「ギャップ萌え」という言葉がある。

 

この令和の時代は、ギャップ萌えってまだあるのだろうか?

なぜ、そう思ったかというと、アメトーークを見ていて、不思議に思ったからである。

 

アメトーークの『賞レース2本目やっちまった芸人』を見ていて、

出演していた4組の方々の共通点として「幅を見せたかった」というのがあった。

 

 

 

「幅を見せたい」というのは、「1本目のネタとは違うこんなネタもやるんですよ!」

っていうのを伝えたいんだと思うし、その気持ちは芸人でないワタシでも理解できる。

だって、好きな芸人さんの「幅」を多くの人に知ってもらいたい、って思うから。。。

 

でも、世の中は、「幅を見たい」わけではないのだ。

だから『賞レース2本目やっちまった芸人』たちはスベッてしまった。

いや、ワタシはスベッたとは1ミリも思っていない。

でも世間は「スベッた」と思っている人が多い。

なぜなのだろうか?

 

「ギャップ萌え」はある意味、その相手の「幅」に萌えることなんじゃないのだろうか。

自分が思っていたイメージと違うことを発見した時、人は相手に魅力を感じる。

 

「普段はおとなしいのに、実はプロレスが好きな女性に萌えた」

「いつもはクールな彼女が、二人きりの時は自分に甘えてきて、萌えた」

などなど。。。

 

数字の「1」をみたら、「1」のままであってほしいと思う人が多いのだろう。

数字の「1」が、「2」になったり「8」になったりしたら、いつもとは違う「1」がみれて魅力的なのに、

それを「魅力」だと思わないということなのだろうか?

 

いいか悪いかは置いといて、テレビ番組もどの局も同じような番組になってきている。(注・個人的な感想です。)

1チャンネルも5チャンネルも8チャンネルも、そのチャンネル独自の魅力が薄れてきている。(注・個人的な感想です。)

 

都会も地方もコンビニやチェーン店で埋め尽くされ、街並みもあまり変わらなくなってきている。(注・個人的な感想です。)

変化を嫌う時代になっているんだろうか?

みんなと同じが安心するからなのだろうか?

ワタシのこんな考え方は大げさすぎるのだろうか?

 

「変化」を嫌うから、「新しいこと」に拒否反応を起こしているとしたら、それはそれでこわい。(注・個人的な感想です。)

だって「新しいこと」に拒否反応を起こす人が大多数だったら、何も生まれない。(注・個人的な感想です。)

 

ふと、RCサクセションの「自由」という曲を思い出した。

 

~だって俺は自由、自由、自由

この汚い世界で いちばんキレイなもの

それは自由、自由、自由

 

YEAH すべての奴らに 自由を

YEAH すべての奴らに 自由を

 

   作詞:忌野清志郎

   RCサクセション「自由」より♪