昨日は「からだを変えれば心も変わるのです」ということを書きました。
では、「どのようにしたらからだを変えることが出来るのか」ということです。

でも実は、皆さんのからだは常に変化しているのです。むしろ同じ状態に固定することの方が難しいのです。だから、それに合わせてしょっちゅう心の状態も変わっているのです。ただ、その自覚がないだけです。

人が近づいてきただけ、
明るいところから暗いところに入っただけ、
広いところから狭いところに移動しただけ、
ピシッとした洋服からゆったりとした洋服に替えただけ、
明るい色の洋服から暗い色の洋服に替えただけ、
下を向いて歩く癖がある人が上を向いて歩くだけ、
肉中心の食生活から野菜を多く取る生活に変えるだけ、
雑音の多いところから静かなところに移動しただけ、
姿勢や歩き方を変えただけ、

それだけでからだの状態が変わります。そしてそれに伴って心の状態も変わります。明るい洋服を着た時と、暗い洋服を着た時とでは気分が変わりますでしょ。姿勢も表情も変わりますでしょ。そういうことです。

気質の勉強会では、そのような「からだの変化に伴う心の変化」を感じるようなワークをよくやります。

人にはそれぞれ、「他の人と出会うときの快適な距離」というものがあります。憂鬱質の子どもは、こちらに安心して慣れてくるまで近寄ってきません。まだ慣れていない時に近寄ろうとすると、瞬間的に表情もからだも心も固まります。防御の状態になるのです。
大人になるとそれほど極端な反応はしなくなりますが、それでも基本的な反応は同じです。

それに対して、多血質の子どもは近寄ってもからだを固めません。むしろ嬉しそうな表情になります。

ワークではまず二人組になって、お互いが安心できる距離まで離れ、ちゃんと相手の目を見ながら向き合って立ってもらいます。そして一方は立ったまま、もう一方は相手の目を見ながら少しずつ近寄っていきます。

そして、立ったままの人が緊張を感じたら、手を上げてストップのサインを出します。そして、その距離を確認します。これを交互にやります。
知り合い同士か、同性かでも距離は大きく変わってしまいますから、出来るだけ知らない相手を選んでもらいます。

すると、憂鬱質が強い人は2,3mの時点でストップをかける人が多いです。でも、多血質が強い人はその距離を超えてもストップをかけません。結果、抱きつくところまで行ってしまうことも多いです。
でも、寄っていく側の人が憂鬱質が強いと寄っていく方が辛くなります。

胆汁質や多血質が強い欧米の人は、相手の正面、しかも近くに立って、相手の目を見て話します。そもそも、そういう位置関係でないと「ハロー」と言いながら握手することが出来ません。肩を抱くことも出来ません。

でも、憂鬱や粘液が強い日本人はそんな近くまで寄りません。肌が触れ合うどころか握手すら出来ない距離に立ちます。しかも、正面を外します。そして、相手の顔はチラチラッとみますが、目をしっかりと見て話すと言うことはしません。

日本人同士でやっても気質に応じて似たような結果になります。
気質のワークではその距離の違いを確認するだけですが、からだのワークではさらにその先をやります。ストップをかけたら、緊張を感じた方の人がからだを色々と動かしてみて、どうやったら緊張が解けるのかを試すのです。

姿勢を変えてみる、ピョンピョン跳ねてみる、口を大きく開けてみる、重心の位置を変えてみる、からだを揺すってみる、などというようなことをやってみるのです。そうしてからだの状態を変えると意識の状態も変わるので、緊張が取れます。

寄っていく方の人は相手の緊張が取れたらまた近寄って行きます。それを繰り返して相手の手を握るところまで近づきます。

自分の中の緊張に気づき、意識的にからだの状態を変えることでその緊張をほどくことが出来るようにするのです。心で「緊張しないように、緊張しないように」と念じても無駄です。



 

土曜日は気持ちの良い天気だったので、自転車で江ノ島まで行ってきました。江ノ島は近いので時々行きます。行っても何をするわけでもなく、磯で海を見ながらお昼ご飯を食べて帰ってくるだけです。

海に行くといつも感じるのですが、海では深い思考が出来なくなります。何となく気持ちが良くなってしまって、ボーっとしたくなるのです。
それは海風のせいか、広い空間のせいか、波の音のせいか、潮の匂いのせいか分かりませんが、とにかく心とからだが町中にいる時や、山に行った時とは違った状態になるのです。

山を歩きながらだと、深く、長くものを考えることが出来ます。町中にいる時には細切れに色々なことを考えます。まあ、他の人の場合はどうだか分かりませんが、でも、場所によって心やからだの状態が変わってしまう、というのは誰でも同じなのではないでしょうか。ですから、家の中で悩んでいたことが、海に行ったら気にならなくなってしまうなどということもあるのではないかと思います。

問題が解決したわけではないのに、置かれた環境に応じて心とからだの状態が変わるだけでそれが問題ではなくなってしまうのです。

子どもが言うことを聞かなくて悩んでいる人もいれば、そんなこと全然気にならない人もいます。また、同じ人でもある時には気になったことが、別の時には気にならないと言うこともあります。一般的に心に余裕がない時には細かいことが気になり、余裕がある時には細かいことは気になりません。心に余裕がある時には心の視野が広くなるからなのでしょう。

だったら、子育ての問題を解決するには二通りの方法があることになります。一つはきちんと問題を突き詰めて答えを見つけることです。

これは多くの人がやっていることです。でも、正解がある場合はこの方法は有効なのですが、正解がないものの場合はいくら追いつめて考えても迷路に入るばかりで答えにたどり着くことは出来ません。それに、答えのない問題の答えは人それぞれなので、他の人に聞いても自分の問題を解決する答えにはなりません。

もう一つの方法は、心とからだの状態を変えてしまうことです。すると不思議なことに、問題それ自体が消えてしまうか、気にならなくなってしまうことがよくあるのです。特に、人によって答えが大きく違うような問題の場合にこの現象は起きます。

一般的に、心とからだに余裕が出てくると視野が大きくなって客観的に物事を見ることが出来るようになります。だから細かいことが気にならなくなるのです。
でも、心とからだに余裕がないと視野が狭くなって主観的に物事を判断するようになります。そのような状態の人が数人集まれば、主観と主観のぶつかり合いがおき、生存競争が起きます。

ちなみに、子どもは主観の世界を生きています。ですから、大人が客観の世界にいればぶつかりませんが、大人も主観の世界にとらわれていると、生存競争になります。必然的に悩みも増えます。
主観の世界にとらわれているとは、個人的な主義主張、価値観、感性にとらわれていると言うことです。

人は誰でも自分の悩みは特別で、大切で、非常に重要なものだと思っています。だから悩んでいるわけですが、でも、だから悩みを手放すことが出来ないのです。そしていつまでも悩むことになります。そして、いつまでも何も変わらないのです。

もしかしたらあなたが今悩んでいることは、本当は大したことではないかも知れません。からだという視点を持ち、からだにアクセスすることを学べば、心が変わります。すると、今の悩みは消えてしまうかも知れません。そういう問題の解決方法もあるのです。コペルニクス的な発想の転換です。

寒い、寒いと悩み続けていても暖かくはなりませんが、セーターを一枚着るだけで暖かくなります。

その程度の悩みで自分の人生を無駄にはしたくないですよね。




 

昨日、古くからの友人が企画してくれた「子育て対談」をFBの公開ライブでやりました。一昨日の夜決まって、昨日の朝ちょっと打ち合わせしてのいきなりでしたが、多くの人が見に来てくれました。
内容は子育て、シュタイナー教育、心とからだ、からだの使い方など多岐に亘っています。
今はyoutubeにアップしてあります。ご興味のある方はご覧になって下さい。「ここ」です。

あと、子育てのついてのあれこれを学ぶ「ゆりかご」というZoomの講座を5月から始めます。毎月第四金曜日の10:00~12:00です。
ご興味のある方は「こちら」まで連絡下さい。
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現代の子ども達はみんな「消費者」として教育されています。タブレットのような、簡単で便利な電子機器を使った教育も「消費者」を育てるためのものです。
タブレットを使って学んだ子は、タブレットがないとどのように学んだらいいのか分からなくなってしまうでしょう。確かに、タブレットを使えば簡単に、効率的に知識を学ぶことは出来ます。でも、「学び方」を学ぶことが出来ないのです。それはタブレットの中に組み込まれてしまっているからです。

そのため、そのようなものを使った授業ばかりを受けていると、タブレットがないとどのようにして学んだらいいのか分からなくなります。
大人になって我が子が生まれても、「子育ての仕方」をタブレットやスマホに問いかけます。でも、そこにあるのは知識だけです。そして、知識だけでは子育ては出来ません。

幼いときから「消費者としての教育」を受けて育った現代人は、食べるものでも、生活で使うものでも、知識のようなものでも、消費することしか出来ません。
「生産する」という発想もないし、生産したいとも思いません。自分で生産したいと思ってもその知識も技術もありません。
でも当然ながら、消費する人しかいない社会はその活力を維持することが出来ません。循環しないからです。

でも、生産する教育を受けた人は消費することも出来ます。なぜなら、消費に必要なのはお金だけだからです。そして、生産することが出来る人は自分でそのお金を稼ぐことが出来ます。

でも、消費することしか出来ない人がお金を稼ぐのは大変です。お金を持っている人に依存して、自分の時間や自分の人生を切り売りしないことにはお金を稼ぐことが出来ないからです。そのため、消費することしか出来ない人は都会でしか生きることが出来ません。
また、国や会社の偉い人に逆らうことも出来ません。「もう明日から来なくていいよ」と言われたら生きていけなくなってしまうからです。

「ぽつんと一軒家」というテレビ番組がありますが、そこに出てくる人はみんな何らかの「生産」をしています。生産をしているから、人里離れた一軒家でも自立した生活ができているのです。

私が子どもの頃は、水鉄砲も、竹とんぼも、凧も、自分で作り方を学び
自分で素材を探し、自分の手で作るものでした。でも、今では「お店で買うもの」になっています。
現代の子ども達にとって、「遊ぶもの」を手に入れるために必要なのは「お金」だけです。「知識の学び」も、「技術の学び」も、「頭の使い方の学び」も、「からだの使い方の学び」も必要ありません。

だから、教育においても「お金を儲ける能力」を育てることには熱心ですが、「知識の学び方」、「技術の学び方」「頭の使い方」「からだの使い方」を学ばせようとはしていません。

そのような「消費者としての教育」ばかりを受けた子にとっての「作る」というのは、「キット」のようなものを「組み立てる」ことのようです。
実際、学校の工作では、刃物を使わせず、すでに加工されたパーツを組み立てるだけの活動になっています。

うちは造形教室をしていますが、教室に最初に来た頃の子もそんな感覚です。「椅子を作りたい」というので木を出してあげるとポカンとします。そして、「え! これ、自分で切るの?」と聞いてくる子もいます。それで「そうだよ、ここは自分で作るところだから」と答えるのですが、次に「何で切ったらいいの?」と聞いてきます。

それで、「ハサミ、ナイフ、ノコギリ、腕力、超能力、切れるならなんでもいいよ」と言うと、実際にハサミやナイフで切ろうとし始める子もいます。まあ、ほとんどの子はノコギリを選びますけどね。

次に、「どこで切ったらいいのか分からない」と言ってきます。頭の中に設計図がないからです。当然、ノコギリの持ち方も使い方も知りません。
そのため、切り始めても、すぐに「切れない」「重い」「疲れた」「腰が痛い」などと言い出します。

そしてこれと同じようなことが子育ての現場でも起きています。実際、我が子の子育てが始まるまでは、「子どもは子育てのマニュアル通りにやればちゃんと育つ」と思い込んでいる(ようにしか見えない)お母さんがいっぱいいますから。

でも、消費者としての感覚や能力では子育ては出来ないのです。「生産者としての知識や能力」が子育てには必要なんです。