《赤穂城 大手隅櫓》
新年度に入って初の 関ケ原古戦場記念館サポーター研修会が行われた先週土曜は
小和田館長による『竹中重門と黒田長政の絆』の講演に...フムフム。
そして小雨降る日曜は 展望室で新年度初ガイドをしたジジイ。
いきなりシアトルから来られた米国人ペアから英語の説明を求められ...外人さん向けの話の組み立てに四苦八苦。
ちゃんとシナリオを作って練習せんといかんな~...と反省した次第。
まあ、新しい目標にしよっと。
さて、忘れんうちに 旅記録をつらつら。
先週の木曜に訪れた43年ぶりの赤穂城跡。
日本百名城です。
米蔵跡に建つ白壁土蔵風外観の赤穂市立歴史博物館でまず予習してから
三の丸外堀を渡り 清水門跡へトコトコ。
二之丸方面を見れば...櫓台の左右に クランクする石垣がクネクネ。
甲州流軍学の横矢掛けを駆使した縄張りと言われるだけありますね。
こんなに美しく復元されとる姿に....へ~っ。
右手の方は未だに石積み作業が続いてましたよ。
43年前には既に国史跡に指定されていたけれど...
当時は整備途上で...およそ観光からは程遠い印象でしたけど
発掘作業も済んだ奥野屋敷跡。
主君の仇討ちには参加せんと 浅野家再興を目指す実利派の家臣がおったんやねえ。
片や 仇討ちのリーダーは 大石内蔵助良雄(よしたか)。
大石邸の長屋門が昭和53年(1978年)に修理復元されとったんやね~。
昭和56年に来た時に見た記憶は全くないわ。
まあ、デートで来たんで 何を見とったのやら。
その向かいにはこの建物。
殺風景やと思い込んとっだのに...ちゃんとあるがや。
赤穂城跡のシンボルと言えば 大手門桝形と隅櫓やというイメージ。
昭和30年に大手の桝形も櫓も門も再建されたモン。
再建の約70年後でも 花崗岩の石は古色を帯びず。
でも右手の鏡石など点々と黒いのは昔の石なのかなあ。
桝形の中から 番所と大手隅櫓
門越しに見える青い屋根瓦の巴屋さんで
名物の鹽味饅頭(しおみまんじゅう)を食った かすかな胃の記憶。
三之丸外堀沿いを歩けば...百名城の威厳が感じられる~。
三之丸跡の赤穂大石神社へもトコトコ。
大正元年(1912年)に建立されたげな。まだ112年の齢かな。
ご祭神は言わずもがなで 四十七義士の石像がまるで兵馬俑のような趣やん。
参道左右合わせて47体は圧巻。
浅野長政の三男 長重は 関ケ原合戦の翌年に元服して下野真岡藩を立藩。
そして父 長政が隠居していた常陸真壁を相続して移り...その後は笠間藩主へと。1632年に長男の長直が家督を継ぐ。
1645年 赤穂藩主 池田輝興(輝政の6男)が正室 黒田長政の娘を殺害して赤穂池田家は改易...いわゆる正保赤穂事件が起きて
浅野長直が赤穂に移ってきた訳か~。
一方 長政の嫡子 幸長(よしなが)は関ケ原合戦後 紀州藩初代藩主となり、この系図には出とらんけど次弟 長晟(ながあきら)が家督を継いで、福島家が去った安芸広島藩へ移り...連綿。
濃尾平野がルーツの豊臣恩顧の 池田家・浅野家・福島家は 言わば 玉突きの玉やん。
大阪の陣で長重と共に大石良勝が活躍し大石家は赤穂浅野家の永代家老家へと。
その曾孫 赤穂浪士の大石良雄が神となる。
参拝後は 二之丸跡へ。
掘り直して2016年に復元された二之丸外堀やげな。
この石垣にも黒い点々。 往時のモノやろかね~。
庭園も復元されて...整備着々...奥の方は 今や国の名勝とな。
そして...ジャーン! 英語ではTa-dah!と今朝の英会話。
ハイライトは1996年に復元された本丸門。
デートで来た時には無かったモン。
石垣も ピッカピカ。
スッポリ赤穂高校の敷地として使われとった本丸は大変身。
いずれ こちらがシンボルの座を勝ち取る感じかな。
こういう復元、城下町なら どんどんやって欲しい。
本丸門桝形も美しい。
段差がきつかった登り石段の天守台...写真撮り忘れ。
築城時から天守閣が建てられたコトがない天守台に登ってカシャ。
本丸御殿跡は建物の位置が分かり易いように嵩上げされとるY。
本丸でも真水が取れるように往時から水道が巡っていたとはスゴイ!
それもサイフォンの原理で。
天守閣がない城の復元の典型例なのかも。
厩口門(うまやぐちもん)
現在地から右折して二之丸庭園もじっくり歩きたかったけれど...
連れ合いが 疲れだしたんで 左折。
振り返れば ゆるいカーブの石垣が映る内堀も美しい。
それにしても屈曲やカーブの石積みの鋭角の端に立つ隅櫓台...西洋式の五稜郭の前身のような石垣が 印象的。
黄砂舞う中でしたけど....城の復元の未来は明るい...かも。
そんなコトを思わせてくれた入場料ただの 赤穂城跡に☆三つ!