《島田宿 大井川越遺跡》

 

既に10日も経ったんで...記憶も霞みがち。

諏訪原城跡への寄り道から旧東海道に戻り地図上の緑線上をテクテク。

平成の道普請の名のもと ”町民一人一石運動”によって蘇ったらしい金谷坂の石畳。

杉木立の中の道を歩きながら往来を想う。

昔の旅人は草鞋に脚絆で...よう歩いたねえ~。

その中腹に すべらず地蔵尊の六角堂。

滑らない山石を敷いて石畳にしたんやと。

これに因んですべらず地蔵と呼ばれとるげな。

志望大学名が書いてある絵馬がプラプラ。

ちょうど昼飯時。

石畳茶屋を偵察してみたものの 

ジジイ二人組には似合わんお洒落メニューやったんで

お呼びでない...の パス。

金谷宿西口跡の大橋跡を過ぎれば...枝垂れ桜に歓迎され...金谷宿へスタスタ。

グーグルマップで検索しても飯屋さんがほとんど無~い。

一軒だけ開いていた大衆食堂に入り、上かつ丼や カツ煮定食に瓶ビール1本ずつつ頼んで..パクパク。

ジジイ達にはお似合いかもね。

ここに灰皿なんかがあれば...The 昭和やん!

...もう吸わんけど。

初夏のような日差しの下、大井川鉄道の新金谷駅へ寄り道したら

あら~...往年の近鉄特急車両が停車しとるやん。

近鉄桑名駅からよ~乗ったわ~と懐かしむジジイ。

ヤマ友は その向こうの国鉄時代の旧型客車に釘付け。

昭和30年代のふるさとを走っていたに違いない。

SLには会えなんだけど...しばし郷愁にひたれたY。

少し行けば 大井川右岸(川下に向かって右側)

今は金谷宿 川越し場の跡に 義人 仲田源蔵の石像(写真撮らず)があり

明治の初め 川越え制度が廃止に伴い失業した人足を救済したげな。

ムスカリ と オオキバナカタバミ?咲く 水神公園かな。

堤防に上がれば 富士の高嶺がポッコリ。

昭和3年(1928年)竣工のトラス橋

橋長 1026.4mを 約10分で歩き渡る。

前日昼までの大雨で泥色の流れ。

江戸期ならこの水量では川留めになったんかな~。

渡って左岸に着けば 昔の堤防道に入り 

まだ蕾の桜並木を通り抜ける。今はもう散り始めやろけど。

いよいよ 島田宿 大井川川越遺跡に至る。

来てみたかった場所へ ようやくの ジジイ達。 

江戸期には 皆が川札を買った川会所(かわかいしょ)で休憩。

現在の建物は安政3年(1856年)に建てられたモノですが、初代は元禄年間らしい。

オオシマザクラが満開。

川越 九拾四文と書いてあるのは

寛政期(1789-1801年)の川札1枚の値段らしい。

現代の価値に換算すると約2,820円。

担ぎ手1人の肩車なら 川札1枚。...つまり通行料金は 約2,820円とな。

水深76cm越えとなるとさすがに危なっかしいので 補助者1人をつけねばならぬで、その倍の 5,640円かあ。

1人乗りの平連台(写真右側)に乗れば 担ぎ手が4人で 川札は4枚+台札2枚=合計6枚... つまり 約16,920円となり....すんげ~高け~。

半高欄連台(写真左側)なら 合計川札は8枚で 約22,560円。

岐阜羽島ー東京の新幹線指定席 往復運賃相当や~ん。

なるほど。

でも川が浅くなり 股通(またどおし:股下までの水位)なら 単価が半額になる仕組み。

川越人足(かわごしにんそく)に対する べからず集も 結構面白い。

知らんコトにフムフムしながら...見学を終え...

街道に出てみれば...エエ雰囲気。

十番宿(人足たちの集合場所の一つ)

人足の数は 島田・金谷にそれぞれ350人(幕末時には650人)。

島田宿の番宿が10軒なので1軒あたり35人が集ったのかあ...と眺める。

こんな胴長短足 入れ墨もんもんのお兄いさん方ですね。

そして島田市博物館に入ろうとしたら...本館は改修工事中にて臨時休館。

オープンしとる分館に行けば...その一角の海野光弘版画記念館は展示入れ替え臨時休館のアララ。分館に展示されとる5枚の版画だけで我慢して建屋を見て回る。

こんなコト 旅先では ありがちやね~。

39歳で亡くなったとは...。

あとは広~い河川敷の緑地公園をテクテク...

東海道線の鉄橋を潜り...ひたすら歩く。

お~っ、養老公園開園の前年、明治12年(1879年)に架けられたとな...

そんな蓬莱橋へ 。

山の岩場では 三点支持で登って恐怖心がないのに~...

橋の欄干がひざ下の低さだし 強風が吹く中ではね...

ジジイの足がすくむわ。

ここに来たのは2回目のジジイは 全長900mの橋の中ほどでUターン。

初回のヤマ友は対岸まで行ってくるわっ...とスタスタ。

山では逆なのになあ...と思いながら 煎茶ソフトをペロペロして待つ。

勝海舟の銅像がその橋を見守る。

失業した旧幕臣たちに牧之原台地の茶畑開墾を命じて殖産していったんやねえ。

さらに失業した川越人足も同様に。

で、対岸との人流・物流の利便の為に 橋を架けたんか~。

後は小川沿いの住宅街の花々を愛でながら 島田駅まで歩きましたよ。

 

当日の朝7時から16時まで 休憩時間以外は約8時間ほど歩いて立ちっぱなし。

朝の掛川街歩き3km+旧東海道歩き18.5km+諏訪原城探訪1km=22.5kmでした。

中山道歩きとほぼ同じ距離にして好奇心ツンツンのこのルート、お奨めです。

☆三つ!

東海道歩き 完