親父、頑張ります。 | Life is beautiful 旅行と一口馬主記録

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主に一口馬主と旅行、グルメについて自己満足な投稿をしていきます。
まずは1日でも長く続けることが目標です。

私の父はかなりの変わり者です。
大学生の時から贈り物の商売を始めました。
私の地元松山市ではある程度名が通っていました。
なのでよく〇〇の息子さんと呼ばれることが多かったです。
 
絵に描いたようなワンマン社長でした。
自分の思うままにならないといつも怒っていました。
それでも会社を大きくして毎年利益を出していました。
 
そんな父から私が20歳の時に依頼がありました。
フランスにディープインパクトを応援しに行くからついて来いと。
当時ゼミ選考の大事な時期でしたがNOは許されません。
 
この旅の道中も色々事件がありました。
一番は銀行が閉まっていて両替ができなかったことです。
街の両替商を巡りなんとか300万円分は換金できました。
 
凱旋門賞当日。
父は300万円をディープインパクトの単勝にぶち込みました。
ほんとは1000万買いたかったと腹を立ててました。
 
 
結果はご存知の通りです。
 
 
そんな父が先日亡くなりました。
享年68歳。
 
本人の生前の希望で家族で葬儀は取り行いました。
 
仕事を必死に頑張って私の学費を出してくれました。
フランス留学に私立の大学。
相当のお金がかかったと思います。
奨学金を借りずにいれてることに感謝です。
 
ただ家庭を顧みずに仕事に遊びに夢中でした。
私は小さい時遊んで貰った記憶はないです。
 
医者のいう事を聞かずに体調を壊して入院。
その際に京都の舞妓遊びに3000万円使っていたことが発覚。
病気が一番ですがこの時に会社を売却を検討。
そして親友と思っていた友達に裏切られ会社を乗っ取られまっした。
 
面倒見はよくお節介。
選挙活動頑張り過ぎて刑務所に拘留せれたこともありました。
仲間を売らず警察の取り調べを黙秘し続けたようです。
 
何もかもが無茶苦茶な親父でした。
 
晩年は熟年離婚をして一人で細々と孫の成長を一番の楽しみにして過ごしてました。
そんな親父が1年半前に炎症性ミオパチーという難病に。
筋肉が弱って行き歩けなくなる病気です。
介護士の力を借りてなんとか一人で生活してました。
施設に入ることを頑なに拒んでました。
 
父の強い希望があり今年の6月に長男を連れて帰省しました。
今考えるとこの時無理して帰省してほんと良かったと感じます。
 
 
この時は躁うつ病の躁が酷かったです。
以前のように気に入らない事があれば怒鳴り散らす姿。
父に激しく怒りを抱きました。
それもあってその後連絡を取っていませんでした。
 
そんな父が翌月の7月に自ら施設に入ることを希望してきました。
ただ施設では十分なケアが出来ず病院に。
そして先月療養型の病院に転院しました。
落ち着いた余生を送れると思っていました。
 
21日に13時半過ぎ病院から意識レベルが低下していると電話が。
今晩持つかどうかという内容でした。
急いで福岡空港に移動して松山に。
空港からタクシーで移動中に再度病院から電話。
心拍が停止して心臓マッサージをしていると。
その後意識を取り戻しました。
 
私が病室に着くと6月と変わり果てた父の姿が。
父の手を握り声をかけると反応が。
 
口が動いたのです。
この状況で口が動くことは凄いと後日聞きました。
 
必死に動かす口。
なんといってるかこの時はわかりませんでした。
 
それが火葬前の葬儀中にわかりました。
「ガンバレ」
そう言っていたのに違いないと。
 
独立して一年半。
生前父からは甘いと言われてました。
 
私の会社は私一人です。
人を入れるかどうか悩んでました。
雇うというのはその人の人生に対する責任が必要と。
でもそれは会社が悪くなった時の言い訳でした。
 
どんな会社になるかはわかりません。
それでも人を雇うというステージに進もうと思います。
 
既に波乱万丈な人生を歩んでます。
今後もどうかこんな私とお付き合い宜しくお願い致します。
 
書いてる途中に何度もやめようか悩み涙しました。
私はブログにプライベートを書いて来たので書かせて頂きました。
 
父が亡くなったのは11月22日。
良い夫婦の日です。
 
子育てで言い争いが多かった我が家に警笛を鳴らしたのかもしれません。
 
父が亡くなって起こった変化があります。
息子の右目が二重になりました。
 
 
仕事に子育て頑張ります。
 
親父、本当にありがとうございました。