アドリア海の真珠ドゥブロヴニク | 猫とバラ、演劇、美術、ガーデン、動物園のブログ

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闘病中、18才、16才の母娘猫と暮らし美術や動物、演劇、旅、ガーデンが好きです

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2日目はクロアチアからモンテネグロのコトルや島全体がホテルというスベティ・ステファンへ。
画像は↓のサイトからお借りしました。
私たちが行った日にウィンブルドンで優勝を果たした、ノバク・ジョコビッチ(セルビア)が妊娠中の婚約者と身内だけの結婚式を挙げたのです。
スヴェティ・ステファン島は15世紀から漁村として栄えた島でした。常緑樹の緑の中に重厚な石造りの建物が建つ様は昔と今もほとんど変わりありませんが、1950年代に最後の島民がこの島から出て行ってからこの島の内部は2度の変貌を遂げています。
まず、島民がいなくなった後、島全体がホテルとして生まれ変わり、世界のセレブ達に愛される島となりました。本島とつながる1本の道が唯一の島への入口であるというプライバシーが受けて、特に有名人の間で人気を博しました。そして2009年、アマンリゾートがこの島を委託されスヴェティ・ステファン島は再度生まれ変わることとなりました。
 
モンテネグロは、ヨーロッパ南東部、バルカン半島に位置するセルビア・モンテネグロを構成する2つの共和国のうちのひとつであったが、2006年6月3日に独立を宣言した。
 
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海岸はこのようにバカンスの海水浴で大にぎわい
 
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これは最初のホテル、ドブロヴニク郊外のホテル、海もプールも綺麗。
明りがついてるのはレストラン、猫も集会してました。
高台にあり海に降りて行くにはちょっと遠い。
 
夜、中心地ではサマーフェスティバルがあり花火も上がったのですが雷が鳴り断念。これが街の中のホテルならすぐ行けるのに。痛恨の極み。
花火大好きなのに疲れも相まって寝てしまいました。情けない。
 
後日同じツアーの方の花火の写真見せて貰いました。
生のグリーンも飾りそれは翌日街に行ったのでかたずけを見ました。
 
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前の記事のコトルのお店
 
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ドゥブロヴニククロアチア語: Dubrovnikイタリア語: Ragusaラテン語: Ragusium)は、クロアチアアドリア海沿岸のダルマチア最南部に位置する都市及び基礎自治体で、ドゥブロヴニク=ネレトヴァ郡の郡都である。ボスニア・ヘルツェゴビナの唯一の海港であるネウムが回廊状態で分断しているため、クロアチア本土とは陸続きではない(→飛び地)。
1979年世界遺産に登録された旧市街は「アドリア海の真珠」とも謳われる美しい町並みを誇る。アドリア海沿岸でも傑出した観光地であり、多数のクルーズ船が寄港する他、地中海各都市とフェリーで結ばれドゥブロヴニク=ネレトヴァ郡の中心都市となっている。人口は2011年に行われた国勢調査で42,641である。そのうち、約28,000人はドゥブロヴニク市街に居住している。2001年の国勢調査ではクロアチア人は住民の88.39%を占めていた。
ドゥブロヴニクは歴史的に海洋貿易によって栄えた都市で、中世ラグーサ共和国アマルフィピサジェノヴァヴェネツィアなどと共に5つの海洋共和国に数えられ、アドリア海東側では唯一のライバルである都市国家ヴェネチア共和国だけであった。巧みな外交術と豊富な富に支えられ15世紀から16世紀にかけてはとくに特筆するほど発展した。
 
 
 
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 鼻先もピカピカ、よく触るのはイタリア人やスペイン人だとか。
 
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 生カキレストラン、座ってる時間はありません。とほほ
 
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1944年10月チトー率いるパルチザンがドゥブロヴニクに入りその結果、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の一部となる。パルチザンは市内に入ると直ぐに約78名の市民に対し裁判無しに死刑を宣告した。その中にはカトリックの聖職者も含まれていた[6]

ユーゴスラビア崩壊[編集]

それまで観光客で賑わっていたドゥブロヴニクへの砲撃は1991年から1992年にかけて続いた。1991年はユーゴスラビアから相次いでクロアチアやスロベニアが独立を宣言した年で、クロアチア社会主義共和国は現在のクロアチア共和国へ名称が変わっている。1970年代の早い段階で、世界遺産に登録されている旧市街地は戦争による惨事から避けるため非武装化が行われたが1991年の独立宣言後、ユーゴスラビア人民軍に残っていたセルビア・モンテネグロによって町は攻撃されている。
当時モンテネグロの政権はセルビア人政府に忠誠を誓うモミル・ブラトヴィッチ (Momir Bulatović) が担っており、ドゥブロヴニクがクロアチアに残ることは歴史的にモンテネグロの一部である為に容認出来ないと宣言している[7]。この宣言にも関わらず、ドゥブロヴニク市内で多数を占めるのはクロアチア人でモンテネグロ人の居住者は少数であり、セルビア人は人口の6%を占めるだけであった[7]。この要求にはミロシェビッチが送り込んだ民族主義者の大セルビア主義が関係している。