《本日の岐阜関ケ原古戦場記念館》

 

濃尾平野は梅雨入り前なのに太陽ギラギラ...32℃台の真夏日。

前日より8℃も最高気温が上昇したんで...体調を整えるのに四苦八苦や~ん。

そんな中でも歴史セミナー(@エアコン効きすぎ古戦場記念館3F)参加にいそしむジジイかな。

先日の日曜の講師は 文庫本が出た時に即 買って読んだこの本の著者の一人 高橋陽介センセ。定説派からは無視され気味なのに...よくぞ敵陣(定説の殿堂とも言うべき)記念館に乗り込んでござったがや。

この歴史研究家さんはMr.オクレさん似の容貌で...見た目は気弱そう...でも その説は大胆で 興味津々の内容。

しかし... 今時 紙の資料とホワイトボードに手書き説明とは...気鋭の割には 時代遅れかな。

高橋センセの新説では『石田三成は小早川秀秋を成敗するために関ケ原へ向かった。西軍が小早川秀秋の裏切りを知ったのは合戦の前日である』...と。

セミナー後、ジジイはセンセの席まで行き...こっそり質問

『当時 今須村と松尾村の領主は 三成で、大垣城主 伊藤盛正に命じて松尾山城を改修させていたし、検地で地形も熟知しとるはず。ならば小早川秀秋軍が松尾山城を不法占拠したと知った後、三成が山城正面である南側の平井(下の地図の中央下)に兵を配備しなかったのは何故?』

センセの本の西軍陣形図は A:島津義弘陣地、B:島津豊久陣地、C:低湿地、D:三成陣地 後備、E:三成陣地 前備、F:宇喜多秀家・小西行長陣地、G:脇坂安治陣地、H:大谷吉継陣地...

でもね~...小早川秀秋が占拠した松尾山城の北側には切岸があり 正面は南なんよね~。センセったら 平井ってどこですかと言われたけれど...オヨヨ。

平井の聖蓮寺は親鸞上人が立ち寄った程の古刹なんやけどなあ...おまけに江戸期は中山道と並行して共に九里半街道と呼ばれた物流の要衝。

是非調べてくださいネ...てなコトをセンセに言うてまったY。

 

セミナーの様子は岐阜新聞のWebニュースに載り、ジジイの後頭部もしっかり写ってましたがな。染めてますけど白髪が伸びてきてますな~。

 

そして本日のセミナーは 関ケ原歴史民俗資料館 前館長の草野センセによる『 関ヶ原合戦図屏風が伝える関ヶ原の戦い』…全3回の初回。

関ケ原町所蔵の関ヶ原合戦図屏風の細部を見ながら 古記に戦況を読みながらの講義にふむふむ。

同じ合戦図屏風でも 井伊家伝来の彦根本と 関ケ原本とは異なって描かれとる部分がある面白さ。

まあ江戸末期に描かれている屏風なんで 巷の軍記物ネタなんぞもちりばめられとるやろね。でも...なかなか興味深いですよ。

セミナーでは 記念館2Fに新しく設置された 六曲一隻の大きなLCDパネル屏風: 動く合戦図屏風の細部説明もあり...

本物の屏風図には描かれていない 家康が描かれていたり

伍の旗を差した使番(つかいばん)が戦況報告したり 命令を賜わったり...

3分間隔で繰り返されるストーリー性のある動きが面白い。

島左近だって、本多忠勝だって...その動きから目が離せんY。

三成が苛立つ姿も描かれており...シアターの動きに似せてあるのもエエね。

その他 各有名武将がちゃんと それぞれの動きをしとるとはね~...目から鱗。

まだ見てないお方! 必見ですぞ。

ジジイの生活のハリは この関ケ原古戦場記念館のおかげかな~...。

ところで 徳川家康最後陣地の脇に北国脇往還が通ってますけど...

仮に高橋センセ説の笹尾山を無視した 東山道集中封鎖型の陣形だったら 東軍はこの北国脇往還・北国街道を使って 西軍と戦わずしてスルリと大坂へ行けてまうんとちゃうK?