自営で一緒に服屋を営んでいた父と母は
朝から晩まで、四六時中一緒にいた。




長年連れ添い
それこそ空気のような存在だったことだろう。




いつも顔を合わせていたから
よく喧嘩もしていたけれど、

それはいつもの日常の一コマ。



とにかく家でも
どこへ行くにも一緒だった。





そんな母の足が不自由になり

そのうち少しずつ認知症の症状も酷くなり…



今まで出来てたことが出来なくなっていき
どんどん弱っていく母の姿を見るのは

父にとってどんなにか辛かったことだろう。




それでも父は途中まで
母がちゃんと歩けるようになるように
半ばスパルタ並に指導していた。


その時、姉や私は母が可哀想だと感じたけれど



あれは父の“愛”だったんだなって


今になって想う。




弱っていく母をどうにかして
元の元気な姿に戻そうとしていた父。




そんな中、



母は母で、日々衰えていく自分に苛立ち



父は思い通りに行かなくてもがいていた。




認知症の薬を服用していたその頃の母は
薬の影響で、とてもネガティブで気性も荒く、
狂暴だった。
(のちに薬をすべてやめたら、
 それらの症状が一切なくなった)




それまで一切弱音を吐いたことのなかった父が
その頃から時々、姉や私に電話してきては
愚痴や弱音を吐いていた。
(父が弱音を吐くなんてよっぽどのこと)




自分自身もだいぶ弱っていた父にとって
きっと母の介護の大変さは
想像を絶するものだっただろう。


二世帯で二階には兄一家が暮らしていたが
父は兄達に頼ることはほとんどなかったよう。




今まで誰に頼ることなく
堅実で完璧主義だった父の

こんなに弱くて、取り乱した姿を見たのは
この時が初めてだった。




そんなことはよそに
母の認知症はどんどん悪化の一途を辿っていった。






そんな最中に突然倒れ、緊急入院した母。




それからというもの
母は何度か危篤を乗り越えては
私たち家族はその都度死への覚悟を決めてきた。





緊急入院してから
3年半という時間の猶予があった為


母の死に対して私はもう
かなり前から受け入れ体制ではあった。
(姉も、たぶん兄も)




だから、母に対してまったく心配も不安もなく、
本当にいつ逝ってもいいと。



ただ、苦しんで逝くことだけは避けたい。



もうただそれだけでした。






危篤状態の時

主治医から延命する、しないを
私たち家族に委ねられた。




『延命はしない』という、
母の意思も聴いていたし、父も納得していたし、

家族でも延命はしないと決めていた。




にも関わらず


土壇場になり父はためらった。




どんな姿でも
ただただ母に生き延びて欲しかった父。




父にとって母は
その存在自体が生き甲斐だった。




きっと、父の覚悟が決まった頃に
母は逝くだろう…。



と、私たちきょうだいは踏んでいた。







母とは、コロナで去年1月から会えないまま…。


父も、この状況下で強制的に
ほとんど会えずにいたのは


後から考えたら

(母が亡くなり)
会えなくなる予行練習だったように感じた。




その会えない時間が少しずつ
父の覚悟となっていったのかもしれない。





~母の旅立ち③へつづく~








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