壷井栄先駆者は非難される、ネオさん亡くなる、水仙、らんまん伊藤圭介 | 猫とバラ、演劇、美術、ガーデン、動物園のブログ

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闘病中、18才、16才の母娘猫と暮らし美術や動物、演劇、旅、ガーデンが好きです

 

寒い極小庭の水仙、パンダすみれ

 

 

 

植物園、この上にレストラン、結婚式場があります。

 

 

 

 

朝ドラらんまんにも登場した伊藤圭介は植物園に記念室があります。

 

 

伊藤圭介(1803年生まれ、1901年没)は、名古屋出身の植物学者であり、日本近代植物学の先駆者の一人です。彼は「おしべ」、「めしべ」、「花粉」などの用語を作り、多くの業績を残しました123

伊藤圭介は、江戸時代後期に名古屋市内で町医者の次男として生まれました。彼は幼少期から植物に興味を持ち、長崎のシーボルトのもとで西洋医学や植物学を学びました。その後、東京の小石川植物園で植物の研究を行い、外国人の植物研究家の間で人気を博しました。86歳のときには日本で最初の理学博士になりました3

名古屋市の東山動植物園には、伊藤圭介記念室があり、彼の遺品や関連資料が展示されています。この記念室は、日本洋学史の研究拠点の一つとなっており、伊藤圭介の業績を紹介しています。彼の著書や顕微鏡、植物図説などが展示されており、名古屋市の指定有形文化財にもなっています4

伊藤圭介の名前は、多くの植物にも残っており、ケイスケ(keiske)の名前が付いた植物がたくさん存在します。彼の業績は、日本の植物学の発展に大きく寄与しました。5

 

 

 

 

温室

 

 

ラジオ深夜便、HPが変わり毎日の番組表が消えていて、絶望名言k聴き逃しました。

 

BSにしてもすごく不親切になりました。

前はBSにしていれば次々美術や音楽、動物番組などが見られたのに。

 

 

一部引用

壺井栄の小説『二十四の瞳』。どこにでもあるような小さな島の、小さな村の分教場の純真な先生と純真な12人の子どもたちが戦争にじわじわ飲み込まれ、やがて終戦を迎え……。文学紹介者の頭木弘樹さんが、この大変有名な小説を読み解きます。(聞き手・川野一宇)

【出演者】
頭木:頭木弘樹さん(文学紹介者)

 

幼い子どもらは麦めしをたべて、いきいきと育った。
前途に何が待ちかまえているかをしらず、
ただ成長することがうれしかった。

 

頭木:
ええ。この壺井栄という人は、おばあさんの昔話とか子守唄とかをたっぷり聴いて育った人で、語り口がとてもいいんですね。朗読にとても向いていると思います。

――とても素直な文章で、難しいところがなくて、聴いていてもすっと入ってきそうですね。

頭木:
そうなんです。こういう文章は簡単に書けそうに見えますが、実は書けないですよね。私の憧れの文章でもあります。びっくりマーク

――頭木さんから見てもそうですか。
壺井栄という人はあえてそういう文章を志して、書いていたんでしょうか?

頭木:
新聞のインタビューで、こんなふうに語っています。「下積みの人たちが激しい生活の中に秘めている深い怒りや悲しみを」その人たちにも読まれるように書くことが「信念である」と。(びっくりマーク『女性作家評伝シリーズ12 壺井栄』小林裕子著 新典社より)
壺井栄自身も大変な貧乏や病気で苦労した人ですから、そういう思いが強かったんですね。

 

「私は女に生まれて残念です。」

「おなごのくせに、自転車にのったりして。」ガーン

『二十四の瞳』壺井栄 角川文庫

――頭木さん、これは確か生徒の言葉ですよね。

頭木:
そうですね。新任の若い女性の先生がやってくるところから物語が始まるわけですが、その先生が自転車に乗ってやってくるんですね。当時の村の人たちは、子どもたちだけではなく大人もみんなびっくりすることだったんですね。子どもたちまで「なまいきじゃな」と言いますし、同じ女性も「おてんば」とけなします。でも、学校まで片道8キロもある道を歩いて通うのは大変ですよね。

 

 

なまいきといわれてけなされた彼女の洋服や自転車は、それがきっかけになってはやりだし、びっくりマークいまでは村に自転車に乗れぬ女はないほどだ。だが二十年近い歳月は、もうだれも若い日の彼女をおぼえてはいまい。ガーン

誰かがルールからはみだして、縛りを破って、それでようやく世の中は変わっていくわけです。でも、その最初の人は非難されてしまいます。さらに、世の中が変わったときには忘れられてしまうんですね。!!

――きっかけを作った人なのに。
自転車という身近なものを使って、そういうことを巧みに説明していますね。

頭木:
そういうことが壺井栄は本当にうまいですよね。
小説全体を通して、自転車の話が何回も出てきます。戦後についてはこう書いてあります。

戦争は自転車までも国民の生活からうばいさって、敗戦後半年のいま、自転車は買うに買えなかった。びっくりマークびっくりマーク

自転車という身近なものだからこそ、女性の立場とか、戦争の影響とか、そういうものがとてもわかりやすく伝わってきますね。

――『二十四の瞳』の中にはこういう言葉も出てきます。女の子の生徒の言葉です。

私は女に生まれて残念です。私が男の子でないので、お父さんはいつもくやみます。

頭木:
同じことを紫式部も言ってましたよね。

 

頭木:
女性も選挙に参加できたのは昭和21年4月10日のことで、なんと18年後、戦後なんです。
今は選挙に行かない人も多いですけれど、選挙権って健康みたいなものだなあ、と思ったりします。

――それはどういうことですか?

頭木:
手にしているときには、どうでもいいものに思えて軽く扱ってしまうわけですけれど、いざ失ってみると、これは大変なことですよ。

――ああ、そうか。いろいろな人がすごい苦労をしてようやく手にした選挙権。でも実際には軽く扱われ過ぎていませんか? ということですよね。

 

 

 

 

昨日(令和6年3月14日)、東山動植物園で飼育展示していたスマトラオランウータンの「ネオ」が亡くなりましたことをお知らせいたします。これにより、スマトラオランウータンの飼育展示は中断となります。

 

令和5年8月頃から歯の痛みに起因した採食量の低下がみられたため、抗生剤や痛み止めによる治療を開始しました。10月には歯のぐらつきが酷くなっていることが確認されたため、10月23日に麻酔下で抜歯処置を行いました。抜歯に合わせて行った検査では腫瘍の可能性も疑われましたが、詳細な検査のための麻酔はネオにとってリスクが高かったことから、積極的な治療は見合わせていました。その後体調が悪化したため、令和6年2月15日より展示を中止し療養に専念しておりました。

死因は腫瘍に起因する多臓器不全でした。

 

 ネオは、1970年3月5日に誕生しました。東山動植物園で初めてのスマトラオランウータンの繁殖でした。母親が初産ということもあり、人の介添え哺育で育ちました。

 頑固で自己主張の強い反面、几帳面でペットボトルの蓋を自ら指で開けて飲んだり、器用にフィーダーから採食したり、賢いオランウータンでした。

 東山動植物園で生まれた動物の中で、54年間という歴史上もっとも長く飼育され、どの職員よりも長い間、東山動植物園に在籍していました。

 落ち着いた雰囲気が好評で、ファンの多い個体でした。


【献花台について】
令和6年3月16日(土)から3月24日(日)までスマトラオランウータン舎屋内観覧エリアに設置します。

※お供えはお花とお手紙のみ受け付けます。

 

山崎雅弘さん

現在の高齢者は長年真面目に働いて社会保障費を払い、現在もかろうじて残る「日本の豊かさ」を築いた功労者です。竹中平蔵のパソナや電通などが、恒常的な「公金かすめ取り」で私腹を肥やしていなければ、日本の公金プールにはたっぷり余裕があったはずです。若者が怒りの矛先を向けるべきは後者です。びっくりマーク