昭和天皇の、食べ物に関するエピソード。

『殿下の料理番』にも書いてありましたが、いちごのババロアがお好きだったとのこと。お酒は一滴も飲めなかったそうです。

 

普段は侍医がカロリー計算などを完璧にしているので、お好きなデザートをお代わりすることもできないのですが、御用邸にいらしたときは侍医の目がないので、デザートがいちごのババロアだと知ると、食事で野菜やお肉を残され、ババロアをお代わりできるようにしていたとか。そして綿密なカロリー計算をしているから本来は食事を減らしてその分デザート、というのはしちゃいけないんだけど、でも御用邸にいるときだけは・・・大膳の方々も、どうやらこっそり・・・だったらしい。

 

お蕎麦も大好きなんだけど、アレルギー食材は(本人にアレルギーがないのに)食べさせて貰えず、月に一度だけで、その日を指折り数えて待っていらしたそう。


また、昭和天皇がお一人で地方に行啓に行かれた時、まだ日本にはなかったブルーベリーがその地方だけで作られていたことがあり。


陛下がお泊まりになられたホテルの朝食にブルーベリージャムが出され、陛下は大変喜ばれ、「このジャムは持って帰れるか?」と尋ねて1階の売店にあることがわかり、陛下は売店に行かれジャムをご覧になりながら、「皇后にも食べさせたい」と仰ったそう。

 

そこでスタッフさんが「いくつご所望ですか?」とお尋ねしたら、「他の者に迷惑にならないように一つだけで良い」、と・・・一つだけお求めになり、嬉しそうに持って帰られたそうです。

 

こ、これ・・・こうしたエピソードを聞けば聞くほど・・・申し訳ないけど、次男の宮ご一家の数々の噂と対照的すぎて・・・いろいろ思ってしまいますDASH!

 

弟である常陸宮さまは学者肌で、東大で研究をしたいという思いもあったそうなのですが、昭和天皇は、国民の席を奪ってはいけない、とお諫めになったとか・・・。あれ?次男の宮ご一家のぼっちゃん・・・お妃さまがなんとしても東大に入れようとしてますが・・・。そもそも筑附に入ってるのもお茶の水行ってたのも、国立ってのがおかしいんですけどね・・・座席が一つ減って国民のうち誰かが不合格になってるわけですし。

お小さいときから凛々しいお顔です。

良子さまとはとても仲睦まじそうなお写真がたくさん残っています。女の子ばかりが次々と4人生まれ、周囲からは側室を勧める声もあったものの、昭和天皇はそれを一蹴。

新婚当時から手をつないでお散歩をしていたり、御用邸では一緒にお風呂に入ったり、それまでの慣例を破って同じ寝室に寝るようにしたり・・・爪が伸びたのを侍医に指摘されて侍医が切ろうとしても、これは良宮がすることになっているから、と断ったというエピソードもあります。

おふたりは今の皇室を・・・どんな思いで見てらっしゃるのだろうか。

お歳を召されても・・・ご一緒によく散歩されていたそうです。

ご夫婦としてのお姿に・・・ほっとする。そんな家族像は、しっかり天皇陛下に受け継がれている気がします。

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さて、大人になってから、主婦として過ごしてから新たに何かに挑戦するというのは・・・ハードルが高く感じる人もいると思います。ところが世の中には、すごい例がありまして・・・子どもを育てる普通の主婦だったのに、医学部に入ってお医者さまになられた方がおられました!!

よこはまにしかげ小児科・アレルギー科院長の西影京子先生。

西影先生は、31年前は・・・3人のお子さんを育てる普通の主婦、だったそうです。

 

そのうち次女さんが重症のアトピー性皮膚炎、かつ食物アレルギーで、当時の主治医の先生からはもうこれは治せる範囲を越えている、治療法はわからないと言われてしまっていたそうです。そして西影先生は、治療法がないと言われ苦しい日々を送っていたそうです。

 

そんな中ご縁があって、次女さんの治療のためにアメリカに渡ることができたそうです。調べてみたら西影先生は神戸女学院大学の英文科卒業で、卒業後は神戸市で中学校の英語教員をしていたそうですね。

 

そしてニューヨーク州立大学小児科助教授のラップ先生の治療を受けたところ・・・次女さんは短期間で驚くほどの回復を見せたというのです。

 

それが・・・西影先生と免疫療法との出会いだったそうです。

 

この治療法を日本でも実現したい。という思いが強くなり・・・先生は、周囲の反対を押し切って、医師を目指して勉強を始めたそうです。すごすぎる・・・。

 

でも周囲は・・・そりゃ反対はするだろうなと。だって・・・文学部出身の、ふつ~のお母さん。主婦。なのに・・・。3人もお子さんがいて忙しいのに。というか文系学部から医学部って・・・受験戦争を知っている人間だったら、まず「無理やろ」と思ってしまう・・・。

 

お子さん3人を抱えての受験勉強。しかも医学部!!やっぱりめちゃくちゃ大変だったそうです。当時一番下のお子さんはなんと1歳半!!・・・・この状態で・・・医学部目指して受験勉強??・・・無理だ。無理過ぎる。と普通は思います。周りの人が反対しても全く異論はないです。

 

西影先生はそんな中、下のお子さんを保育園に預けている間の6時間を勉強時間にあて、最初の1年は公文で中1レベルの数学から始めたそうです。・・・そこからのスタートって・・・。それでもあきらめなかったんですよね。

 

ストレート合格は叶いませんでしたが、もうこれで最後、と決めた3回目の受験で・・・関西医科大の医学部に合格されたそうです。すごすぎる!!!

西影先生は、例えば母乳で育てられていて湿疹に悩んでいる赤ちゃんが来院したときは、お母さん自身の食事内容、特に甘いものを多く食べているかを聞くそうです。

 

すると「私の食べるものが、子どもの湿疹に関係があるのですか?」と言うお母さんが多いそうです。・・・やはり、食事内容が赤ちゃんの様子や機嫌、体調に関係してくるということはあまり世間では広まってないんですよね・・・。私も息子が生まれるまで知りませんでしたし。こういうことは学校で教えておけばいいのになあと思います。でもそしたら食事を変えるだけでいろいろ治ったり改善するものが出てきちゃうから、そんなことは製薬会社は決して許さないだろうから・・・公に教えるのは無理なんだろうなあ・・・泣くうさぎ

 

35歳の普通の主婦から医学部へ。すごい人もいるもいるもんだと思いきや・・・なんと、文系学部から医学部へと進んだ方はそれだけではなかった。

なんと・・・中央大学法学部、そして大手石油会社の営業職だった奈良原裕医師。大手企業での安定を捨て・・・1年半の浪人生活を経て、会社員時代の貯蓄もほぼ使い果たして、29歳で高知大学医学部に合格したという・・・こちらもすごい方です。そしてなんと今は菊名記念病院で心臓血管外科部長!!心臓外科医・・・!?文系学部からですよ・・・??しかも29歳からの心臓外科医・・・。なんてこったい。

 

奈良原医師は、石油会社では幅広い業務をこなし、上司からも一番上の評価をもらっていたそうで、社会人としては順調でした。しかし仕事は激務で、支店長室のソファをベッド代りにして何日も会社に泊まり込むような生活で・・・そんなワーカホリックな日々の中、いかに上司から褒められるか、を目標とする生き方に次第に違和感を覚えていったそうです。

 

それでも自分は間違ってはいない、と自分に言い聞かせてはいたものの・・・そんなある日、お兄さんが自殺してしまいます。

 

インタビューで彼はこう語っています。

 

 

「その理由を私はまったくわかりませんでした。というよりも、兄のことが何もわかっていませんでした。

 

いや、兄だけでなく父、母、祖母のことも。

 

目の前の一番大切な家族のことを気にしない生き方になっていることに気がつきました」

 

 

そして彼は・・・、27歳の9月、新卒で4年半勤めた三菱石油(現ENEOS株式会社)を退職する決断を下したのです。目の前の人のためになるような、そんな仕事をしたい、と。

 

学費が安い国立大の医学部を目指すことにしたものの、最初は、予備校に入っても8クラスある中で下から2番目のクラスだったそうです。そしてそのクラスから国立の医学部に受かる人はほぼいないと言われたクラスで・・・。彼は大学受験は内部進学で進んだので、そもそも受験勉強というものをしていなかったそうです。いやびっくり。そこからの医学部だったとは・・・。

 

10月に受けた模試はもちろんE判定。数学の偏差値は・・・38だったそうです!!

正確には数学の偏差値は37.9ですね(^^;

 

その年の受験はセンター試験も6割程度しか得点できず、医学部受験なんていうレベルではなかったとのこと。しかしその後、人生で一番勉強した、という日々を送ります。会社員時代にデータを使って顧客分析や商圏分析をしていたので、それにならって受験勉強も分析し、細かい勉強計画を作り、1週間ごとに計画と実績の差をチェック。

 

最初から限界ギリギリのスケジュールを組み、集中力を保ちながら勉強できるのは1日最大16時間だと判断、しかしその16時間を毎日続けるのは・・・本当に大変だったそうです。

 

そして奈良原医師、当時、なななんと同棲していた彼女がいたそうです!!

 

のちの奥さまになる彼女とは、奈良原先生が会社を辞めて、医学部浪人を始めると決めたころに付き合いだしたそうで、先生曰く「よくそんな人と付き合ったものですね(笑)」と・・・確かに・・・・。

 

高知大医学部を志望したものの、しかし模試はずーっとE判定で。これで医学部に受かるのは奇跡だろう、という中・・・その年のセンター試験は数学が難化したり、難解な現代文で大量失点する人が続出し、その結果、8割ちょっとの得点でなんとかボーダーラインを突破したのだそうです。

 

2次試験を受験し、その後合格の通知を受け取ったときは正直信じられず、何か採点ミスなどが発覚して、合格が取り消されるのではないか・・・そんな不安を、医学部合格から22年がたち、心臓外科医として手術を執刀している今ですら、その不安に襲われることがあるそうです。

 

20年以上たっても「合格は間違いだったのかも」「取り消されるかも」と思ってしまうほどとは・・・それほどのストレス、プレッシャーの中にいたということなんですね・・・。

 

医学部時代、心臓手術に一番心惹かれるものの、心臓外科医になるのは30歳以下が望ましいと学会で言われており。体力的な問題もあるし、一人前になるまでに時間もかかるゆえだそうなのですが、一度は諦めかけた奈良原先生ですが・・・やはり諦めきれず、研修先の病院を変更したそうです。

 

会社を辞めて医師を目指すときも、研修医後に外科へ進むときも、そして心臓血管外科医を目指すときも、家族・友人・知人のみんなに反対されたそうです。

 

「今更そんなこと出来るわけがない」と思われたのだろうと。

 

しかし・・・彼は諦めなかった。

 

奈良原医師はこうインタビューで語っていました。

 

「私はこれまで、みんなが右を向いたら右を、左を向いたら左を、少しでも早く向こうとする人間でした。

 

でもあるときから、人が右を向こうと左を向こうと自分の見たい方向を見るようになりました。

 

会社を辞めて、医師を目指そうと思ったところが、人生の転換点だったように思えます」

 

・・・きっとこの方にとっては、心臓血管外科医が天職、というよりも、自分のしたいことを、どんなに反対されても無理だと言われても貫く。ということが・・・人生のテーマだったのかもなあ、という気がしました。

 

そのものの職が天命、使命、というよりも、反対されても諦めない。自分の思いを守る。ということが・・・人生のテーマ、カルマなことも多いと思います。

 

なので私たちって、ベストな適職を探そう、占おうとしても、それだけだと実は人生の課題、テーマって見えにくくて・・・進む中で、人生のテーマに巡り合い、課題に取り組んでいく、ってことが起こるのだと思います。

 

いくら、「そんなの無理だよ」「今更できないって」「実力が足りないよ」って言われても・・・でも、自分がそれを目指したいなら、目指してみる。もしかしたらそれが・・・過去生のカルマを消してくれることなのかも?・・・いやでもそういう人って、いると思うのです・・・。

 

自分の思いを大切にする。・・・それって、自分への大きな大きな愛ですよね。

 

それでは皆さま、今日も明日も素敵な一日をお過ごしくださいアップ