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昔から貿易港として発達
~14世紀】海賊の漁村、トマセック
マレー半島の先端。
マラッカ海峡の玄関口となるシンガポールは、昔から交易船の停泊所として利用されてきました。
同時期に書かれた中国の旅行家汪大淵による旅行記『島夷誌略』にも「海賊を生業とする住民が住み、外国船も寄港していた」ことなどが記されているそう。
ポルトガル、オランダ、イギリスの支配
イギリス植民地であったインド、オーストラリア、中国との三角貿易拠点や、天然ゴム等の輸出港として多くの移民が流入。現在のような多民族国家に。
しかし、労働層であるマレー人達への圧政はひどく、独立を抑制するため徹底的な奴隷支配が。
しかし、労働層であるマレー人達への圧政はひどく、独立を抑制するため徹底的な奴隷支配が。
イギリスは経済発展とともに、シンガポールを要塞として育てました。
1941年、太平洋戦争が勃発。
日本はイギリスと対立関係にありましたので、イギリス領であったシンガポールを攻撃。
イギリス極東司令官の無条件降伏をもって制圧。「昭南島」と改名し、暴動を抑えるために、反日感情をもつ中華系民族を中心に選別し、徹底的な弾圧を行いました。(シンガポール華僑虐殺事件)
マリーナエリアにある「血債の塔」こと「日本占領時期死難人民記念碑」。
1961年12月に、イーストコーストの工事現場から白骨が発掘されたことにより、虐殺された住民を慰霊するため、また二度と繰り返さないために、募金によりこの塔が建設されました。
4本の柱は、中国人、マレー人、インド人、ユーラシア人(欧亜混血者)を表しているそうです。
現在のシンガポールでは戦争に対し、「許そう、しかし忘れない」と考えているとか。
1961年12月に、イーストコーストの工事現場から白骨が発掘されたことにより、虐殺された住民を慰霊するため、また二度と繰り返さないために、募金によりこの塔が建設されました。
4本の柱は、中国人、マレー人、インド人、ユーラシア人(欧亜混血者)を表しているそうです。
現在のシンガポールでは戦争に対し、「許そう、しかし忘れない」と考えているとか。
上まで行くエレベーターは長い列
寒くてコート必要なぐらい。
シンガポールは前回蒸し暑いイメージでしたが
今回は始めだけちょっと暑かったけど室内、タクシーなどは
ガンガンにエアコンが効いています、
私にはきつくて、ホテルのエアコン切りました。
そのうち又つくので消しました。
姑息な政府、文部省
下がは「血債の塔」こと「日本占領時期死難人民記念碑」
借物画像です。
滝の裏側
刈谷にも似たような設備が有りますが雲泥の差です。
子供って水浴び大好きですね。