守田比呂也の見たり聞いたり、話したり -5ページ目

台湾のオンナ

笹子トンネルの事故に続いて総選挙のスタートとあって各テレビ局は、連日目いっぱいの活躍ぶりである。結構な話だが、つい先だってはあまり結構とは思えぬ報道もあった。


そのひとつが佐渡島に漂着したハングル船についての扱い方である。ある局では頭から北朝鮮の漁船と断定し、船内で死んでいた五人は脱北者の疑いがあると報じていた。

ほかの局はハングル語の船名から朝鮮半島のどこかから来たものと無難な対応である。


その翌日だったかまた一艘のハングル船が死人ひとりを乗せて佐渡島へ漂着した。なんとも奇怪な話である。

素人考えで言えば、この二艘の船には生きた人間がいて船を操り、自分は船から降りてどこかに身を隠しているやも知れぬ。当然警察はその線も厳しく捜査しているはず。その後のニュースを知りたいが、報道部の顔は笹子トンネルと選挙に向いてしまい、さっぱり音沙汰なし。やむを得ぬ仕儀とはいえ残念である。


もう一つの結構でない話は、もはや旧聞に属するが、それでも三ヶ月は経つまい。


夕方のニュース報道だったと思う。女性キャスターが、台湾のオンナが地方の酒場で無理やりに客の相手をさせられとかいう事件をとりあげ、その後も盛んに台湾のオンナがどうのこうのと報じていたが、いかにも聞き苦しい。今風に言えば上から目線(好きな言葉ではない)というやつだ。

  

なぜこのキャスターは、ふつうに台湾の女性といわないのか。仮に彼女たちが不法滞在者であったとしても、台湾のオンナと呼び捨てにすることはないと思うけどなー。もう一つ言えばこのキャスターは台湾をどう認識しているのか、台湾は中華民国なのか、中国民主主義共和国の一部なのか。


台湾という言葉は現代においては、重い意味を持っている。

たとえば秋の外国人叙勲で台湾歌壇の元代表の方に日本政府から旭日双光賞を贈られて大勢の台湾歌人の祝福を受けたこと、台湾最大の灌漑用ダムを作った日本人に対する感謝の催しが現地で盛大に開かれたことをこのキャスターはご存知なんだろうか。よしんば知らなくても言語感覚があれば、台湾のオンナと呼び捨てに言うことに抵抗感があったはず。



12月の某日満88歳の誕生日を迎えた。毎年のことだが年の暮れということもあってパスしてしまうことが多い。そのせいか誕生日だからといって格別な思いはない。しかし今年は違った。


今年の某日はマヤ暦で言う地球最後の日で世界中が大騒ぎになったし、日本の暦では冬至で昼間の時間が4時間半くらいしかなかったとのこと。またその前後に総選挙があって政権の交代、新内閣の人事などなど、例年とは様子が違った。

 

二つの癌をわずらい年に何度かCTの放射線を浴びながら、足腰の衰えはあるにしても88まで生きているんやから人間の寿命ちゅうもんはわからんもんやでーー。


年の瀬や あといくたびの 大掃除

(詠み人知らず)

四半世紀論

その昔、日本に軍隊があった頃、陸海を問わず一般社会とは違った数字の読み方があった。零はマル、一はヒトで、二はフタ、四はヨンで七はナナという決まりがあった。したがって0724はマルナナフタヨンとなる。これはおそらく銃声や砲声のとどろく戦場を経験しての知恵から生まれたのではないか。命令の下達や報告に間違いがあっては勝てる戦も勝てなくなるだろう。この決まりは今の自衛隊にも引き継がれていると思う。


余談ながら六十数年前、学徒兵として軍隊にいた頃ーマルハチマルマルー(午前八時)は軍艦旗掲揚の時間であることを叩き込まれ今でも覚えている。


さて政治の季節である。


霜月に入って急に政治の世界が騒がしくなり、国会のテレビ中継から目が離せなくなった。解散前のことで委員会からの中継だったと思うが、質疑にたった野党の議員から-去るナナ月の委員会で-という発言があった。これを聞いたとき、へェー国会では軍隊風に数字を言うのかとやや意外な気がした。


ところがその後もっと驚くシーンが現れたのだ。答弁にたった野田総理が四半世紀を(ヨン半世紀)といったのだ。ヨンといいナナといい国会では数字は軍隊読みをするらしいことを知った。正確を期すための取り決めなのであろう。もしそうだとしても議事堂の中に銃声や砲声が響くことはあるまいし、いまの録音技術や速記録の正確さを持ってすれば四半世紀をわざわざヨン半世紀という必要はあるまいと思うのだが。いいのかねえ・・・



年寄りがなぜそんな心配をするのかといえば、もしこのテレビを子供や日本語を勉強している外国のヒトが見た場合、日本語の四はヨンで七はナナというのが正しいと思い込むのではないかということなんです。

勿論、四冊の本とか四番目の人などヨンと読まねば通じない言葉も多々あるが、一方で,七五三詣でやほとけさんの四十九日などヨン、ナナよみではなんのことかわけがわからなくなってしまう。

日本語の場合、一つの言葉に複数の読み方がある。月という字は(つき)とも(がつ)とも(げつ)ともよむ。山もおなじで、(さん)とも(せん)とも(やま)ともよむ。それは、漢音、呉音、和音がどうこうしてといった学問上のことは学者に任せ、われわれは生きている人間が使い続けてきた言葉を受け継いで次の人たちに送り渡していかなければならないと思う。 

だから、まちがっても公の場で四半世紀を〈ヨン半世紀〉などといってもらいたくないのである。


話はまた飛びます。

 

われわれの世代は中学生の三年生(だとおもう)になると軍事教練という学課あった。教官は退役した陸軍大尉であった。普段は肉屋のおっさんである。ゲートルをまき小銃を手にして整列すると、肉屋の大尉は「気をつけえ、番号ー」の号令をかけるのがしきたりであった。

一、二,三の次は(シ)で五,六の次は(シチ)といったような気がする。その後、海軍へ入ってからも同じだったように思う。整列して番号を唱えるときだけはヨンとナナはつかっていなかったのではないかなぁ。


同期のやつに聞いたらそいつの記憶も怪しかった。そのあげく

”おまえもひまなおとこだなあ” 

だって・・・・。



-すばる-と清少納言

-スバル-という言葉を知ったのは映画館のスバル座と乗用車のスバル号のどちらが先だったか。いずれにしても半世紀も前の話とあっては、はなはだ心もとない次第。



“スバル”と再会したのは谷村新司さんの名曲(昂)がテレビで公開されたときだった。そのときなんとなくわかったのは、“スバル”とは星の名前ということだった。そして(昂)がなぜ”スバル”なのかという疑問だった。



この節病院も混んでいて予約があっても待たされることが多い。よって時間つぶしにカバンに文庫本を一冊入れてある。ただいまのお気に入りは高島俊夫先生の「お言葉ですが・・」で、全部で六巻ある。この本のありがたいところは順を追わなくてもどの巻から読んでもいいし、どの項目から読んでも差し支えないという点である。

 

この日持っていったのは第四巻で、このなかに-スバルはさざめく-という項目があった。読んでみると、「スバル」は日本語であると明記されていた。その一節。

「なにしろ清少納言が”星はすばる、ひこぼし、ゆふづつと書いているのだからこれは古い日本語である」


日本語ならば国語辞典にでているだろうと手もとにある岩波の国語辞典をひらくと  

「-すばる(昂)=牡牛座にある、肉眼では六つみえる星。プレアデス星団。二十八宿の一つ。六連星(むつつらぼし)。すまる。すばる星。」


出典も用例もなしで、よくわからん解説である。ともかく“スバル”が日本語であることはわかったが、(昂)の意味がいぜんわからんのです。高島先生によると“すばる”は「すべる」の自動詞で、統率する、まとめるの意」である。その自動詞でおのずからととのった、まとまった状態にあるのが”スバル”。天空のスバルはプレアデス星団の六つの星があたかも何かに統率されているように整然とならんでいるので、昔の日本人はこれを“すばる”とよんだのでしょうとのこと。


“すばる”のことはよくわかりました。でもなんで“すばる”が(昂)となるのかはわからずじまいでした。