禅の修行はなかなか厳しい。ちょっと身じろぎでもすれば、たちまち警策がお見舞いする。厳しい戒律に取り囲まれて、箸の上げ下げすらも自由ではない。自堕落になれた人間には、瞬時も我慢ならないであろう。
しかしこの厳しい戒律も、回を重ね、時を経るにつれ、苦痛ではなくなってくる。戒律を戒律と思う間は苦痛である。しかし、その戒律がいつしか身に付き、日常坐臥に自然の振る舞いとなって現れるとき、もはやそれは苦痛ではない。そして、この厳しさを苦痛と感じなくなったとき、そこから鍛え抜かれた人間の美しさがにじみ出てくるのである。
人間は本来偉大なものである。しかし、その見事さは、放っておいては現れない。易きにつくのが人間の情であるとしても、易きがままの日々を繰り返すだけならば、そこには、ただ、人間としての弱さが露呈するだけであろう。
お互いに与えられた人間としての美しさを磨き上げるために、きびしさを苦痛と感じないまでに心を高めたいものである。
「道をひらく」 松下幸之助
しかしこの厳しい戒律も、回を重ね、時を経るにつれ、苦痛ではなくなってくる。戒律を戒律と思う間は苦痛である。しかし、その戒律がいつしか身に付き、日常坐臥に自然の振る舞いとなって現れるとき、もはやそれは苦痛ではない。そして、この厳しさを苦痛と感じなくなったとき、そこから鍛え抜かれた人間の美しさがにじみ出てくるのである。
人間は本来偉大なものである。しかし、その見事さは、放っておいては現れない。易きにつくのが人間の情であるとしても、易きがままの日々を繰り返すだけならば、そこには、ただ、人間としての弱さが露呈するだけであろう。
お互いに与えられた人間としての美しさを磨き上げるために、きびしさを苦痛と感じないまでに心を高めたいものである。
「道をひらく」 松下幸之助