「どうやら『仮痴不癲の計』があらぬ結果を生み出してしまったようですな」
子牙の言葉に、そうらしいですね、と姫発は苦笑する。
「祖父の姫歴の代より友好関係を保っていた義渠が突然攻め込んできたのには、何かわけがあるとみていたが……原因がわたしとは。『商に尾を振る狗』とは、なかなかきついことを言う」
姫発の祖父、姫歴は羌族との折り合いをつけるために、彼らの女を娶り、婚姻関係を結んだ。そして時の商王に何度となく羌族への迫害を思いとどまらせ、羌族もまた西岐の領域を侵すこともなかった。
長年の親交を放り出しての、騎馬を駆ってのこのたびの侵略は、ひとえに恐怖心に根ざしたものであった。
「誤解を解けば、彼らほど心強い味方はありますまい」
子牙は力強く伝える。
が、その言葉尻に異音が重なった。
それは寝息であった。いまにも消え入りそうな弱々しい呼吸音がふたりの間に流れてくる。
姫発と子牙は音の先を見た。
ひとりの老人が、天幕の床に敷かれた虎の毛皮のうえに座ったまま、こくりこくりと頭を前後に揺らしている。
皺だらけの枯れ細った白髪のその老人が、先刻まで武威の焔を総身に漂わせ、敵兵が震えあがるほどに轟咆していた勇将、太顚であろうとは、船をこぐたびに小刻みに揺れる銀髯を見なくては到底同じ人物とは思えない。驚くほどの変わりぶりであった。
彼は義渠との戦いを終え、甲冑をはずして姫発の天幕を訪れ、報告を済ませると、そのまま糸が切れた傀儡のように寝入ってしまった。
その太顚の寝息に混じり、小さな律音がふたつ。
老人のうしろで、背中合わせに座ったまま寝入っている子供がふたり。季蓮と崇黒虎であった。