能登半島地震のことを思ってなのかなあ?日本学術振興会の授賞式で、加賀友禅をお召しになった次男の宮のお妃さま。

マスコミ(女性自身)によると、この日、3月でしたが、式典が始まる前に、お妃さまに同行していた職員が取材陣のところへ『今日、妃殿下は加賀友禅の着物をお召しになっています』と伝えに来た、とのこと…!能登半島地震への被災地を思われてのご選択だったとのことなんですが…。

 

もしそれが本当だとすると…それって、自分から事前に言う??・・・という疑問が・・・(^^;

 

自分から言っちゃうと、なんだかそれをアピールする思いのほうが大きく見えて、う~むと思ってしまう人が多い気がするのだが。こういうのは言わないでいて、見ていたほうが気づく、ってのがよきパターンのような気がするのですが…。それに加賀友禅って見たらすぐ誰でもわかるし、あえて言わずともすぐに明らかになることでもあるのに、なぜそれを事前に言うのだろうか。報道が事実だとするならば。

 

そして石川県民からするとですね…被害が大きいのは「能登」であって、「加賀」ではないんです。加賀友禅に携わっているのは金沢とか加賀地方の人たちなはずで…

「能登」ではないものをお召しになって、能登の被災地を思っています、は…無理があるのでは。というかこの宮家にはそういったことを教えてくれる人がほんとにいないような気がしています。よき助言をしてくれる方がいても、いたとしても、排除されてきて、今はイエスマンしかいないのかなあ。だってそうじゃないとぼっちゃんの羽織袴事件なんて起きるはずがない。

 

能登だったら、能登上布があるんですが、それは麻だし、こうした授賞式には着れないのはわかります。能登上布を使ったアクセサリーなんかはあるので、そうしたものとを身に着けていたとしたら、おお!!お妃さま、能登上布のこと知ってらっしゃるんだ!!…と、もしかしたら尊敬し嬉しかったかも。能登上布の知名度ってそこまでないと思うので。だからこそ知っていたらおお・・・!!となる。

 

和装なら輪島塗の帯留なんかもあるし、それじゃあダメだったのかしらん?こういう公のお立場になると、身に着けるものひとつひとつにチェックも入るし、ダメ出しされやすい。ほんとに大変な立場だと思いますが、だからこそ、1人で頑張る、のではなく、多くの方の協力を得て、チームとしてやっていけばいいのではと感じます。

 

…が、お妃さまは、なんだかずっといつも孤軍奮闘しているような。そんなオーラを感じてしまう・・・頑張っているのは頑張っている。…が、他者を撥ねつけるような頑張りになっていないだろうか。

 

お妃さまは、先日金沢にいらしていたのです。全然知らず、ニュースで知りました。わが母校の学生たちとお話されたり、医療従事者とお話されたりしたそうで。能登には行ってないです。あくまで金沢で、学生たちや医療従事者とご歓談。

この時のニュース映像で…お妃さまの表情がなんだか硬い、というか、ちょっと…なんともいえない感じを受けました。

自然な表情、というよりは、必死に頑張って作っているような表情。ニコニコ笑顔をしようとされて実際してはいるけど、でも…見ていてつらくなる感じが。

必死にやらねば、こなさねば。きちんとやらなければ。…その繰り返しだったのかなあ。この数十年。傍らに、優しく寄り添ってくれる人がいたらまたちょっと違ってたかもしれないけど、でも…夫君は、寄り添うタイプの人ではない。思いっきり自由人だし・・・。

 

この映像を見る限り、体調もどうも思わしくないようなオーラを感じてしまいます。エトセトラジャパンさんによると、あの宮家はなぜか、高額な薬や機械を購入しているそうなのです。電子内視鏡装置を購入した記録があって(記録にあります)、病院じゃないのに…なんでそんなものが必要なのか。そしてひと瓶何万もする高額な薬も購入していると。薬代だけで何百万です(これもくないちょ~の記録にあります)。インフリキシマブ、という薬や、大腸ビデオスコープまで…一体どなたかが、重い潰瘍性大腸炎なのか、リウマチなのか、それとも…。だってこの一つの宮家、ひとつのおうち、がこうして内視鏡装置やらビデオスコープやら購入って…異常に思えます。

 

お妃さまは金沢にいらして、なんと…布で作ったお花もプレゼントされたのです。

病院にも学生さんにも渡していました。

こ、これは・・・な、なんというか・・・・・。

思い出したのは、ご長女さんが降嫁されるときのあのピンクのバラ(チューリップという意見があったがバラらしいです)。あれも、お手製の布の花束でした。

生花じゃだめなんやろか。…と私は個人的に思ってしまいましたが。手作りの布製ブーケか…。そしてこれはお妃さまお一人で作られたのではなく、マスコミの報道でもありましたが、「お妃さまと職員の方々」によって、作られたものだそうで。

今回の花束も…お妃さまと、職員の方々が作られたのだろうか。

職員の方々…大変だなあと思ってしまいます💦コロナの時も、あの宮家は、ごみ袋から作った医療用ガウンを医療現場に届けていましたよね。職員の方たち、大変だっただろうな。なんてことを思いましたが…。

 

お妃さまは、「手作り」が好きなのだろうか。そして花束、もお好きなのだろうか。

 

被災地に花束。といえば…忘れられないのが、おばあさまの水仙。

これは…なぜそんなことをしたのか、やっぱり私には理解が難しい。がれきに花束。そして「枯らさないでね」と言い残していったおばあさま。

これを枯らさないようにするために、被災地の人が頑張るより…もっと他のことを頑張ればよかったのではないか。その頑張りと予算と時間を、他の困っている人たちのために使うのではいけなかったのか。

もし、輪島の朝市の焼け跡に…花束を手向けた人がいたら。私は輪島の人間ではないけど、でも…そんなもの、いらん。と思っていたような気がする。花は、枯れてしおれる。この悲惨な場所に、さらに枯れて悲しい姿になるものを、なぜ手向けるのか。花どころではない現実があるのに。花しか、捧げられるものがない、という経済状況の人でもなかろうに。

 

私だったら…しないかな。花は片づける人が必要だから。限界状況の場所では、余計な仕事は増やしたくない。それよりも直接何か自分ができることを探したい。

 

このおばあさまの水仙が頭の中に残っていて、それで、お妃さまは、手作りの布製の花束を持参した、のかどうかはわからないのですが…。

お妃さまは、ストレスが原因で体調を崩した部分が大きいとするなら、これは冷たい言い方になってしまいますが、そのストレスは…元をたどっていくとどうなのか、とも考えてしまいます。

 

ぼっちゃんに極度の情報統制。その厳しいコントロールに常に頭がいっぱいで、それは確かにストレスになる。ぼっちゃんをどう優秀(ゆうしゅう、を変換しようとして何度も憂愁、と出て来てしまったのは何かのサインなのだろうか)に見せるのか、いかに天皇にふさわしいかを見せるかに頭を悩ます・・・それも、そんなふうにあえて頑張らなければいけないわけではない。そのままを見せる、のストレスと、3割増しで優秀に見せようとする頑張りのストレスと、例えばマイナスを必死に100点以上に見せようとするのとでは…自分に降りかかるストレスは全く違ってくる。

 

ストレスは…自分が選んだ道の結果、ではないのだろうか。自分で引き寄せたものではないのだろうか…。

 

ぼっちゃんの進学も、あり得ないことを、道理が通らないことを通そうとするなら、それは確かにストレスが甚大になる。ご主人様が言ったように、「身の丈にあった」(←ほんとにこの言葉がここまですごいブーメランになるとは…)進学先、進学方法を選択するならば、そこまで大きなストレスにはならないと思えるのですが…。

 

因果律、という言葉があります。自分で蒔いた種は、自分で刈り取らなければならない。

 

誰かの幸せを心から祈れば、それにふさわしいものが返って来る。自分の欲で突っ走って、我欲のために他の人を踏みつけても構わなければ、それにふさわしいものが自分に返って来る。

 

その我欲に向き合えば…それを手放せば、自分に降りかかってくるものも必ず軽くなる。

 

でも、難しいのでしょうね。これはお妃さまだけの話ではない。こうした公人の方は、その生き方、在り方で、私たちに訴えかけるもの、気づかせるものが必ずあって、そうしたお役目を果たしてくれています。

 

お妃さまは…常に「自分ひとりで」頑張ってきた感、が強いのだと思います。

 

家のことも、子どもたちのことも、しっかり考えてるのは自分しかいない。自分がしっかりしなければ。夫は呑気で頼りにならない。だから私が。

 

・・・そういうお家って、いくらでもこの世にあると思います。パートナーが頼りにならないから、私がしっかりしなければ。そしてそれは自然と、「自分ひとりで頑張る」の強張った意識、エネルギーにもつながりやすい。

 

そこから、道は分かれます。自分ひとりでなんでも頑張らないといけない!!と肩ひじ張って、誰も頼れない、私一人だ、の意識で生きていくか、それとも、あっ私一人で生きてるんじゃない、こんなふうに助けもある…なんてありがたい。私は一人じゃなかった。という意識に目覚めるか。

 

もしかしてお妃さまは…いつも、「私は一人で頑張ってる、こんなに頑張ってる」が強くて、そしてそれゆえに、こんなに頑張ってるんだから、結果が欲しい、結果が出ないなんておかしい、という考えになっていてもおかしくはないのであり。

 

そしてちょっと結果が思わしくないと、混乱するというか…受け入れられなくなる、ってことはあると思います。頑張ってる私が報われないなんてありえない、受け入れられないと。そんなの嫌だ!!と。これはそしてお妃さまだけの話ではなく、私たちみんなにあることで。

 

ぼっちゃんが生まれた頃は・・・わが天下、みたいな意識はあったと思います。

もうこの子を見せびらかしたくてたまらなかった頃。満面の笑顔。自慢、プライド、のエネルギーが最高潮だったころ。

退院されたとき、今でもはっきり鮮明に覚えているのは、このおくるみでぼっちゃんのお顔があまりよくテレビカメラに写っていなかったのですが、それを察知したお妃さまは、ぼっちゃんを抱っこした手の親指一本だけを使って、ぐいっと!!おくるみを下に少し下げて、そしてそのおかげで?ぼっちゃんの顔がよりはっきり見えたという・・・。

 

あの時は・・・びびりました。いや…すごく、見せびらかしたいんだなと、そのエネルギーをこれでもかと感じて。しかも親指一本ですからね。まあ見事に下げたんですよ、おくるみを。すごいなと感心しました。抱っこしたまま角度を変える、でもなく、手の指全体を使っておくるみを下げる、でもなく、姿勢はそのままに、指一本でえいっと。すごい人だなと思って強烈に覚えています。

 

ただ…この、見せびらかしたくてたまらなかったはずなのに、2歳から急に情報規制がありえないほど厳しくなったのは…そうせざるをえない何か、があったからと考えるのが妥当でしょう。お妃さまの性格からして、ぼっちゃんが真にご優秀ならば、それを出したくて出したくてたまらないはず。

 

いろんな方が、ぼっちゃんの健やかな成長を願って、関わってきてくださったと思います。ぼっちゃんの療育に携わっていた方の匿名のコメントがネットに見られたこともありました。みんな、ぼっちゃんは心が優しい、お花が大好きな男の子だ、この子の良さをのばしていこう…と頑張っていた。坊ちゃんのことを心から考えていた。(でも、お妃さまはもっと言語を何とかしたいと、療育チームの、今は体幹を鍛えることが必要との意見と対立し、チームは解散させられたそう。チームだった方は、お妃さまの悪口は一切言わず、ただぼっちゃんが、いつも一緒にいたお兄ちゃんお姉ちゃんたちが急にいなくなって、さみしくないだろうか…とそのことを一番気にしていました←その部分を読んで、私は個人的にこの匿名コメントは本当のことだ、と感じました。ぼっちゃんのことを本当に思って気にかけていることが伝わってきたから)

 

決してお妃さまは一人ではなかったはず。…でもお妃さまからすると、周りの人は、「何もわかってない」ふうに見えたのだろうなと。

 

この子は将来こうなるんだから、それにふさわしい教育を!!結果を!!…その価値観を完璧に共有できる方がおられなかったのでしょう。だから孤独を感じながらやってきた。お妃さまはずっと孤独を感じてこられたのだと思います。

 

しかし、あえて言うなら、その、自分が求める価値観、育て方は、果たして…目の前の我が子、をそのまんま、ありのまま、見ていたうえでことだったのか。理想の子ども、頑張ってる私にふさわしい、これだけ頑張ってきた自分にふさわしい子ども、として…求めていた姿ではなかったのだろうか。

 

私はこんなにも孤独だ。…その孤独感は、果たして「真実」なものだったのか。

 

私たちは、ひとりではないです。スピリチュアルなことを言えば、生まれたときから私たちには、たくさんのスピリットたちがどでかい集団、チームとして、私たちについててくださっています。何があっても見放さないし、あたたかく見ていてくれる存在たちです。

 

もしかしてお妃さまは…いや、お妃さまだけじゃないですね、いろんな人たちが…自分は一人だ、1人でずっと孤独に頑張ってる、と思い込み過ぎて、頑なになってしまったのかも。そしてその結果…いろんなことへの「感謝」が、少なくなってしまっていたのかも。自分ひとりでこんなにも頑張ってる!!の思いが強すぎると、感謝、なんてなかなかできなくなってくるのです。

 

自分が一番頑張ってる。…と思っているので、何かへの「感謝」は、生まれにくくなる。その結果、人が離れていきやすくなる…人が集まりにくくなる…ますます不満を感じ、私一人しか頑張ってない、になる…そんなループがあったのだろうか。

 

「感謝」の思いって、何がすごいかというと、これって…「一人じゃない」を受け入れているエネルギーだと思うんです。感謝する、ってことは、自分以外の何か、自然界でも人間でも何であっても…自分以外の何か、に気づくから、受け入れているからこそ、生まれるエネルギーで。私は一人だ、だと、「感謝」は生まれない。だって全部自分の頑張りの結果だから。誰にも何からも助けてもらってない、というのが、「一人で頑張る」をやる、ということ。

 

なので「一人で頑張る」は、排除のエネルギーにもなりやすいと思います。みんなの存在があれば、「みんなに助けてもらいながら頑張る」になれる。

 

私も、お妃さま(のようなエネルギー)になっていた時期は長くあったと思います。みんなライバル。みんな敵。味方はいない。と本気で思い込んでいた時期。危ない道だったと思います。そしてその岐路に立っている人もこの世にはたくさんいる気がします。

 

自分ひとりだけ。の感覚から…抜け出せるか。自分はひとりじゃない、に気づくことができるか。そして、「感謝」の気持ちを思い出せるか。

 

どうにかして抜け出せるんだろうか。…それとも、抜け出せないまま、フェイドアウトしてしまうのか。

 

自分で引き寄せたんだろうなあ、と冷めた目でみる部分と、やはり、自分もそうだった部分があるので、気持ちはわかる気がする…という部分と。一人じゃないんだ、自分ひとりだけで孤独に頑張ってるんじゃないんだ、と、この方だけではなく、いろんな方が、気づいていければ。そんなことを思ったりします。

 

生まれて来てくれただけで…ありがとう。無事に生まれてきてくれて、ありがとう。この子と出会わせてくれて、ありがとう。・・・その時の気持ちを、忘れてはいけないんだよなあ。そんなふうに、自分に言い聞かせています。

穏やかなお顔だったぼっちゃん。

 

愛子さまと雅子さま。

…あかん。この写真見てると泣けてくる。やばい。・・・心からの…「生まれてきてくれてありがとう」という愛は、真実の愛は、時を経ても…そのエネルギーは写真にしっかり残っているし、今も息づいている。私たちに語り掛けてくる。そう感じます。

 

それでは皆さま、今日も明日も素敵な一日をお過ごしくださいアップ