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2日目はクロアチアからモンテネグロのコトルや島全体がホテルというスベティ・ステファンへ。
画像は↓のサイトからお借りしました。
私たちが行った日にウィンブルドンで優勝を果たした、ノバク・ジョコビッチ(セルビア)が妊娠中の婚約者と身内だけの結婚式を挙げたのです。
海岸はこのようにバカンスの海水浴で大にぎわい
これは最初のホテル、ドブロヴニク郊外のホテル、海もプールも綺麗。
明りがついてるのはレストラン、猫も集会してました。
高台にあり海に降りて行くにはちょっと遠い。
夜、中心地ではサマーフェスティバルがあり花火も上がったのですが雷が鳴り断念。これが街の中のホテルならすぐ行けるのに。痛恨の極み。
花火大好きなのに疲れも相まって寝てしまいました。情けない。
後日同じツアーの方の花火の写真見せて貰いました。
生のグリーンも飾りそれは翌日街に行ったのでかたずけを見ました。
前の記事のコトルのお店
ドゥブロヴニク(クロアチア語: Dubrovnik、イタリア語: Ragusa、ラテン語: Ragusium)は、クロアチア、アドリア海沿岸のダルマチア最南部に位置する都市及び基礎自治体で、ドゥブロヴニク=ネレトヴァ郡の郡都である。ボスニア・ヘルツェゴビナの唯一の海港であるネウムが回廊状態で分断しているため、クロアチア本土とは陸続きではない(→飛び地)。
1979年に世界遺産に登録された旧市街は「アドリア海の真珠」とも謳われる美しい町並みを誇る。アドリア海沿岸でも傑出した観光地であり、多数のクルーズ船が寄港する他、地中海各都市とフェリーで結ばれドゥブロヴニク=ネレトヴァ郡の中心都市となっている。人口は2011年に行われた国勢調査で42,641である。そのうち、約28,000人はドゥブロヴニク市街に居住している。2001年の国勢調査ではクロアチア人は住民の88.39%を占めていた。
ドゥブロヴニクは歴史的に海洋貿易によって栄えた都市で、中世のラグーサ共和国はアマルフィ、ピサ、ジェノヴァ、ヴェネツィアなどと共に5つの海洋共和国に数えられ、アドリア海東側では唯一のライバルである都市国家はヴェネチア共和国だけであった。巧みな外交術と豊富な富に支えられ15世紀から16世紀にかけてはとくに特筆するほど発展した。
鼻先もピカピカ、よく触るのはイタリア人やスペイン人だとか。
生カキレストラン、座ってる時間はありません。とほほ
1944年10月にチトー率いるパルチザンがドゥブロヴニクに入りその結果、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の一部となる。パルチザンは市内に入ると直ぐに約78名の市民に対し裁判無しに死刑を宣告した。その中にはカトリックの聖職者も含まれていた[6]。
ユーゴスラビア崩壊[編集]
それまで観光客で賑わっていたドゥブロヴニクへの砲撃は1991年から1992年にかけて続いた。1991年はユーゴスラビアから相次いでクロアチアやスロベニアが独立を宣言した年で、クロアチア社会主義共和国は現在のクロアチア共和国へ名称が変わっている。1970年代の早い段階で、世界遺産に登録されている旧市街地は戦争による惨事から避けるため非武装化が行われたが1991年の独立宣言後、ユーゴスラビア人民軍に残っていたセルビア・モンテネグロによって町は攻撃されている。