守田比呂也の見たり聞いたり、話したり -7ページ目

魚の頭は左へ

2月の初めの頃だったと思う。近所の用足しに自転車で行った。南風の暖かい日だった。あとで知ったが、節分前で春一番とは呼べないとのことだった。帰りみち、東西に走っている高校の石塀で強風を避けていたが曲角を出た途端、強烈な南風にあおられてペダルを踏んでも進めず立ち往生、そのうちバランスを崩してズルズルと横倒しになってしまった。


やっとの思いで立ち上がり自転車を押して帰宅。それだけの話と思ったら、2・3日して右足の親指の爪の辺りに痛みを感じだした。みると爪の半分が黒くなり、爪の生え際の肉の部分が赤く腫れていた。どうやら自転車の下敷きになったらしい。

近くの皮膚医で診てもらったら、爪はいずれ生え変わる、生え際のところはバイ菌が入り化膿したものといわれた。治療をしてもらったが、足の先端といえども意外と痛い。3月、4月と処方の塗り薬と絆創膏で手当てをするうち治ったかにみえた。しかし8月に入り、生え際の同じ場所が再び腫れ、強く触ると痛い。馴染みの皮膚科医院は傷口はふさがっており化膿はしていないといって、前を同じ塗り薬をくれた。

素人判断であるがどうもおかしい。後々大ごとになっては困るため、大学病院へ行くことに決め、皮膚科医に紹介状をもらいに行くと、生憎のお盆休みで一週間閉院。やむを得ず、紹介状なしの初診で大学病院へ。相当待たされることは覚悟の上である。手元にあった文庫本を持って病院へ行く。2時間はたっぷり待たされた。

その間に読んだ高島俊男氏の文庫本(お言葉ですが。6)に興味深い一文があった。


尾頭付きの魚は、全て頭を左に腹を手前に皿にのせるものである。(両眼が片方にあるカレイだけは別)という話。

なぜ頭が左かということになるが、特別な理由はないらしい。ただ、人間は飛行機を描く場合、殆んどの人は機首を左にして描くそうである。つまり横へ動くものは左を頭にする習性がある、と高島先生は書いていらっしゃる。そういうものかと読み流している時、不意に映画のヒトコマを思い出した。映画の題名は「一枚のハガキ」。今は亡き新藤監督の遺作である。


ヒロイン大竹しのぶの夫に赤紙の召集令状がきて、いよいよ出征の途につくシーン。日の丸の小旗と軍歌とともに画面の右から左へ30人足らずの村人とヒロイン夫婦の行列が進み、やがて左側にフレームアウトする。行列が消えたと思ったら、同じ行列が今度は左側から右へと戻ってきた。違うのはヒロインの胸に戦死した夫の遺骨が抱かれていることである。日の丸も軍歌もない無言の行列・・・。


このシーンを観た時、なぜか胸がドキンとしたことを今でも憶えている。戦争の苛烈さをこれほど端的に具現したものは、他にあるまいと思う。


診療の結果、麻酔をして爪を取り除くよりしようがないかなと、若い担当医は同僚のドクターと話していた。

――指先に麻酔注射か―― ここでまたドキンとなった。精算カウンターへ行くと、紹介状なしの初診は初診時選定療費なる名目で保険算定額の外に3,000円とられた。(5,000円のところもああるらしい)。

うらめしいお盆休みではあった。



学歴詐称

“老いはゆっくりとやってくる”というのは誤りだと思う。“老いはある時期、突然やってくる”ようだ。

しかも一回限りではなく、その後も二回ほどやってくる。老いを実感するのはこの時である。


連日33℃を超す暑さのなか定期診断を受けに病院へ行く。このところ、なんとなく脚がかったるい。歩くのがつらいと主治医に訴えると検査室へまわされた。体中にコードを付けられた。何の検査かと聞くと、血流を調べるという。動脈だか静脈に血の流れを停渋させるものがないか、をみるらしい


血流検査はクリアした。しかし脚部不安は変わらず。主治医は整形外科で脊柱管狭窄症を調べてもらえという。整形外科へ行くとMRI撮影をしますとのこと。当院の整形外科には作家の津本陽さんが信用できる名医として文春に書いていたドクターがいたことを思い出した。そのドクターの診療室が隣りにあった。スターの部屋の前を通り過ぎるファンのような気になった。


MRIの結果もクリアした。放射線治療の副作用も考えたが、主治医は否定した。


「筋力の低下ということでしょうな」


なかばサジを投げたような主治医の発言だ。

二足歩行は人間のアイデンティティみたいなもの。80年以上も歩いているが、歩くことを意識するのは初めてである。


ひと頃、杖を使っていたが、どうしても杖を頼りにするし、歩幅も狭くなり、腕も振れないので使用をやめていた。しかし診療科目が増え、病院通いの回数も増えだした上に、連日の猛暑で、もし途中で熱中症で倒れたり、段差を踏み外すなど不測の出来事も考えて再び杖を使うようになった。


駅から自宅まで以前は5分ほどで歩いていた。今は10分くらいかかる。その真ん中辺りに整骨院があり、動かなくなった足を揉みほぐしてもらう。


「筋力の低下というよりも、少ない筋肉でよく頑張っているなと思いますよ。」

院長は大腿四頭筋と大でん筋の少なさを指摘した。脚部不安はもはや医学の問題ではないらしい。


先日、相変わらずの猛暑の中、ヨタヨタになってたどり着いた整骨院の受付で、新聞の切り抜きをみせられた。ある夕刊紙のインタビューを受けたときの記事である。


まだ猛暑が来ない頃、50年も前の名物番組「事件記者」の数少ない生き残り役者、というコンセプトでインタビューを受けた。

写真入りでタブロイド版1/3くらいのスペースに「あの人いま」というタイトルで載っていた。

整骨院の待合室で顔を合わすおばさんの誰かがわざわざ切り抜いて持ってきたらしい。


記事のなかで訂正して欲しい部分がある。

守田比呂也は慶応大学在学中に軍隊に入ったとあるが、私が学徒兵として海軍に入ったのは神戸高商(現在の神戸商科大学)に在学時代で、慶応に入ったのは終戦後のことである。(入学はしたが、授業料滞納で除名)


夕刊紙に申し入れても訂正記事は出そうもないので、学歴詐称の疑いをもたれぬうちにここに書き残しておきます。








三途の川のワンカット

“小林桂樹さんお別れ会”の日を想い出している。平成22年10月24日。場所は丸の内の東京會舘。


小林さんは大スターである。当然、会場には各映画会社やテレビ局のお偉方が列席、小林さんの業績を褒め称えていたが、やや堅苦しい感じで、小林さんは、こういう雰囲気を喜んでくれるだろうか、などと往事の小林さんを偲んだ。


やがてお偉いさんたちの賛辞が終わり退場されると司会者が代わった。小野ヤスシと左とん平が壇上にあがると場内の雰囲気が一変した。凄いものだと思った。それまでの堅苦しい空間が一瞬にして撮影現場の休憩時間になったのだ。


司会者に呼ばれて次々とマイク前に立った俳優仲間は、小林さんの思い出、鋭い毒舌をもらったことなど、それぞれのエピソードを話して故人を偲んだ。


「次、そこの、散歩で食ってる人!」

小野チンの呼びかけに満場が沸いた。この辛辣な言葉が悪口ではなく、仲間同士には却って親密さを感じさせるあたりが、小野チンの芸であろう。地井サンは笑顔でマイクを持つと「散歩の地井です」と。


地井さんも小野チンもとん平ちゃんも小生も「江戸シリーズ」と呼ばれた時代劇のレギュラーメンバーだった。昭和50年代前半の話である。


ガンの転移手術後の私は「江戸シリーズ」5年間の製作担当プロデューサーだった東宝の広岡さんと、当時の局プロで今はサンケイビル社長になられた中本さんたちとテーブルを囲んでいた。

たしかこの席に古谷一行さんもおられたと思う。私を除く3人がタバコを吸うのをみて、不思議な気持ちになったのを憶えている。(去年、広岡さんは急性進行ガンで逝去、古谷さんは肺がんで入院されたと報じられた。)


小野チンのマイクは絶好調で座を盛り上げてくれた。地井さんにしても小野チンにしても病のヤの字も感じさせなかった。まして二人とも小生より一回り以上の年下である。


小林さんは大正12年生れで私は13年生れ。

どうみても次は「爺っつぁん」の番だなと同じレギュラー仲間(柴俊夫氏だったかな?)に言われた。


あい前後して逝った二人は三途の川のほとりで顔を合わせたはず。


「オヤ、地井さん、番組ですか?」

「イヤ、番組は船長(加山雄三氏)に頼んできたよ。」

そんな会話が交わされてもおかしくない。


加山さんは江戸シリーズのなかの「江戸の旋風」の主役だった。

TSUTAYAに江戸シリーズのDVDはないらしい。