愛子さまって・・・優秀だという噂がずっとありましたが、公開されるお写真や動画からも、やはり伝わってくるものがあります。

比べちゃいかんのは承知なのですが・・・申し訳ないですが、ぼっちゃまの動画と比べるとすごくわかりやすいのです。愛子さまは、実際に文字を書いている動画があります。でもぼっちゃまは・・・字を書いているところがない。

 

ぼっちゃまは、お父さまが本を手に何やら話しているのをじーーっと聞いているだけ。5分10分、ずっと・・・聞いてるだけ。ペンも持たず、ノートもメモ用紙も何も手元になく、ただただ・・・聞いているだけ。

 

そして、以前の動画で衝撃的だったのが・・・指をずっとくるくる回している。これは・・・勉強好きな子はやらないです。手持無沙汰とか暇だとやる行為です。

何より愛子さまと天皇陛下の動画って・・・話してて楽しそうなんですよね。知識の吸収を楽しんでおられるんだろうなあ、という雰囲気があります。

カラフルなペンを使って、ノートに何か書き込んでいた時もありました。小学生のときだったか、平安時代の動物たちについて調べたこともあったとか。そういうことがいろいろ情報として出されています。

 

動画の愛子さまと陛下のご様子では、いつもお手元にはたくさんの資料らしき本や冊子が。参考文献、資料がたくさん必要なのでしょう。ぼっちゃまは・・・・たった1冊の本、お父さまが示している本が机の上にぽつんとあるだけ・・・。

 

私が、愛子さまは優秀だ、と確信したのは、中学卒業時に少し報道陣に向かって話したときの動画を見た瞬間です。そのときの話し方、声のトーン、雰囲気・・・あっ、これは先生が気に入るタイプの子だ、とわかったのです。勉強が得意な子、真面目な子だなとわかりました。

 

それは教員として働いてきた経験からくるカン、のようなものでもあります。なんとなく、いわゆる勉強ができる子、ってのはほんとになんとなくなのですが・・・わかる部分があるのです。

 

愛子さまから伝わってくるオーラ、エネルギーというものももしかして感じ取ったのかもしれません。そして、成年会見で・・・全国民が確信しましたよね。ああ、やはり愛子さまのご優秀の噂は本当だったのだ、と・・・。

 

勉強ができるできない。頭が良い悪い。の差はもともと人にはあります。

 

それは、人それぞれ、例えばテニスの才能がある子とない子、そこそこの子、がいるのと同じです。先生の話を1回聞いただけでぱっと覚えられる子もいれば、何回聞いても覚えられない子もいます。

 

お手本を示されたら、ダンスでもバレエでもさっと上手にできちゃう子もいれば、なかなか振りが覚えられない場合もあります。

 

野球をやらせたら全員が同じような上達をするのではなく、ばらつきがあります。

 

勉強は、それが「競争」の話であれば、もともとの才能、資質の差は当然あります。全員が努力して全員が同じような高いレベルで結果を出せるわけではありません。それは、テニスの英才教育をすれば全員がプロテニスプレーヤーになれるわけでもないのと一緒です。

 

まず・・・学校の勉強でいえば、向き不向きは存在しています。それが前提としてあります。でも努力しろ、は行き過ぎたら暴力になります。それは、男なんだから会社で絶対出世しろ、出世しないのは努力が足りないせいだ!!と言われたらつらいのと似てるだろうし、女だから料理は絶対上手になれ、下手なのは努力不足だ、もっと努力しろ!!・・・と言われてつらくなるのと似てるかも。

 

努力したら、ちょっとはマシにはなるかもしれません。料理も、努力したら、少しはマシになるかもしれません。・・・でも、好きならそれはできるけど、好きじゃないのに・・・努力の強要は、してはいけないし、する必要もないと思います。

 

何より・・・勉強って、楽しい世界です。面白いんです。笑顔になれるんです。わあ面白い、へえ、知らなかった・・・の連続です。勉強って・・・本来、「光」がいっぱい感じられるんです。わからなかった部分がわかった時の生徒って、それこそ「あっわかった!」という光がぱあっ・・・と出たりするのです(目に見えるわけではないですが・・・)。だから「好き」でやるのが大前提だと私は思っています。

 

無理やりやらせるのは・・・無理に高学歴を得させようとすることで生まれるひずみは・・・次男の宮さまのところのぼっちゃまが、痛いくらいに私たちにわかりやすく示してくれている。そんなふうにも思えるのです。

 

皇室は日本国民の代表です。市井の私たちに潜む問題点を、わかりやすく見せてくれる・・・そんなお役目も担っているのでは、と思うのです。

 

自分はもっと、頭が良かったらいいのになあ。そんなふうに思ったことがある人もいるでしょうか。

 

しかし、スピリチュアル的観点から言うと、私たちは、自分にとってちょうどよい頭のよさをあたわって、生まれてきています。

 

なのでいわゆる頭がいいというか、勉強に才能を発揮することが上手にできそうなスペックが、魂の目的、お役目、テーマ、課題に絶対必要ならば・・・頭のいい肉体を持って生まれることができるように、そうした両親とか環境を選んで生まれてきます。

 

頭が特別よくなくても、人生のテーマ、目的、課題、カルマ解消ができるなら、特別よい頭のスペックは必要ないので、あたわりません。宇宙は無駄なことはしないのです。必要なところに、必要なものがあたわっています。

 

頭がいいと得?・・・それは場面によってはあるかもしれません。しかし、繰り返しになりますが、その人の人生のテーマ、目的、お役目、課題・・・・そうしたものに、頭の良さがどうしても必要ならば、そうした頭、をあたわって生まれてきます。日常の多少のラッキーアンラッキー?程度のことって、人生のテーマ、魂の成長においては・・・取るに足らないことです。

 

先生の言うことを1回で覚えられたら得じゃんとか、成績よかったらテスト勉強しなくていいし楽とか??・・・ではありません。頭がいい、ならば、同時に、背負うものも増えてきます。お得~、だけではない側面があります。

 

優秀な人、できる人は、背負わされるものも増えます。成績優秀だったら、もしかしたらやりたくもない生徒会活動とか委員会会長とか、なにかしらやらされる機会が増えるかもしれません。そして長となると、みんなの意見をまとめたりとか、書類を作ったりとか、他の子がしなくていいことを任されたりします。

 

何かができる、上手、だと周りが判断したら・・・じゃあこの子に任せよう。というものが増えたりします。

 

何かが得意だと、その分求めるもとが周囲も自分も高いレベルになったり、苦悩、苦心する機会も増えます。

 

例えば部活動勧誘ポスターは、部員の中で絵が得意な子が「描いといて」と任されるかもしれません。あるいは成績がいい子、勉強が得意な子がなんだか押し付けられるかもしれません。

 

もともとポスターを描くのが好き、どんなポスターでも描きたい、って子ならいいのですが、頼まれた全員がそうとは限りません。ほかに割きたいことがあるのにそれを頼まれて、ちょっと面倒だな・・・と思うかもしれません。

 

真面目な子は、「ちゃんと描かなきゃ」と思って、必死にいいものを仕上げようとするかもしれません。これくらいでいいかな?いやダメだ、もっとちゃんとしたものにしないと先生に怒られるかも、みんなから不満に思われるかも・・・と、自分で自分にプレッシャーをかけてストレスになる子もいるかもしれません。ポスターを頼まれなかった子は、時間も削られることなく、時間を自分の好きに使えます。そして何のプレッシャーも感じません。

 

頭のいい子、は、先生から、余分な仕事とか役割とか用事とかを頼まれることも多いでしょう。この子は真面目だからこれを頼んでおこうとか、責任が必要なこれこれはこの子に任せたいなとか。でも頭の悪い?子は、自分でアピールしない限り、あまり用事とか役職とかお役目とか・・・自分の意に反して頼まれることはあまりないと思われます。

 

頭がいいと、なんでもすぐ覚えられて便利?・・・しかし勉強って、上には限りがないのです。これくらいでいいや、じゃなくて、もっともっとやらなきゃ、で自分を追い込む可能性もあります。できるがゆえに、自分の足りなさが十分わかり、普通?の子なら問題集1冊でいいや、と思うところを、こんなんじゃだめだ、3冊やらないと、いやまだだめだ・・・というふうにどんどんやることが増えていきます。

 

頭がいい。・・・ってのも、数えられないくらいのレベルがあります。町内レベルで「頭がいい」のか。中学校で「頭が良い」グループなのか。トップの進学校での頭の良さなのか。・・・でも、小学校で「頭が良い」とされていても・・・高校に入るころにはただの人、というか普通以下、だったりしますからね・・・これは私自身が体感してきたことですが・・・。

 

頭がいい。・・・って、すごく曖昧すぎる表現だなあ、って思います。結局は比較して決定づけられることであり、相対評価ですよね。どこの誰と比べるか。ってことです。

 

東大行ってる人はみんな頭いいじゃん。って思う人もいるかもしれません。東大に行く人たちは、確かにすごい人たちはいっぱいいます。すごい人の比率は高めだとは思います。・・・が、結局、その頭の良さ、が自分の人生にどうかかわるか、だと思います。

 

大事なことのひとつとして・・・実際に東大に行った人を知ってたり、触れ合ったりしてるかどうか、ってのがあるかもしれません。

 

学歴が大事とか、頭の良さが大事、と主張する親御さんの中には・・・実際に高学歴の人たちの様子とか、進路とか、生き方とか、性格とか・・・いろんなことを知ってるのか?というと、全然知らないことがあったりします。

 

実際に生の東大生とか、卒業生を知ってると、確かにすごいけど、でも・・・自分の人生にそれが果たして必要かどうか、ってのを冷静に考える余白ができたりするかもしれません。

 

私が人生で初めて東大生と触れ合ったのは、大学でディベートをして、東大生と話したり交流することが初めてでした。大会では有名大学の学生はやはり強いのですが、じゃあ最高偏差値の東大生がいつも優勝するのか、というとそうではないのです。むしろ私の時代は東大以外がすごく強かったです。

 

そして大学の先輩たちは、東大生とか他の有名大学、私たちの大学と比べて偏差値では遥かに及ばない大学生たちをばっさばっさとなぎ倒して大会で優勝したり、ベストディベーターに選ばれた先輩たちがわんさかいたので・・・なんだか、偏差値だけじゃないなとか、いろんな種類の賢さとか頭が切れる人ってどういうことか、とか、様々な角度で見るチャンスを、今にして思えばもらえた気がします。

 

私の亡き親友も・・・先輩たちの伝統を受け継いで、とある大会でベストディベーターになり、そして彼女の性格とか雰囲気もあって、ジャッジの人たちにも他大学の人たちからも大人気でした。

 

彼女と組んだおかげで、そのおこぼれというか・・・私もとある大会で優勝できたのですが(でも私はとんでもなくへっぽこで、先輩たちの用意してくれたもののおかげ、そしてパートナーの彼女のおかげでなんとかなっただけです。あとで先輩から私のスピーチが「酷かったから(優勝は無理かもと思って)心配だった」とはっきり言われましたから・・・ゲロー

 

まあそのとんでもなくへっぽこな私でも、なんとなーくわかったのは、東大生だから全員が英語が得意なわけではない、ということ。受験英語はまあまあ完ぺきだと思いますが、じゃあスピーキングとかは・・・普段どれだけ努力できたか。あと、現地で実際に使うようなイディオムとか表現に格別強いわけでもなく。英会話とかスピーチの力はそれぞれです。日本の受験英語って話すのは必要ないですしそこは個人差があります。そして大学入学後、どれだけ努力できるかの差が出ます。

 

東大だと・・・きっと周囲のレベルも高いし教授たちの求めるものも高くて大変かも?でも地方大学の文系学部だと・・・授業を多少さぼっても?なんとかなったり。そこで先輩たちは授業そっちのけでディベートの勉強というか、ストラテジーを練ったり、よりよいエビ(エビデンス)探しに奔走したり・・・・英訳の時間に時間を割けるわけです。

 

でも先輩たちが成績悪いかというとそうではなく、基本みんな成績はよかったですし、国費留学もどんどんしちゃうし(なので私も行けるかも・・・という気になった)、司法試験は受かっちゃうし、すごい就職先に就職決まっちゃうしで・・・私は自分の行った大学があまり好きではなく(偏差値的に低かったので←進学校に行くと、旧帝大じゃないと負け犬みたいな感じになる)、仮面浪人しようかとも一時期考えていたのですが・・・でも、すごい人たちは実はいっぱいいるし、そして、むしろ競争相手がそこまで厳しくなかったら・・・ここで優秀なポジションにいたほうが、自分にとって有利かも。という思いに変わっていき、実際にそっちの路線を目指すことにしました。

 

私は、東大にいくような頭の良さはなかったし根性もなかったですが、でも・・・結果的に、自分のやりたいことはちゃんとできたし、やりたい勉学もできました。国費留学でイギリスの大学に行くことができたし(旧帝大にもし行ってたら国費留学生には選ばれず、私費留学になってたかもしれない)、大学院にも行って、自分で納得するまで勉強する生活が続けられました。

 

そして私のやりたかった「勉強」って・・・きっと、東大とかすごすぎるレベルでの勉学、研究、ではなくて、自分の行った大学、大学院での勉強、研究で・・・ちょうどよかった気がするのです。

 

もうちょっと英語を必死に勉強すればよかったな、と思うことはありますが、留学してもこの程度ってことは・・・やっぱり外大とか行ってても大した違いはなかったのかも。とも思います。(外大はやはり憧れがありましたし今もありますが)

 

ものすごい頭の良さが必要な進路、がその人の魂にとって絶対的に必要ならば、自然と、それだけの頭の良さはあたわります。医者になって多くの人を救うとか、研究者になって世界的な発見をするとか。

 

でも・・・それにしたって、自己犠牲が必要な面があったり、昼夜関係なく研究に没頭できる性格とか気質が必要だったり・・・家族よりも研究優先。なんてことも必要だったりします。それなりのお役目がある場合は、やはり、それに伴って何かしらハードなことがくっついてきたりします。

 

自分の「あたまの良さ」を、世のため人のために使えるならば・・・・宇宙は、その人に「あたまの良さ」を与えるでしょう。

 

しかし、それを自分の私欲にしか使わないとか、特に何の理由もないけどただ欲しいです、ってならば・・・・それは、あたわらない可能性が高いと思います。(逆に、自分のことしか考えない頭のいい人、という姿を周囲に見せて、周囲にいろいろ考えさせる、という役目を背負うパターンもあります)

 

ただあれも欲しいこれも欲しい。じゃなくて、それがあたわったら、何ができるか?どういうふうに人に、世界に貢献できるか?・・・までつながる場合は、きっと、それがあたわりやすいのだと思います。

 

私は、教員となることが何らかの理由で必要だったのかもしれません。なので、教員になるためぐらいの、頭の良さというか(良くはないのですが)、程度、があたわったのだと思います。

 

でも最初はかなり危険な道でした。自分より成績悪い子、勉強ができない子のことをめちゃくちゃ見下してましたからね・・・・滝汗滝汗滝汗いやほんとにろくでもない人間でした・・・・。

 

今でもそれがゼロになったか?というと・・・そうではないです。恥ずかしいですが。息子とか夫見ててつい馬鹿にした言い方とかしちゃいますから・・・。自分だって頭いい人からしたらとんでもなく頭わりー人間なのに・・・。ほんとに、自分の性質の進化というか、人間性を高めるって、ちょっとずつだなあと思います・・・。

 

その人に必要なものは、ちゃあんとあたわっているし、自分の人生のテーマに特殊な頭の良さが必要なら、それは必ず備わります。それがないならば、そうした頭の良さが、自分の人生テーマ、課題には必要ないから、あたわってない。ってだけだと思います。

 

むしろ・・・頭がいい、っていうスペックをあたわったとして、それを使わなかった場合・・・もしかしたら使う流れを無視して?生きてるなら・・・何かお役目とか活動とかをスキップしちゃってる可能性もある。そしたら今回の人生、あたわったものを使わなかったってことで、カルマになっちゃうかも・・・??

 

それならば、もともと特別な頭の良さとかあたわってなくて、特に何も無視してません、役目放棄も課題無視もしてません、ってほうが・・・安心かも???

 

頭がいいからそれを一生使え、とは限らなくて、人生のある時期にそれを使う必要性がある、ってことだと思います。

 

天からあたわったものとして、例えば浅田舞ちゃんなんてスケートの才能が真央ちゃんよりあって、亡きお母さんも「真央はいいから舞をお願いします」ってコーチに頼んでたのですが・・・本人は苦しかったですよね。ほんとはもっと早くにスケートはやめたかったんだろうな。でもみんなが辞めさせてくれなかった面があったかも・・・。でも、おそらくカルマとして、舞ちゃんは、一時期、スケート界で活躍する必要があったのだと思います。何かしらあたわってる人は・・・やはりお役目とかカルマがある。課題がある。自分がその分野が嫌いでも、人生の一時期、何かを経験する必要があったりします。

 

頭のいい悪いといかって・・・単に、あーこうだったらいいな。的なことではなく、やはりそこにも、魂の計画とか、宇宙が用意してくれたいろんなシナリオ、そしてその可能性、ってものが潜んでいると思います。

 

私は・・・誰かを見て、頭がいいからいいなあ。という思いは今はもうなくてですね・・・すごいなあ。とは思いますが、他者のあれこれよりも、自分があたわったこのスペック、この人生、この生活で、できること、やれること、やりたいこと、試したいこと、進めたいことなどが山ほどあるので・・・そして他の人を羨んだところで、その人の過去生とか現世とかいろんな人づきあいとか・・・背負うつもりも気力もないですから、自分は自分にあたわったものを一生懸命やるだけだよなあ、とも思います。

 

そして息子を見ていると、特に成績がいいとか、何かが得意ってわけでもないから・・・特に背負ってるものってなさそうだな。って感じが、見ていて楽な部分もあったりします。

 

この分野で特別頑張りなさい。世のため人のためにやりなさい。・・・ってお役目があるわけではなく(あるのかもしれないけど)、自分の人生をしっかり生きるってことにフォーカスすればいいんだろうな、となんとなーく思うのと、それはできるんじゃないかなと思えるので、頭のよさとか・・・あんまり必要もないし、どうでもいいというか。

 

つい求めちゃうのは、生活のしっかり度というか・・・バスタオルをしまう。とか、ごみを捨てる。とか、食べたあとのお皿をベッドの下に溜め込まない。ってこととか・・・そういうことですねチーン

 

一緒に生活するとなると・・・頭がいい悪いなんてどうでもよくなるなあ。そんなことほんとにどうでもいいや。・・・と、つくづくわかりましたね・・・チーンチーンチーン

 

そして何より・・・本人が、毎日笑顔でいてくれることが一番。自分も周りも笑顔なのが一番。何かがあると、一番大切なものって何だろう、と考えさせてくれますね。

 

社会で頭の良さを使えても、自分と家族が、周りの人が自然な笑顔でいる生活があるかどうかって・・・わからないです。どっちもあたわってる人ももちろん存在しますが、じゃあそうした人のサイズ、レベルでわたしゃ生活したいかというと・・・いやもっと静かな、こじんまりがいいや。って思う自分がいるってことは・・・人よりものすごく抜きんでる「頭の良さ」は、もともといらなかったんだよなあ・・・・と思います。

 

宇宙って、必要なものはちゃんと与えてくれるし、計算してくれています。それを私は絶対的に信頼しています。

 

それでは皆様、今日も明日も素敵な一日をお過ごしくださいアップ