オリジナルソングコンテストと言えば
ヤマハの「ポプコン」の時代、
密かに行われていたメジャーなコンテストです。ヾ(@°▽°@)ノ
ここでグランプリをとって
今でもメジャー現役シンガーとして活躍されているのは
確か杉山清隆さんくらいだと思います。
(音楽業界で活躍されている方は多いと聞いています)
大学3年の時、
そろそろ就職活動をしなければならないというタイミングで、
このコンテストをこれからの方向性を決める
最後のチャンスとして応募しました。
バンドではなかなかヤマハの「ポプコン」の地区予選を勝ち上がれず、
偶然見つけたこのコンテストに
一人でエントリーしました。
1980年 第3回大会です。
バンドではフォークソング中心のオリジナルソングだったのですが、
この頃すっかりブルースギターにはまり
スリーピン・ジョン・エスティスやライ・クーダー、ジェームス・テイラー、
日本だと憂歌団や中川イサトに傾倒していて、
エントリー楽曲はかなり影響された…
今から思えばかなりへんてこな内容でした。ヾ(@°▽°@)ノ
すんなりテープ審査が通り、
関東地区代表予選が高田馬場のBIGBOXであり、
その時はギター1本の弾き語り。
若いというのは根拠のない自信がエネルギーになり
発表の前に関係者の方が
「君は関東地区代表だ、がんばれよ!」と耳打ちしてくれました。
本選は中野サンプラザでしたがその前に
千駄ヶ谷の日本青年館でリハーサルがありました。
事前にギター1本でやるか、
アレンジお任せで大会側のフルオーケストラで歌うことも可能という事を聞かれ、
躊躇することなくフルオーケストラでお願いしますと返事をしていましたヾ(@°▽°@)ノ。
このビクターのオリソンは、
演歌でも、民謡でも、ロックでも、フォークでも、
オリジナルソングならなんでもありという条件でしたので、
ほんとに演歌っぽい男女のデュエットソングや狩人のあずさ2号みたいなのとか、
ヘビメタ、ポップスなどなど何でもあり。(‐^▽^‐)
なのでバックバンドが必要だったのでしょうが、
フルオケとは思いませんでした。
自分の作った曲、
しかもギター1本でしか演奏した事のない曲が
フルオケアレンジになるなんて一生に一度のチャンスかもしれません。
事前に送られてきたバンドスコアラーの編曲者の名前を見て
愕然としました。
作詞・作曲:くりすみん(当然!)
編曲:馬飼野 俊一
編曲:馬飼野 俊一
( ゚ ▽ ゚ ;)
馬飼野 俊一さんの事は
説明の必要もないと思います。
日本青年館でのリハは期待いっぱい!
こんな名もない学生が作った譜割など無視した無茶苦茶な曲を
全くイメージを損なうことなくすごいアレンジに仕立ててあったのです。
最初は体が震えましたが、
3度ほどのリハで完璧でした。
ものすごく歌いやすいアレンジになっていました。
本選の中野サンプラザはくりすみんの音楽人生の中で
ピークであったことは間違いありません。
あの歌はもうオリジナルキーでは歌えません( ̄ー ̄;。
この時も狩人のような男性デュオと仲良くなり、
「もううグランプリは決まってるんだって。でも僕らはくりすみんの歌が一番好きだよ。」と
残念そうに話していましたが、
スター誕生の経験もあり妙な自信がありました。
しかし、この時は彼らの話していた通りのグループが
グランプリでした。
入賞はしましたがすごく気落ちして、
「あー、これでプロを目指すのも終わり、就職活動をしよう。」
と楽屋でギターをかたずけていたら、
かつて「新譜ジャーナル」という人気の音楽雑誌を発行していた
自由国民社という出版社の方が、
「ト●オレコードの社長が今のステージを見ていて、
一押しの新人シンガーソングライターにしたいので、
もう少し他の曲をきかせてくれないか」
と声をかけてくれたのです。
やはり、わかる人にはわかるのだ!
と、また根拠のない自信が復活!ヽ(゜▽、゜)ノ
しかし、生まれて初めてオーディションでトップになれなかった挫折感で、
くりすみんにはこれ以上の曲を書く力が残っていませんでした。
半年待ってもらいましたが、一曲も書けず、
残念ながらこの話は無くなってしまいました。
さらにオチがあって、
その2年後だか3年後にト●オレコードは終息。
当時の「「ト●オレコード」は大メジャーレーベルでしたが、
ジャズのブルーノートとか渋いアルバムが中心で
ヤマハのポプコンから出てくるような
ニューミュージック路線を開拓したかったのだと思います。
サラリーマンになってからその事をニュースで知りましたが、
「この俺様をデビューさせていたら、今頃ビルでも建ったのにな。」
とか酒を飲みながら悪態をついた覚えがあります。( ̄ー ̄;
くりすみんをデビューさせていたら
もっと早く終わっていたかもしれません。(‐^▽^‐)