今日はこれから、山北の「ペガススの家」という所で毎年やっている親子遊びの合宿に行ってきます。

ということで、明日のブログはその合宿から帰ってから書きます。

******************

 

ダンスを学んだことがない人や、ダンスを見たことがない人に、「自由に踊っていいよ」と言っても、自由に踊ることは出来ません。

本人は自由に踊っているつもりでも、周囲の人にはそれは「自由」ではなく「デタラメ」にしか見えません。
本人も、そのようなダンスでは楽しくないのですぐに飽きてしまいます。

ストレスが溜まっているときなどはデタラメに踊るだけでも気持ちがいいかも知れませんが、それは「排泄」であって、私が言っているところの「表現」ではありません。
(排泄もまた「表現」の一種ですが、「表現」のような「人を育て、自由を楽しむ行為」とは異なるものです。)

実は、「自由に踊ることが出来る人」は「踊ることを楽しむことが出来る人」でもあるのです。
これは、お料理でも、絵を描くことでも、子育てでも、人生を生きることにおいても、仕事でも同じです。

「自由に子育てが出来る人」は、「子育てを楽しむことが出来る人」であり、「子育てを楽しんでいる人」は「自由に子育てが出来ている人」でもあるのです。
人は「自由がない行為」を楽しむことが出来ないからです。


その時、もっと「自由にならなければ」などというような精神論では自由になることが出来ません。むしろ、不自由になります。

じゃあ、どうやったら楽しめるようになるのかというと、「学び方」を工夫するのです。その「工夫」が学びを楽しくしてくれるのです。

勉強も工夫するから楽しくなるのです。そして、工夫するから身につくのです。ただ頑張っているだけでは身にはつかないのです。
そして、「自由」は、その「工夫」の中で実現されるのです。

でも、「工夫」をしたことがない人には「工夫する」ということがなかなか分からないようです。
子どもでも、最近の子は、思い込みでやってみて、その思い込み通りに行かなかったときにはすぐに諦めてしまう子が非常に多いです。
「こうやってだめだったら、ああやってみよう」と工夫することが出来ないのです。

そんな時、ただ頑張るだけではどんどん迷路のどん詰まりに追い込まれ、苦しくなるばかりです。そういう子育てをしている人もいっぱいいます。

「早くしなさい」と言ってもダメだったら、他の方法を工夫するのです。何回言ってもダメなのに、ただそれを繰り返し続けるだけの人は「工夫しない人」です。
それでは「子育て」は苦しくなるばかりで楽しくなりません。自由にもなりません。

じゃあどうやって工夫するのかと言うことですが、その時に必要になるのが「視点の切り替え」なんです。
ただし、視点の切り替えが出来るようになるためには、「知識」ではなく「多様な体験」が必要になるのです。体験が「自分の視点」を与えてくれるのです。
知識の中にあるのは「他人の視点」だけです。


だから、知識ばかりいっぱい詰め込んで体験が不足している子は、学ぶことを楽しむことが出来ないし、自由に感じ、考え、表現することも出来ないのです。

だから、子ども時代はお勉強などさせずに、いっぱい遊ばせた方がいいのです。


 

現代人は「簡単・便利」と引き換えに「自由」を失っています。
社会の色々なことが機械化されることで、私たちの生活は簡単で便利になりましたが、その分一人一人の能力は低下し、不自由になってしまいました。
でも、そのことに気付いている人は多くありません。気付くきっかけがないからです。

私はパソコンなるものが登場する前からコンピューターを使っていました。オフィスコンピュータなる、冷蔵庫のように大きなコンピュータです。
そのコンピュータを動かすためには、その動きを制御するためのコードを入力しなければなりません。

パソコンなるものが登場し、私がそれを扱うようになったのは1983、4年頃のことです。まだ「ウィンドウズ」は存在していない時代です。その頃のパソコンもまた、オフィスコンピュータと同じように電源を入れても真っ黒な画面が立ち上がるだけでした。コードを入力して動作を指示しないと何にも出来ないのです。
電話回線を使ったパソコン通信なるものはありましたが、インターネットなどはありませんでした。

でも、コードを入力して動作を指示しないと何にも出来ないのですが、コードを記述すれば100%コード通りに動きました。「自分仕様のアプリ」も作ることが可能でした。

で、1995年にウィンドウズが登場したのですが、びっくりしました。電源を入れただけで画面が立ち上がるのですから。コードを打ち込まなくても作業が出来るのですから。アプリも自分で作らなくても出来合のものがいっぱい出てきました。
自分で作るのではなく、数ある中から選ぶだけで良くなったのです。

それは便利でした。でもそれと同時に自由を失いました。
それまではパソコンを私のやり方に従わせていたのに、ウィンドウズではウィンドウズやアプリのやり方に私が従わなければならなくなってしまったからです。
セルフレジと同じです。人間の店員さんならお客の要望にある程度は合わせてくれますが、セルフレジでは、100%お客の方が機械のルールに従うしかないのです。

それはまたレゴとも似ています。レゴでは色々なパーツをくっつけるだけで簡単に色々なものが作れますが、パーツそのものを自由に自分で作ることは出来ません。レゴで遊ぶときにはレゴのルールに従うしかないのです。それが「便利の代償」です。

また、レゴでは「のようなもの」しか作れません。レゴでも「トンカチのようなもの」を作ることは出来ます。でもそれは、あくまでも「のようなもの」であって「トンカチ」そのものではありません。
「椅子のようなもの」も作ることが出来ます。でもそれは「本物の椅子」ではありません。

簡単で便利なオモチャで作れるのは「オモチャ」であって「本物」ではないのです。
でも、本物の道具と材料を使えば、自分のイメージに合わせて本物の椅子も、本物の家も、本物の洋服も、本物のお料理も作ることが出来ます。

ただし、そのためには「本物を使いこなすための修練」が必要になります。レゴで作るように誰でも簡単に出来るわけではないのです。でも、修練することで本物を作り出す自由を手に入れることが出来るのです。
簡単で便利に遊ぶことが出来るレゴでいくらいっぱい遊んでも、本物を作れるようにはならないのです。

そして、子どもの成長にはそういう「本物と出会う体験」が絶対的に必要です。まただから、子どもには学ぶことや修練することが楽しい時期があるのです。歩き始めの幼い子どもは転んでも転んでもまた立ち上がり歩こうとしますよね。

2,3才の子は色々なことにチャレンジしようとします。当然ケガもします。でも、諦めません。
でも、そうやってハサミやナイフの使い方、ノコギリやトンカチの使い方を学ぶことが出来るのです。

うちの4番目は赤ちゃんの時から教室でウロウロしていたので、3才ごろにはもうナイフも、ノコギリも、トンカチも自由に使っていました。ケガもしていましたが、自分でバンドエイドを貼っていました。

また、4,5才ごろになると、さらに活動が大きくなります。この頃の子は無茶なこと、危険なことでも大人の目を盗んで平気でやってしまいます。その結果ケガをしてもまた挑戦します。何回ケンカをしても、またその子に寄っていきます。

昔から、幼い子どもたちはそうやって、失敗を繰り返しながら、ケガをしながら道具の使い方、からだの使い方や、仲間の作り方を学んでいたのです。またその過程で、頭の使い方、心の使い方、感覚の使い方を学んでいたのです。


でも、この時期に安全で、簡単で便利な機械を与えてしまうと、努力すること、頑張ること、工夫すること、考えること、感じること、からだを使うことが苦手な子が育ってしまうのです。

「本物の道具」と「本物の材料」を与えないと、本物を作る能力が育ちません。
「本物の体験」を与えないと「本物の自分」を知ることが出来ません。
「本物の友達」と遊ばないと、本物の友達を作ることが出来ません。
それは、「自分だけの本物の人生」を生きることが出来なくなってしまうということを意味しています。ゲームの中の世界と、本物の世界は全くの別物なんですから。




 

簡単で便利な機械に囲まれて、自由な時間も、自由な空間も、一緒に遊ぶ仲間も与えられず、大人の保護や、監視や、管理のもとで、一人だけで機械を相手に遊び、受け身的に生活している現代の子どもたちには、自分の人生を自分の意思で生きていくために必要な能動性を育てる場がありません。

そのため、何でも「やってもらう」のが当たり前だと考えています。
親子遊びの場で工作をする時も、子どもたちは自分でやろうとせず「お母さんやって」とお母さんに仕事を委託して、自分は遊んでいます。「先生やって」と私のところに持ってくる子も多いです。

それで、「最初は分からない、出来ないのも当たり前だな」と思って、やり方を教えようとすると、私に任せたまま本人はどこかに行ってしまうのです。そばにいて、私がやることを能動的に観察しようとはしないのです。

これは自宅でやっている教室でも同じで、ちょっと難しいと感じるとすぐに「先生やって」「先生手伝って」と言って来る子がいっぱいいます。昔は「先生は手伝わないで」と手伝いを拒否する子もいましたが、今ではそういう子は皆無です。

「手伝って」と言ってくる子も、私に任せたまま自分は友達とおしゃべりしています。そばにいて私がやっていることを観察し、学ぼうとはしないのです。そのため、いつまでたっても出来るようになりません。

そういう子に共通しているのが「観察力が弱い」ということです。見本を見せても見本を見ようとしません。ただ眺めることは出来るのですが、観察力が弱いのでどう見たらいいのか分からないのです。テレビもyoutubeもボーっと眺めているだけで楽しむことが出来ますからね。

ただ眺めるだけなら、視覚に特に問題がなければだれでも出来ます。赤ちゃんでも出来ます。
でも、ただ眺めているだけではその対象から何も学べません。なにも発見することが出来ません。そのため、すぐに退屈します。だから、テレビのように常に動き変化している対象なら眺め続けることが出来るのですが、静止しているものに意識を集中し続けることが出来ないのです。

静止しているものを観察するためには、自分の意識の方を能動的に動かすしかないのです。感じながら、考えながら、意識を働かせながら見ているから、静止しているものでも見続けることが出来るのです。

ちなみに、客観的に見る能力がまだ育っていない7歳前の子は、空想画は描けても観察画を描くことは出来ません。見て描かせても客観的な観察画にはなりません。その証拠に、観察画なのに見えていないものまで平気で描いてしまいます。

そして、この「観察能力」は「学習能力」とも直結しています。先生の話を聞いても、本を読んでも、実験をしても、観察能力が低い子はその対象から何も学ぶことが出来ないからです。
ただボーっとしか見ることができない子は、話を聞いてもただボーっと聞くことしかできないのです。

また、観察力が育っていない子は、本に書いてある文字は読めても、その言葉の中から何も発見することが出来ないためすぐに飽きてしまいまいます。

そのような能動的な意識の働きが育つためには自由意思に基づく自由な体験が必要になるのです。
実は、昔の子どもたちにとっては当たり前だった、自由な時間と自由な空間の中での仲間との自由な遊びが、子どもたちの能動性を育てていたのです。


また、遊びを通して観察力も育っていました。
子どもは子どもに丁寧に教えたりはしません。また子どもにもプライドがあるので他の子に聞いたりはしません。コマ回しが出来ない子は、「上手にコマを回している子」のことを観察し、その技を盗んでいたのです。
昔の職人の世界と同じです。


でもそういう「遊びを通して学ぶ場」も消えてしまいました。そのため、依存心ばかりが強く、自分の意思で能動的に動くことが出来ない子どもたちがいっぱい育っています。
「○○ガチャ」という言葉でなんでも人のせいにしようとする人たちが増えたのも、その結果だと思います。

確かに「ガチャ」による影響は大きいです。それは調査研究されています。でも、「それを乗り越える能力も人間には与えられているんだ」ということを忘れてはいけないんだと思うのです。