反骨の画家、教育者の北川民次展 | 猫とバラ、演劇、美術、ガーデン、動物園のブログ

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闘病中、18才、16才の母娘猫と暮らし美術や動物、演劇、旅、ガーデンが好きです

 

久しぶりに美術館へ。

あんまりの暑さで動物園は危険なので。

 

黒川紀章設計の美術館の北川民次展へびっくりマーク

 

 

戦争に敗れ、平和になり民主化が進んでと思ったのもつかの間だった日本、

60年安保反対運動の機動隊と学生、樺美智子さんを描いた。悲しい

 

この無念さは今も同じではありませんか。

あるいはもっと危険悲しい

 

はじめて地下のギャラリートークに参加、

 

ちょうど良い時間に向こうも参加者を探してました。

 

もう一人の女性は昨日の新幹線事故で神奈川に帰れず、この美術展へいらっしゃいました。

 

 

 
地下には絵コールドパリの作品、郷土の画家の作品があります。
 
これが知らなかったいい画家の絵が出ます。
 
 
モジリアーニのおさげ髪の少女や藤田嗣治、メキシコの壁画はいつも展示。
森村さんの絵は1回だけ!
 
今回不思議な絵でちょうどもっと知りたいと思った絵の作者がなんと、
 
芥川也寸志の最初の妻の沙織さんの作品でした。
 
ろうけつ染めの神話の絵で不思議、ユニークな絵でおどろき。観られてよかったびっくりマーク
音楽を夫にやめさせられるとは、ガーン
 
芥川の2番の妻が草笛光子さん、3番目は、、
 
芥川のストカ―の女性の最後も驚きです。
 
 
 
 
芥川1948年2月、東京音楽学校で知り合った山田紗織(声楽科卒。のち離婚後の再婚により間所紗織となる)と結婚する。このとき芥川は紗織に対して「作曲家と声楽家は同じ家に住めない」と主張し、音楽活動を禁じているびっくりマークびっくりマークびっくりマーク。これはマーラーが妻・アルマに取った行動と酷似しているが、芥川の場合は、彼女の歌が「作曲の邪魔になる」悲しいというもっと即物的な理由であった[注 1]
 
 
 
 
 
 
 

 

 

 

 

働くロバの絵や力強い花、舞子の絵も。

 

メキシコの山の絵を、日本の官憲が富士山ではないかと、、反骨、目をつけられてました。

権威、軍国主義に利用された富士山の絵は描かなかった北川。

 

 

 

今回北川の絵本が観られてよかった、復刻版ほしいですびっくりマーク

東山動物園でも教えたびっくりマーク

 

名古屋動物園美術学校

 

 

北川の作品の題材となったのは、民衆、労働者、瀬戸の裏町、工場、母子像、花、バッタ、風景などであるびっくりマーク[5]。メキシコでは古代からバッタが神の使いであるとされ、絵画の題材にもなっていたが、日本でバッタを絵画の題材としたのは北川が初めてだとされる[5]。 

1939年の『銃後の少女』は軍国主義を、1960年の『白と黒』は反対する民衆を、1961年の『セブンティーン』は浅沼稲次郎暗殺事件を起こした少年の暴力を、『女医』はサリドマイド児の薬禍を、1973年の『百鬼夜行』はよど号ハイジャック事件をテーマにしている[25]。北川は生涯に渡って権威に抵抗した[5]静岡県出身であり数多くの風景画を描いているが、茶畑を題材に選ぶことはあっても、権威の象徴としてとらえていた富士山を題材に選ぶことはなかった[5]。また、京都の舞妓のように華美なものを描くことも嫌った[5]。政治的な題材の作品を多く制作し、日

本で北川の作品はグロテスクで近寄りがたいとされていた時期もあった[5]

アギラ・アステカ勲章英語版を授与されたメキシコでは、スペイン語で巨匠を意味する「マエストロ」と呼ばれて敬愛されている[25]。 

 

労働者、職人の働く姿を美しいという、まともな感性の方に子供の時から惹かれていました。

 

有名なバッタやバラなどの植物が、ゆがんだひな人形、クマに抱かれた女、母子像

陶板や食器の展示があり欲しい!と思いました。

 

 

 

子どもが自分の先生、

子どもには自由の精神を。びっくりマーク

 

徹子さんや私の母の時代の美術教育は実物観ないでお手本をうつすびっくりマークガーン

 

 

 

 

藤田嗣治が描いた北川の肖像画、さすがの藤田

 

 

北川 民次(きたがわ たみじ、1894年1月17日 - 1989年4月26日)は、静岡県榛原郡五和村牛尾(現:島田市牛尾)出身の洋画家[1]二科会会長(1978年)[2]アメリカ合衆国メキシコに計22年間滞在し、高まりを見せていたメキシコ壁画運動などのメキシコ絵画英語版)の影響を受けて力強い作風の作品を残した。児童美術の教育者としても活動した。

抜粋です

1916年(大正5年)初頭にニューヨークに渡った[4][5]。ニューヨークでは舞台の書き割りを担当する職人として働いて生計を立て、この経験が後に構図のセンスの良さにつながったとされる[5]。劇団が地方巡業に出る際には北川も同行し、劇場組合員として労働争議にも参加。北川は当時を「学生というより、労働者と言ったほうが適切であった」と振り返っている[6]

 

1924年(大正13年)にはメキシコシティ郊外のチュルブスコ英語版)僧院に附属した野外美術学校のスタッフとなり、オロスコ、リベラ、シケイロスらによるメキシコ壁画運動(メキシコ・ルネサンス)に共感。1925年(大正14年)にはメキシコシティ郊外のトランバムの野外美術学校で教えはじめ、野外美術学校の生徒の作品展はメキシコ大統領や文部大臣などが称賛、ヨーロッパにも巡回されてパブロ・ピカソアンリ・マティス藤田嗣治などが称賛した[7]。1926年(大正15年)には野外美術学校の正規教員となっている[7]

 

私は尾張瀬戸に一年住んだが、今度またいつてみて、やはり斯ふいふ所の方が、自分には住み甲斐があると思つた。それは、趣味だけでは片づけられないことだ。林立する煙突が真黒い煙を吐いてゐて、一日も着ない内に夏服が灰色になつて終ふのが困るが、私共の生活に必要な物を生産してゐる町には上づつた遊園地等に見られない美しい姿がある。— 「旅の手帖から」『アトリエ』1938年10月号[6]

 

1955年(昭和30年)から1956年(昭和31年)には約20年ぶりにメキシコを訪問し[15]、その他にも中南米、フランス、スペイン、イタリアなどを旅行した[2]神奈川県立近代美術館では須田国太郎との2人展が開催され、画集や版画集も刊行された[15]。1950年代には輪郭線や分割線のある線描で画面を構成することが多く、灰色や褐色ではない明るい色調の作品が増えた[15]。『絵を描く子供たち』や『子どもの絵と教育』を刊行するなど、児童画教育の実践だけでなく理論面でも活躍した[15]

カゴメ名古屋本社の壁画『TOMATO』

北川は帰国してからずっと壁画の製作を夢見てきたが、1959年(昭和34年)には大きな壁画2作品をほぼ同時期に完成させた[16]。名古屋市中区の名古屋CBCビルの壁画と瀬戸市民会館の壁画である。名古屋CBCビルに設置された大理石のモザイク壁画『芸術と平和』は高さ6.8メートル×幅16.6mの大きさであり、ペンなどを手にした女性たちが描かれている[17]。瀬戸市民会館のモザイク壁画は高さ2.5メートル×幅4メートルであり、瀬戸市赤津町の窯元で製作された陶板が使用された[16]

1962年(昭和37年)には名古屋市中区のカゴメ名古屋本社ビルに、高さ3メートル×幅15メートルの壁画『TOMATO』を製作した[17]。カゴメ創業者の蟹江一太郎からは「トマトはなるべく赤く」などという注文がついたという[17]。(カゴメ名古屋本社ビル建替、2020年壁画一部はINAXライブミュージアムへ寄贈[18]。)1970年(昭和45年)には瀬戸市立図書館壁面に陶板壁画を製作[16]。「妄想におびえる人間が本で知識を付けて妄想を拭い去る」というメッセージが込められており、北川の壁画としては最後の仕事となった[16]

1950年代末から1960年代には、安保闘争公害問題などの社会問題を主題とする政治的な作品を多く製作し、北川様式とも呼べる絵画表現を確立させた[19]。メキシコ・花・母子像の画家というイメージは1960年代に定着したとされ、題材に時事問題を取り入れるようになったのは1960年代以後とされる[20]