第二次世界大戦以前
アメリカに渡った
祖父母の間の三男として
カリフォルニアの
チノという町で生まれた
父 森重丈治は
日米間の関係の悪化
国際情勢により
12才で日本へ
日本語がまったく話せなかったので
小学1年生に編入し
随分歳下の子達と一緒に
学んだ
戦争に際し
陸軍少年飛行隊に
志願入隊したのは
とにかく
飛行機が好きだったからだそうで
婆ちゃんは
大いに反対しただろう
戦争を生き抜き
終戦後は
英語力を生かして
通訳として
警察で働いたりもした
福生の町で
横田基地の米兵相手の
損保代理店を
彼の先輩と
始めたのは
恐らく
60年以上前だろうか
ハイライトを吸い
キリンビールを好んで飲んだ
ハードリカーは
時々
サントリーのウイスキーを
飲んでたな
身体に障害があったから
自分は
父が二本足で
歩いているのを見た事がない
昔の男性らしく
仕事着は仕立てた
時計はセイコーをし
日産の車を好んで運転した
今のように
オートマチックは
優秀ではなかったせいか
死ぬまで
マニュアル車だった
高度成長期の日本
豊かな家庭だったと思う
きついステロイドを
常用せざるを得なかったので
その影響で
結果
衰弱死した
自分が高校3年の事だ
大学への推薦入学が
決まった事を
病床の父に伝えて
丁度1週間後の事だった
大学へは行け
父は事あるごとに
自分に言った
戦後パイロットを続けたかったが
航空会社は
大卒しか
採用しなかったので
日本の社会のありようとして
大学を出る事は
好きな仕事をする為に
必要な事だと
感じていたからだろう
バイトをしたいと言うと
学生の本分は勉強だから
そちらに時間をさけと…
その代わりに
お金の事を相談して
断られた事は無かった
なので
大学合格を確認するまでは
頑張ってくれたのかもしれない
父の亡くなる前日は
個室の病院の
ベッド脇で
翌日試験のある
古文の勉強をしていた
夜
お袋が代わりに病院に付き添い
自分は
帰宅して
弟と飯を食って
午前2時半位まで勉強して寝た
その直後に
お袋から電話があり
弟と病院に
向かったが
臨終の瞬間には
間に合わなかった
子供を持って
父の気持ちの僅かばかりでも
理解できるようになったろうか?
必要以上に子供達を
自分の価値観で
教化したくはない
これは信念のようなものだ
どんな教えにせよ
完全なるものや
絶対的真実を指し示すものは無い
大学へは行け
と言った言葉にも
病気でなく
屈強な男性としての
父親であったなら
むしろ
行かないという
反抗の形で
応えたのかもな
とも思う
父の亡くなった年齢を過ぎ
数年が経ち
まだまだだよな
と
思う事ばかりだ
娘が
18になると
息子は
13
俺は
還暦を過ぎてる事になる
今の
当座の
俺の目標は
この辺りの年齢を
クリアする事だ
親父
もう少しは
頑張ろうと思う
じきツアー再開
健康でいたいもんだ