しばらくブログから遠ざかっていたら、いつの間にか秋の虫の声が聞こえるようになっていて、だけどまだ日中は、蝉が最後の力を振り絞っている。


いつもだが、そんな蝉に、もっと泣け!もっと叫べ!と呟く私。


空を見上げる時間も最近やっと少し増えて来て、今は夏の雲と秋の雲の饗宴。


あっちを見てまだ夏なんだ!こっちを見てもう秋なんだ!


車に乗ると、これまでの設定温度では少し肌寒い時もあって、オッケーGoogle温度を上げて!


日差しが強い時は、オッケーGoogle温度を下げて!


夏も秋も未満の今。


しかし、最近の車って便利なのか不便なのかよく解らない。


昨日は初心者マークのテスラを見かけたが、ある意味、今の若者にとってはパネル操作の方が便利なのかも知れないが、昭和生まれの私は、本当にあなたに全部お任せで大丈夫なわけ?といつだって疑ってみる。


便利でもあり不便でもあり、やっぱりなんだか全てが未満。


そう思うのは、きっと私が未満な人間だから。


未満の極地にいる私。


湊かなえの、もし誰かの人生と交換することになった時、手放したくないと思ったことがあなたの宝物、という言葉。


これを目にした時、自分の人生でこれだけは手放したくない、強く硬く握りしめていたいものなどないと気づいてしまった。


私のこれまでの人生って、所詮こんなものなんだと俯瞰的に思ったが、それは決して悲観を含んではいない。


満たされたことなどない、といつだって不満分子の私の心の根底に潜んでいるもの。


未満が身に付いてしまっている。


ドイツの哲学者、フリードリヒ・ニーチェが提唱した概念である、アモール・ファティ。


ラテン語の、運命を愛する、運命愛を意味する哲学用語だが、人生における良いことも悪いことも、全ての必然的な現実を自分のものとして積極的に肯定し、愛し抜く生き方を指す。


避けられない失敗や苦難、変えられないものにただ嘆いたり諦めたりするのではなく、自分の人生に不可欠なものとして丸ごと受け入れる姿勢のことである。


私の中に、アモール・ファティがふつふつと湧き上がる日は来るのだろうか。


この先、手放したくない大切な宝物に出会うのだろうか。


だけど、人生って不思議の限り。






7月、またまた京都へ。


真夏の京都の暑さは殺人級。


だけどどうしても行ってみたくて、思い切って行って来た下鴨神社の御手洗祭り。








どうしても叶えて欲しい願い事をした。


この後、近くにある有名なみたらし団子を食べてみたくて行ったが、3時間の待ち時間なんて無理。


陽射しが痛くて、UVクリーム増し増しでも無理だから。笑


タクシーの運転手さんに連れて行ってもらった晴明神社まで、一条戻橋の逸話を聞かせてもらってすごく興味深かった、あの世とこの世。




またタクシーに乗って京都駅に行って、いつものパンを買ってさっさと帰宅。





昨日は滝を見た。



この世にいるということは、錯覚との戯れなのかも知れない。


顔に当たる飛沫に、いつまでもいつまでも哀しかれ、と言われているようだった。