口から漏れるわずかな吐息。外気に触れた瞬間に白く染まり、しゅっと消える。

 視界一面見渡してみると、霧がかったように白く濁っている。これは標高の高い場所ならではの本当の霧なのか、一面を覆い尽くす人々から漏れ出した吐息の集まりなのか。はたまたその両方であるか。

 寒さをしのぐために着込んだインナーもアウターも、もはや正月の早朝には太刀打ちできない。上着に連結されたフードを被ろうにも、日本古来大切にされてきた寺社仏閣での粗相を許そうとしない良心が働く。

 唯一、暖かみを感じられるのはポケットの中に突っ込んだ手だけだった。小さくて柔らかくて華奢な手が大きくてごつい手と絡み合ってポケットの中で生きる。寒い中に放り出された体で右のポケットだけが人の温もりを感じていた。

 人が集団として行動を共にするとき、一番大切なのは何か。そう、「足並みを揃えることだ」。人それぞれ進み方には違いがある。ゆっくり歩いたり、一回立ち止まって待ってやるのが仲間であり、集団だとこの数年で教わった。

 だから今、こうして山の上へと向かう階段をゆっくり歩いているのだ。昨夜から降った雨が冷やされ凍って階段を覆い尽くしている。

 人生の道を歩んで行くかのように一歩一歩階段を踏みしめる。

 もし、転びそうになったら俺が踏ん張れば良い。それでもだめなら一緒に転げ落ちるだけ。たとえ自分が下敷きになろうとも全力で守る。そういうものなんじゃないか、「足並みを揃える」ということは。

 まだ日付が変わったばかりの暗い夜道を一心に登っていく。時々肩がぶつかり、冷たい空気を運んでくる風は甘い匂いを右から左へとさらっていく。

 その風の道筋を追いかけて左に目をやると、下から仲の良さそうな男女が登ってくるのが見えた。移ろいゆく視界の中で彼らとの距離が近づいていく。そしてすぐに隣まで追いつき、二人の姿は小さくなった。

 

 登れど登れど、先に見える階段は縮むことがなく、かと言って下を振り向いてもまだ落ちても命の保証はありそうだった。

 木々がざわざわと音を立てて揺れる。その度にビクッと揺れる肩と短く切り揃えた髪の毛が視界に入る。ポケットで温めていた手を強く握り、体を少し寄せる。間に外気を挟んでも体の温もりを感じる。

 歩き疲れたからか、いつにもなく荒れていた呼吸は、いつの間にか色をつけなくなっていた。何も見えないのに口から出る息の存在はわかるし、道筋だって見えそうだった。そして、「見えない」のに「見えるもの」は他にもあった。

 時々休憩を挟みつつ、ここまでに何人の人に追い抜かれたことだろう。手首に身につけた時計を覗くと、長針がすでに半周していた。

 追い抜かれた人の数だけ夢を見た。時間が過ぎた分だけ未来を語った。それは存在しない空想であり、想像であったが、同時に「創造」でもあった。

 山の上までもあと数える程になった頃、一段と冷たくなった風が頬を撫でた。下から上がってきたその風は一度立ち止まると、暗闇の広がる空へと登っていった。まるで命を宿した龍のように、姿は見えないがそう感じたのだった。

 

 吐く息が白い。

 いくらその環境に適応したとはいえ、環境自体が変化するのならば適応した体は取り残される。ようやくポケベルからガラケーの使い方に慣れたとしても、数年後にはスマホが世界の中心であり、人生の中心になるなんて誰も思いもしなかっただろう。

 時代というものは常に先へ先へと忙しなく進んでいくもの。一度立ち止まれば置いて行かれてしまう。

 かくいう今も俺の体は置き去りにされ、繋がれた右手だけが先の未来を感じている。進んだ未来が一旦止まって振り返った。心配するな、二人は同じ時間が同じように流れているのだから。

 最後の一段を満足げな顔で踏みしめ、あたりを木々で覆われていた不気味さが一気に晴れた。後ろを振り返れば、出発地点はもはや奈落の底どころか暗くて何も見えない。点々と古い照明があるが、それ以上に道は長く暗く、明るく見やすくするという本来の意味をもうなしてはいなかった。

 山の中に際立つ平地を歩く足に違和感を覚える。足を努力して上げることなくても前に進める。しかし、それはいくら前へ進んでも上には上がれないことを意味していた。

 

 社会も同じ。

 一歩前進したとて、前へ進むだけで上には上がれない。「前」と「上」って違うんだよな。

 軽い足取りで歩き、大きな本堂の前で立ち止まる。まだ夜も明ける前なのにそこには多くの人が群がっていた。いや、日付が変わったばかりの夜明け前だから良いのかもしれない。こういうのは早いほうが良いだろうから。

 お堂の入り口に対して垂直に出来た綺麗な直列の一番後ろ、だいぶ前に俺らを追い抜いていった男女の後ろに並んだ。

 動きを止めた途端、さっきまで薄れていた「寒い」という言葉が頭に浮かんだ。

 ひゅーという音を立てながら四方八方から風が吹いてくる。その風は俺たちに向かって吹いてきたかと思えば、同時に角度を変えて本堂の中へ吸い込まれていった。

 薪をくべてめらめらと燃える炎は達磨やお札の力を借りてさらに火力を強めていた。しかし、一向に暖まる気配がしない。どれだけ近づいても体感温度が変わることはなく、時々飛んでくる火の粉にビビるだけ。

 首筋にひんやりとしたものを感じ視線を暗い夜空に上げる。そこには空と対比して映える白い粉が舞っていた。広げた手のひらに降り立った小さな雪の粉はすぐに溶けてなくなり、また付いてはすぐに消えた。

 一粒の小さな雪の粉に大きな攻撃力はない。少しだけひんやりして幻想的ですぐになくなってしまう。でも、これがたくさん集まったら、ひんやりだけでは済まない。なかなか溶けない。

 小さいものは小さいから、少ないものは少ないから、幻想的で理想的なのだろうか。

 徐々に強く降ろうとする雪を眺めつつ、今にも寒さに凍り付きそうな体を生かそうと口だけは運動を続ける。膨張した雲ほど大きくて中身のない話に盛り上がる。現実味のない話が膨らむだけ膨れて、あとは割れるのを待つだけだった。

 足下が明るくなり顔を上げると、気づけば俺たちは本堂から漏れ出した照明の光に照らされていた。何年も前、両親に言われたことを思い出した。

 人生はみんなと同じ道を歩めば良い。先人が作った安定の道をはみ出さないようにみんなで歩いて行く。その道の上だけは光が当たって、なんの障害物もなく、ただ広く一直線に延びているから、と。

 時代の流れに身を任せてぷかぷかと浮かんでいれば誰かに取り残されることもない。前に進むだけなら自分の力さえも必要ない。でも、本当にそれだけで良いのか。波に呑み込まれたら自分の足では逃げられない、前に進むだけで上にだって行けやしない。だから敢えて俺は新たな道を作りに行ったのだ。

 そんなことを考えつつふと後ろを振り返ると、知らぬ間に俺たちの後には老夫婦が並んでいた。男性の乗った車椅子をおそらく奥さんとおぼしき女性が押している。二人とも厚着をしているがそれでも目に見えて寒さで震えているのがわかる。老体に氷点下の外気はきつい。

 本堂からは灯りとともにストーブで少しばかり暖められた空気が漂ってくる。建物の中が流石に外より寒いことはないだろう。係員が俺たちを誘導しようとするのと同時に列から外れ、後ろの老夫婦を先に入らせることにした。二人はにこりと笑みを浮かべ、何度も頭を下げて中へ入っていった。

 いくら善意で列を譲ったといえど、再度同じ場所に割り込むのは、人が許しても自分が許しがたい。

 列の最後尾はさらに伸びていて並び直すにも時間がかかる。本堂の参拝は諦めて、山の頂上を目指すことにした。

 

 真っ暗だった視界は徐々に明るくなりつつあり、水平線の端の方には薄い青色が見えた気がした。

 山頂までは電気を駆使してひょいと一っ飛び。ロープウェイに揺られ、空中を散歩する。

 山に沿って雲ができ、なんの躊躇もなくその中を通っていく。鳥がばたばたと飛び立つ音が聞こえ、その振動は車内にも伝わってくる。

 頂上へ降り立った瞬間、外が黒から薄い紫へと色を変えているのに気がついた。人々は崖っぷち近くまで歩み寄り、下を覗く者もあれば、真っ直ぐと前を見つめる者もあった。下から淡く照らされた背景に白い雲が流れていく。まるで空の上を渡れてしまうかのような、そんな感覚に陥った。

 日が顔を覗かせ周囲は新しい橙の色に染まっていた。強く放たれる光が人を明るく照らし出し、突き刺さるような暖かさを感じる。その頃にはもう雪も降っていなかった。

 隣で目に涙を浮かべる横顔を見て、そっと優しく左手を包み込んだ。その手は強く握りかえされて、俺はそれ以上に強く握りしめた。

 今日はただの始まりであり、ただの一日に過ぎない。ここから新たな一日が始まり、新たな一年が始まる。

 夜明けは毎日やってきて、その日その日で違う。毎日違う夜だけど、明けない夜は絶対にない。

 遠くに小さく切り取られた房総が見える。小さいけれど確実にあるもの。あの中にはいくつもの建物があって、多く人が生きていて、それぞれの生活がある。遠くて、小さくて見えないけれど、確実にある。

 これから先の未来。いくら見ようとしても見えるものは数少なかった。そこには小さな可能性がいくつもあって、自分の手で大きくしていくのだ。「自分の手」で。

 山麓に戻ろうとするところで、ロープウェイから降りてきた乗客の中に先ほどの老夫婦を見つけた。何かを楽しそうに語りつつ、二人は俺たちを見つけると顔に微笑みを浮かべた。二人の指先には鋭い日の光が当たり、きらきらと輝かせるものがあった。いくら年を取っても仲睦まじい姿に憧れと羨ましさを感じた。

 俺は自分の左手を斜め上に掲げ、まじまじと見る。その薬指には二人の老夫婦と同じ、日の光に照らされて輝くものがあった。彼らよりもまだ輝きの強い指輪を眺めつつ、隣の彼女に言う。

「この金が錆びるまで一緒にいよう」

 視界は一面金色に輝いていた。

 山を下り、忘れ物を取りに帰るかのように本堂に寄って参拝する。ピークも過ぎたのか並んで待機している人もなく、すんなりとお参りすることができた。

 本堂の前、大きな賽銭箱を目の前にして心を落ち着かせる。目を閉じて願いを心の中で唱えれば、自然と頭の中にこれまでの一年の色々な出来事が思い起こされた。

 そして、これから起こるであろう俺たちの未来も頭の中に浮かんだ。今年は昨年以上に大変な年になりそうだ。

 顔を上げ、ちらりと隣を覗くと、両手を合わせて一心に祈る彼女の姿があった。

 人は不安だから、誰かにすがり心の支えにしたい。自分一人では耐えきれないから、不安を誰かに押しつけたい。

 彼女は一人では抱えきれない不安を抱えている。俺も抱えている。彼女の気持ちはわからないけれど、心の支えになりたい。

 顔を上げた彼女と目が合い、見つめ合って笑いが零れる。視界の全てにかかっていた霧が晴れたかのように、すっきりとした気持ちだった。

 所々に降り残った雪を眺めつつ、帰路につこうと来た道を歩く。

 階段まで来たところで忘れ物に気がついた。握っていた手を離し、本堂まで走って戻る。息を切らし、肩を上下に揺らしながら呼吸を落ち着け、手を合わせる。

――来年は三人でまた来ます。

 願いではない。約束。

 人は希望があるから、強く生きられる。約束があるから、希望を持てる。俺たちの未来ははっきりとこの目に見えた。そして、自分たちで切り拓いていくことを誓い合った。

 いつの間にか顔を上げなければ見えない高さまで昇った太陽は、いつも俺たちを照らしてくれる。暖かいその光に見守られて道から外れたところでも歩こうとすることができるのだ。

 繋ぎとめた小さな手がその力で握りかえすとき、俺たちの絆はまた一つ固く結ばれたような気がした。

 見上げた広い青空には、風に煽られて無数の雪の粉が自由自在に舞っていた。

 

2024/01/02 傷心した心を癒やす尊き文学に愛を捧げる。 森乃宮伊織