(18日までネパールに行くので、それまでお休みさせて頂きます。)

これは支援のような活動でも、子育てでも、自然と人間の関係においても言えることですが、それらの活動のやり方には大きく分けて「○○のために」というやり方と、「○○と共に」というやり方があるような気がします。

昔の日本人は、「子どもと共に」「自然と共に」というように「共に」という価値観を大切にしていました。
ただし、それを行うためには、「待つ」「共感する」「受け入れる」という心の状態が必要になります。
そしてそれらはいずれも、現代人が苦手なことばかりです。簡単便利、効率、合理性、経済性を大切にしたら、こんな悠長なことやってられないからです。

そんな現代人は、「○○のために」という考え方の方を好んでいます。そして、「貧しい人のために」「子どものために」「自然のために」と様々な活動をしています。
「○○のために」という考え方は、「自分の価値観を基準にして相手を助けようとすること」でもあります。ですから、やりがいもあります。また、うまく行けば感謝もされます。
テーマとして掲げやすいので、学校教育にも取り入れやすいです。

そして、欧米の人は、このような考え方を好む傾向があるような気がします。
キリスト教は「これがあんた達のためなんだから」とキリスト教を世界中に広め(押しつけ)、思想や価値観を改革し、自分達が活動しやすいように世界を作り替えようとしました。

その結果、キリスト教を受け入れた国では「過去との断絶」が起きました。中南米では自国の言葉を失い、今では、みんなスペイン語やポルトガル語を話しています。

中途半端に欧米化されている今の日本には、「○○のためにという考え方を大切にする人」と「○○と共にという考え方を大切にする人」が混在しています。
「○○のためにという考え方を大切にする人」は、子どものために色々と考え、準備し、手助けし、教え、押しつけ、追い立てます。そして「これがあんたのためなんだから文句を言わない」と「子どもの気持ち」を否定します。

大人が管理すれば、ただ待っているだけよりも早く、合理的に、効率的に、子どもの成長を促すことが出来ると思い込んでいるのでしょう。でも、その方法が通用するのは子どもの中の「自我」が目覚めるまでです。

自我が目覚め始めると、子どもは自分の頭で考え始めます。そして、大人に「考え方や、やり方」を押しつけられることに反発し、大人が敷いたレールから降りようとします。それがいわゆる「反抗期」です。

でも、それまで大人が敷いたレールに乗ってばかりいた子は、大人が敷いたレールから降りても、どうしていいのか分かりません。自分が進みたい道を自分で見つける能力が育っていないからです。
そうしてまた元のレールに戻るか、不安と共に、道なき道を傷つきながら進むことになります。

それに対して「子どもと共に」という考え方で育てられた子は、自分で自分が進むべき道を探すことが出来ます。
この方法は、子どもの意思を尊重し、試行錯誤を基としているので効率が悪いです。失敗も多いです。
レールを敷いて貰った子の方が早く進んでしまいます。

でも、側にいて見守り、励ましてくれるお母さんやお父さんがいるので、少しずつでも前に進むことが出来ます。その過程で自分で道を作り出したり、自分に合った道と出会うことも出来ます。
そのため「自我」が目覚めて自分の頭で考え始めるようになっても何にも困りません。

ただし、「自分らしく」は育つかも知れませんが、「親の期待通り」に育つかどうかは不明です。でも、それを楽しめれば、子どもの世界が広がると同時に、親の世界も広がります。

明後日(3日)から二週間ほどネパールに行きます。ですから、この間、ブログの方は不定期になります。可能な状況なら、写真と簡単な報告を上げようとは思いますが、現地の状況が分からないのでお約束できません。

今回の旅行は、これまで支援してきた学校や村々を回る旅です。このように、貧しい人たち、貧しい村を支援するような善意の活動は世界中にあります。そしてそのことは「人間として正しい行為」だと思われています。

教育を与えることで、食べるものもない、病院にもかかれない、教育も受けられない、幼いときから労働にかり出されるといった悲惨な生活から抜け出せるようになるのですから。

教育を受ける子どもが増えることで、人々や村も豊かになります。それはそれで嬉しいことです。問題は、そのことでそれまで「競争」とは無縁だった人たちが「競争」に参加するようになってしまうということです。

「教育を受けた若者」と「教育を受けていない大人達、老人達」との間に、感覚的、文化的、思考的、意識的な断絶が生まれてしまいます。
そして、何百年と受け継がれてきたであろう、文化や、伝統や、精神性や、感覚や、考え方があっという間に消えます。
それに代わって、世界共通の文化や、考え方や、価値観や、精神性が共有されるようになります。

そして若者達は、「文化や伝統を守るため」ではなく「お金を得るため」に競争するようになります。助け合うつながりが消え、村が消えます。

その流れが世界中に広まれば、やがて世界中から文化的、精神的、感覚的、思考的個性が消え、「豊かさを求める競争」だけが残り、貧富の差はますます拡大して行きます。そして実際、それはかなり進んでいます。

私がバックパッカーとして世界を回ったのは45年前ですが、その頃と比べても国の個性、町の個性、民族の個性はかなり消えてきてしまっています。
日本の中でも、日本中どこに行っても同じような家が建ち、同じようなコンビニを見かけるようになりました。

援助をする善意の人たちはそのようなことまでは考えないでしょうが、これは実際に世界中で起きてきたことです。ネイティブアメリカンの人たちもこれで苦しみました。
インドの最北部にあるラダックという町で起きた出来事は、「懐かしい未来」という映画にもなりました。

ラダックとは以下のような所です。私は2018年に行きました。

ラダックはヒマラヤ山脈に囲まれた標高3,500m〜5,600m超の高地で、中心都市レーの標高は約3,500m、ヌブラ渓谷へ通じるカルドゥン・ラ峠(Khardung La)は5,000m級(5,600m超という説も)に達し、湖や渓谷ではさらに高い4,000m〜5,000m超の場所も多く、非常に高地です。(AI による概要)

このような外部から隔絶された社会でした。ですから人々は、貧しいながらも助け合って生きてきました。でも、その貧しさを救うために、新しい知識や、技術や、教育や、支援が外部世界から持ち込まれることで、人々の意識が変革され、競争と富の偏りが生まれました。
そして、経済的に豊かにはなったのですが、精神的には不安定になりました。

「だから支援や介入をやめろ」という意見もあるかも知れません。でも、困っている人、苦しんでいる人がいたら助けたくなるのも人情です。その気持ちが消えたら、人間は「人間らしさ」を失ってしまいます。
非常に難しい問題です。

支援する人は「支援は諸刃の剣だ」ということを知って、自己満足に陥らないようにすることが大切なのではないかと思います。


先日ご紹介した友人の娘さんの言葉を再アップします。
オーストラリアに住んでいたその娘さんは、今月の21日に亡くなりました。この言葉を、多くの人に伝えることが供養にもなると思っています。
ちなみに、著作権フリーだそうです。

<麻衣子さんのメッセージ>

学校に行っていなかった10代の頃、私はこんな風に考えていました。
「学校」は「靴」みたいなもの。 靴を履けば歩きやすい。だから履く。
でも、その「靴」が足に合ってなくて、 自分の足を傷つけるならさっさと脱いだほうがいい。 無理して履き続けて、傷ついている人がたくさんいる。

そんなとき、傷ついた足を癒す時間が必要なときもある。 その期間を「登校拒否」って呼ぶ人がいる。

休んでいる間に、気がついたらいいのに。 自分の行きたいところへ連れて行ってくれるのは、 「靴」じゃなくて「自分の足」なんだって。だから、「靴」を大事にするんじゃなくて、 「自分の足」を大事にするんだって。

靴は、本来「足を保護するためのもの」として生まれたものです。
ですから、安全な場所や気持ちがいい場所では靴を脱いで裸足で歩いてもOKなはずです。
それに、靴で足を締め付けられるよりも、その束縛がなく、大地と直接つながれる裸足の方が気持ちがいいです。
ということで、私も裸足が大好きです。子ども達も、幼いときは裸足のことが多かったです。ただ、裸足でお店に入ると奇異な目で見られましたけど・・・。

うちの三番目には伝説があって、幼稚園の卒業遠足で「大山」(1252m)というけっこう険しい山に登ったのですが、娘だけズーッと裸足だったそうです。(大人になった今では靴を履いていますが・・・)

私が「靴を履くって当たり前じゃないんだ」と気付いたのは、バックパッカーでインドを歩いていた時のことです。(45年前です)
インドの町中では、多くの人が普通に裸足で歩いていました。「貧しくて靴も買えない」ということもあるかも知れませんが、どうもそれだけではなさそうです。「外を歩くときには靴を履かなければいけない」という常識自体が存在していないようでした。

その代わり、彼らの足の皮は信じられないくらい厚かったです。暑いインドで、しかも線路の上を裸足で歩いている人を見たことがありますが、カカトのところが深さ一センチぐらい割れていましたから。
私も真冬になるとカカトが割れますが、せいぜい2mm程度です。
そんなインドの人を見て「靴を履くって当たり前じゃないんだ」ということに気付いたのです。

私は、そのバックパッカーとしての一年を通して、「日本人の当たり前は、世界共通の当たり前じゃないんだ」ということに気付いてしまったのです。というより、「日本人の当たり前」は、世界では全然当たり前ではないことの方が多いのです。

スペインだかどっかで、車同士の軽い接触事故を見たことがあります。一応両方の車の運転手が出てきて傷の確認をしていましたが、しばらくしたら、何事もなかったかのように二台とも走り去っていきました。日本だったらお巡りさんを呼んだり、保証の話をしたりと大変ですよね。

日本以外の国では、多少の傷やへこみは気にしないのが当たり前のようです。実際、外国に行くと、傷だらけの車が普通に走っています。でも、
日本では新車のようなキレイな車ばかりが走っていま。これは世界的には異常な風景なのではないでしょうか。

「インドでは長距離タクシーに乗ると途中でエンストすることがよくある」と聞きました。
電車も普通に何十分、何時間と止まります。でも何のアナウンスもありません。日本のような「丁寧なお詫び」など皆無です。

皆さんが常識だと思い込んでいることが、実は単なる個人的な「趣味」や「思い込み」や「妄想」に過ぎないことがいっぱいあるのです。
「靴を履く」というのも趣味です。本来、靴は履いても履かなくてもいいのです。「靴を履かなければいけない」などという決まりはどこにもないのですから。その様なことを言う人がいても、それはその人の個人的な趣味、思い込みに過ぎないのです。

だからそういう人がいたら「あなたはそう思うのですね、でも私はこう思います」と言えばいいのです。
問題は、日本人には「みんな一緒、みんな同じでなければいけない」という強迫観念があることです。

そのため、「靴が必要かどうか」ではなく「みんな履いているんだからあなたも履きなさい」と他の人に押しつけるのです。
「学校」もそうです。「学校に行く必要があるかないか」を個別に判断することなく、「みんな行っているんだからあなたも行きなさい」と子ども達を追い立てているのです。

「宿題」もです。私に繋がる人の中には「うちでは宿題をやらせませんからよろしくお願いします」と先生に納得させたお母さんもいますが、その様な人は少数です。みんな「宿題はやるべきものだ」と思い込んでいるからです。
「宿題には意味がない」と気付いているお母さんも多いですが、でも、ほとんどの人は「意味がなくても宿題はやらなければいけないものだ」と子ども達を追い立て、苦しめ、親子の関係を悪くしています。
「本当に大切なこと、しっかりと守るべきことは何なのか」ということを、たまには考えて見ませんか。無理して頑張らなくてもいいことで悩み、苦しむことをやめませんか。