#井手英策 氏の「#家族の原理」についての私見 | 長谷川哲の言いたい放題

長谷川哲の言いたい放題

日々思うがことを思うがままに書き連ねていくつもりです。

「家族の原理」って………(^_^;)

井手英策氏のアメブロを読んで、卒倒している。


(以下、井手英策氏のアメブロより)

井手氏は《8月17日に『富山は日本のスウェーデン 変革する保守王国の謎を解く』という本を出した。》こと、さらに、重版決定を誇らしく自慢したあと、低評価だった読者レビューについての反論を書いている。

以下、少し長いが引用する。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

内容については直接ご覧いただくのがいいと思う。

https://www.amazon.co.jp/富山は日本のスウェーデン-変革する保守王国の謎を解く-集英社新書-井手-英策/dp/4087210448/ref=zg_bs_2220247051_2?_encoding=UTF8&psc=1&refRID=1WAHEMGMBTT2SPV1MRKT

ようするに、実際に富山に住んでみろ、そうすればいかに富山が厳しい状況にあるか、理想の地でないかわかるから、という批判だ。僕の本のなかでは、富山の未来が光り輝いているとも、富山が理想の地だとも書いていない。それに富山社会の閉鎖的な面、女性の社会的な地位の低さついても繰り返し述べている。ちゃんと読んでから批判してくれよと、正直、思う。

でも、それはいい。僕が興味を持っているのは、富山に住んでいる人たちの多くは、他県に住んだ経験に乏しい人たちだ。そして、自分たちの地域の良さ、ゆたかさに気づいていない人が本当に多いということだ。これは調査をしていて本当に興味をもった点だった。

(引用ここまで)

そして、井手氏は、富山の「ゆたかさ」を絶賛するのだ。

(引用ここから。カッコ内◆で書いたのは、ハセガワの意見)

食事の美味しさ、景色の美しさ、自然災害の少なさ、それだけではない。まず、富山は経済的に豊かだ。富山の人口は47都道府県のなかで37位、比較的小さな県だが、一人当たり県民所得は6位、勤労者世帯の実収入は4位、自動車の保有台数(◆自動車の保有台数は「ゆたかさ」の基準とはなりえない。東京及びその周辺、名古屋、大阪市など、公共交通機関が発達し、安価な移動手段がある地域では、自動車は、燃料代、税金、車検や保険、駐車場など、とんでもない金食い虫のシロモノである。自動車保有台数が高いといことは、公共交通機関の未整備もしくは脆弱さの反映でもある。そこを検証せずに「ゆたかさ」と一面的にみるのは、実に不思議で理解できない。)持ち家率、家の面積、いずれも1位(◆地価や人口密度の問題を無視して、持ち家率や面積の広さを比較すること自体がナンセンスだとハセガワは思うのだがなあ。)。【以下、北陸電力云々についての記述は割愛した。】

(再び引用ここから)

また、子どもの学力が高いことにくわえて(◆えっと、何を基準に「学力が高い」と断定しているのかが根拠不明。学テとかの点数?学力ってテストの点数だけでは測れないのだが…そこを踏まえての言い分なのか?)、生活保護の利用率も全国でもっとも低い。経済的に豊かで、格差が小さく、子どもたちのまなびを大事にする社会。そんな社会が北陸にあったということに驚いたし、こんなに豊かでも、自分たちの地域のよさに確信を持てない富山の人たちを見ていて、不思議な気持ちになった。(◆「生活保護の利用率が低い」という事実は、「経済的な豊かさ」や、「格差の少なさ」を何一つ証明しない。近年問題になっている、「水際作戦」で窓口の職員が生活保護の申請に来た市民を追い返してしまえば、結果的に生活保護の利用率は「下がる」のだから。)

以下、読めば読むほど、井手氏は「ホンマに大学教員かいな?」というトンデモ論になっていく。

(引用ここから)

それともうひとつ。これは、よくもわるくも、なんだけど、「家族」の原理が地域社会を貫いている。一度、身内、仲間と認められると、本当に親身になって相談に乗ってくれるし、地域の結束力も本当につよい。そのことがどれほど日常の人びとのくらしを支えていることか。

(◆つまり逆に読むと、一旦拒絶されると、いわゆる「村八分」にも転化しやすい……ということ。殺人などの刑法犯罪が、少なからず家族間で起こっていること、家族間に近親憎悪が発生しやすいことなどを無視した俗説ではないかと思う。)

「家族のように支え合う、しかし、それはできるときに、できるひと、やりたい人がやる、そんなゆるやかな共同体でいいじゃないかという決断だ。同じ言葉は舟橋村の職員さんからも聞いた。」と井手氏は語るが、それでは、無責任きわまりない。じゃあ、誰もできない…時にはどうするのさ!大災害の時なんざ、みんな我が身を守るだけで精一杯なんだがなあ。

《僕は富山を見ていて、家族にはふたつの面があると思った。ひとつは「かたち」としての家族。もうひとつは「原理」としての家族。お父さんが働いて、お母さんが家でこどもを3人ほど育て、家事・炊事を一手に引き受ける。たしかにそんな「かたち」をした家族があった時代もある。でも、その「かたち」はとうに壊れてしまった。

じゃあ、家族はなくなるのか。ちがう。家族の「原理」は生き延びていく。人類の歴史を振り返ればいい。家族とは生きるため、暮らすための生活共同体だ。この生存・生活の必要が生み出す「共同性」はけっしてなくならない。たとえ、その必要を満たす家族という「かたち」が消えてなくなったとしてもだ。》

家族としての「かたち」がなくなったとしても「原理」は生き続ける……と井手氏はいう。

とんでもない。

戦前、臣民(今の国民)は、「天皇の赤子(赤ん坊、つまり、天皇のこども)」と、教育の場で叩き込まれたのである。まさに井手氏のいう「家族の原理」、血縁という「かたち」を伴わない「原理」でできあがったものが、家父長制であり、絶対主義的天皇制そのものである。

井手氏の自画自賛の行きつく先は「家族の原理」による公助の切り捨てにあるように思えてならない。