【ライフスタイル乙女塾】冬至と朔旦冬至
平成二十六年(二〇一四)十二月二十二日。今日は19年に1度の朔旦冬至(さくたんとうじ)です。古典文学研究者らしく、田中新一氏『平安朝文学に見る二元的四季観』を参照して、朔旦冬至と暦の関係についてちょこっと紹介。これは、月の満ち欠けによる太陰暦と、太陽の動きに基づいた二十四節気(1年を純粋に24等分したもので、立春とか啓蟄春分、夏至や大寒などもそれ)を合わせた太陰太陽暦を使っていた時代に、朔日(ついたち)つまり新月と冬至が重なった日のことです。19年に1度回ってきます。もちろん、これは暦を作った中国でできた考え方。冬至は帝王の支配する暦の原点であり、その冬至が19年に1度、11月朔日に合うことが、暦の正しさを立証することでもありました。それに、新月=月の始まりの日、冬至=1年の始まりの日、ですから、始まりの日×始まりの日=おめでたいということでもあります。平安時代に入り、日本でも、祝宴・恩赦・叙位などのお祝いが行われるようになりました。最初の朔旦冬至の行事は桓武天皇の延暦三年(七八四)に行われていて、中国の文物を入れたり日本漢詩が作られていた平安初期の特徴が表れているような気がします。(日本のいわゆる「国風文化」が盛んになるのは、もっとあとの時代です)ところが、貞観二年(八六〇)、当時使っていた「大衍暦」という暦では朔旦冬至になるはずなのに、陰陽寮の計算では冬至が十二月二日になってしまうという出来事が起こりました。結局その年は、閏十月を小の月(29日)から大の月(30日)に変えることで対処したのですが、翌貞観三年(八六一)に改暦をすることになりました。貞観元年(八五九)に渤海国から朝貢された「宣明暦(せんみょうれき)」への改暦です。その宣明暦、なんと日本では823年間継続して使用され、史上最も長く採用された暦となりました。(現在使われているいわゆる新暦、グレゴリオ暦は、明治五年(一八七二)に採用されたものなので、まだ142年しか使われてませんからね)江戸時代になると、2日ほどずれてしまっていたそうです。でも、800年で2日しかずれない程度には、9世紀の暦がすぐれたものだった、といえると思いますけどね。で、江戸時代になって、2日ずれてしまった暦を改暦したのが、貞享暦。渋川春海が作成した暦です。日本で初めて、日本人が作成した暦が採用されました。渋川春海。そう、ご存知の方もいるでしょう。冲方丁氏『天地明察』の主人公です。映画ではV6の岡田くんが演じていましたね。さて、朔旦冬至から暦について述べてきたところで、ここからは、平安時代の和歌の研究者らしく、和歌に詠まれた冬至について述べたいところなんですけどね。えー。……冬至の平安和歌、ない。えええーーーーщ(゚Д゚щ)私たちが今一生懸命注釈を作っている『古今和歌六帖』という類題集にも、「冬至」という題は、ない。えええーーーーщ(゚Д゚щ)いや、厳密にいうと、平安和歌に1首だけ、冬至を詠んだものがあります。『千里集』の59番。 一年冬至夜偏長ひととせにふゆくることはいまぞしるふしおきすればあかしがたさに(一年に一度やってくる冬至と今実感した。身を横たえても起こしても明かしがたい最も長い夜に)でもこの『千里集』というのは、漢詩の一句を題材に和歌を詠んだものを収めた他に類を見ない和歌集で、平安和歌の中では異質です。(詳しくは平野由紀子氏千里集輪読会の共著『千里集全釈』(風間書房 二〇〇七年)を参照してくださいね。この千里集輪読会には私も入っていて、諸本対照や索引作りに参加してます。もちろん上記の現代語訳も、この本からの引用です)この59番歌も、『白氏文集』の「冬至夜」という詩の一句なのです。もともと暦が中国から入ってきたものであるといいましたが、冬至を詠むのは漢詩にみられることで、平安和歌にはみられないのです。では、なぜ、冬至を詠んだ平安和歌がないのでしょう。それは田中新一氏の御著書に指摘されているように、平安和歌では、春と秋を重視しているからだ、と私は考えます。『古今和歌集』によってその基盤が成立した和歌の世界は、現実の世界とは少し異なるのです。春の訪れを心待ちにし、春が終わるのを惜しむ。夏はほととぎすの歌ばかりで、秋の始まりを喜び、秋が終わるのを惜しむ。とにかく春と秋だけ贔屓しています。所収歌数だって、春134・夏34・秋145・冬29と、とんでもなく不均衡です。もちろん底冷えの厳しい盆地の京都に住んでいた王朝人にとって、春の訪れが待ち遠しいのはわかります。わかりますし、私だって冬は好きじゃないですけど、でもでも、朔旦冬至の儀式だって宮中でやっていたんだから、冬至の和歌を詠んだっていいじゃないの、と思ってしまうのでした。次回、「まあそれはそれとして、柚子湯に入って柚子はちみつ湯飲んで寝るとしましょうかね」の予定です。