こんばんは!
今夜は暑いです・・・。
何でしょうねー。一気に涼しくなったり暑くなったり。
皆さん風邪に気をつけましょう。夜に冷えて、朝方は涼しくなりますから。
撮影したこの日は息子の学校で懇談会。
親一名参加とのこと。妻を送迎し閉会まで、私は学校周辺で時間を消費して過ごしました。
自宅に戻っても、時間的にそんなに家にいないでまた妻を迎えに行くことになります。
それならば、学校周辺で時間を使えばよいのです。
そこで、以前紹介できなかった、歴史資料館の竪穴式住居の紹介を致します。
学校近くには歴史資料館がある事は以前ご紹介しました。
紹介出来ない記事がありましたので改めて掲載します。
その時の続編になりますが。^^
復元の竪穴式住居です!
当日天気は薄曇りでしたが、天候も良く住居の入り口は開放。今日こそ住居内に入れます。
では、住居内部に入ります。
中央のくぼみは炉の跡ですね。
居住スペースは小ぢんまりです。
天井はこのような構造です。
焚火の煙にいぶされ萱は長持ちするのですね。
垂木の掛け方も参考になります。
地面に入っている柱の周囲には銅の薄板を巻いています。
これは最近の技術ですが、これはこの処置をしないと復元住居が長持ちしません。
これは参考になりますね。家庭菜園には未使用の部分がありますが、震災などで万一の時、このような建物の構造を知っておけば
臨時に雨風をしのぐノウハウになるまずです。
萱は手に入りにくい材料ですが・・・。屋根は何か代替えの物で対処するしかありません。
この建物の耐用年数がどのくらいかご存じでしょうか?
自分で調べたところ、竪穴式住居の耐用年数は20年だそうです。
梁には栗材などを使ってたそうです。
栗の木材は、線路の枕木に使われるくらい丈夫な木です。
縄文人は、植物の栽培もしてましたから、おそらく栗材も自分たちで調達してたのかもしれません。
さて外に出ます。
入り口はとても狭いです。
住居裏には貝塚。
栃の木を囲んで椅子が並んでいます。この木が更に10年も経過したらいい木陰になることでしょう。
特別展示はしていませんが、ここに来たので見学します。
2回は広場が見れる展望室です。
これが当時の住居模型です。
考古研究から得られた当時の技術です。
このような住居は、縄文以降も継続したようです。奈良時代や平安時代辺りまで残ってたそうです。
石器などの道具や、
石斧まで!
何本も垂木を作ったのでしょうか。
貝塚に埋もれていた当時の土器。
大きめのコップの位のサイズでしたね。
迎えの時間です。
資料館で販売されてる絵葉書を購入。
6枚もハガキが入っています。
近道で学校へ。
真鍋の街道。丘がありました。
この道はまだ歩いたことがないので歩いてみます。
坂道の途中からの景色。
いい勾配の坂道です。^^
丘からの景色です。
この先のは霞ヶ浦が見えます。
土浦の町が一望できます。
私が子供のころから比べると、かなり変わりました。
小網屋や京成デパート、丸井や西友、ヨーカ堂はもうありませんが、私の頭の中には楽しい記憶が残ってます。^^
今の土浦の姿です。
当時からかなり変わってしまってますが、お気に入りの町であることに変わりはありません。
仕事の時にはこの町の中を車で走ってます。
坂の目の前に建物が。
平成の頭のころの建物です。アパートなど沢山立ち並んでしまいました。
坂道は急なカーブが。
凍結時は怖い道になりそうです。
車に戻ります。
高台からの景色。
この場所は土浦2中です。
自分の住む地区からここへ引っ越し、個々の中学を出た同級が居ます。
今は遠くに勤務している話を聞きました。
近くに居ながら、この学校の入り口まで来たことはありませんでした。
いつもはこの高台下の街道を走ってましたが、
こんなに土浦の町を見渡せるところだなんて知りませんでした。
おなじみの町ですが、懐かしの思い出が詰まった町。自分にとっていい景色でした。^^
気が向いたら、またここへ来ようと思います。