさか…
「お葬式で三沢光晴さんに会ったの?」
「いいえ。会いたかったのに残念でした」
「そうか…残念だったね」
それからしばらくは、プロレスオタクの僕の話を大輔が笑顔で聞いてくれた。
「ところで、さっきの霊の話だけど…」
「ああ、その奥の教室…いつも授業しているところですけど、あそこヤバいですよ」
僕は驚かなかった。この塾に通っている別の男子から同じことを言われていた。「あの教室、出ます」
「やっぱり…」
僕の言葉に彼はゆっくり頷いた。
「東京から戻った日に、授業教室にテキストとか筆記具を忘れていたので、取りに来たんです。授業は終わっていて、部屋の灯は消えていました。僕は、自分が座っていた机がわかっていたので、ドアを開けてから壁の電灯のスイッチにも触らずに、暗い中前から3番目の真ん中の机に向かいました」
彼の声は少し強張り始めていた。
「そこにはヒトが座っていました。僕は息苦しさを感じました。真っ暗な教室の中でポツンと座っているそのヒトには生命がありませんでした。それはすぐにわかりました。僕はその黒い影のような体を避けるように机の下の空間に手を突っ込んで、自分の探しているものを掴みました。そのヒトはまったく姿勢を買えませんでした。僕はそのヒトが自分に取り憑くことを恐れ、大急ぎで教室のドアを後ろ手に閉めました。塾の扉を体で押し開けて、階段を飛ぶように降りて、母親の車の後部座席に飛び込みました」
大輔はそこで一度息を継いだ。
「大丈夫だったのか?」
大輔は小さく頷くと「車の中で震えていたから、母は勘づいたのだと思いますが、特に何も訊きませんでした。慣れているというか、まぁいつものことなので」
大輔は家に戻ってからすぐにベッドに入ったが、ガタガタ震えていたのだという。そして午前0時キッカリに胃の中のモノを全部吐ききったのだそうだ。
彼は、中学卒業後に最難関の進学高に合格し、僕の働く塾に入塾した。その時に「体が弱くて、原因不明の病気で入院していた」と母様から説明を受けていた。
彼はその時のことを振り返った。
「病院では毎晩廊下で大騒ぎしていて眠れなかったんです。霊たちがマーチングをしているというか、信じられないくらいの音が一晩中鳴り響いて、どんどん体調が悪化して入院が長引いたんです。あれは本当にまいりました」
「僕はついてないだけなんです。たぶん、心が弱いからつけ込まれるんですよね。霊が寄ってくる。頼られやすいんだって母に言われます。先生、いつこんなこと終わるんですかね」
大輔は少し諦め気味にそう言うと、大きく一つため息をつくと「補講お願いします」と言って、スポーツバッグからテキストと筆箱を取り出した。
僕は頭のどこかが少し痺れたように感じていた。ポケットに忍ばせていた頭痛薬を口に入れて、水で流し込んだ。
「さあ、始めようか」