《玉城 北西帯曲輪を断ち切る竪堀群》

 

『関ケ原の魅力を体感する新しいプレミアムツアーの事業化をめざして...』このようなイベントを企画されたのは関ケ原古戦場おもてなし連合。

関ケ原の各観光関連団体に多くの知り合いができたジジイとしては参加せんとね。

しかも講師が中井均センセとなれば、城郭考古学視点による面白い話が聴けそうで期待マンマンやん。

雨天決行イベントなんで、室内で聴講した後は...悪天候でも玉城跡のフィールドへ。

30人ほどの参加者は全員 しっかり雨対策の出で立ちで Go!

目指すは 標高307.6mの城山です。

岐阜県のみならず滋賀や京都からの参加者も多く

山城マニアとかオタクばかりなんで...ブーたれるモンは おらへんがや。

中井センセのスピードに遅れじと、皆さん...ザックザック スタスタ

大正3年(1914年)から終戦まであった名古屋陸軍兵器補給廠関ケ原分廠(玉の火薬庫)の境界内側の山道を上る。

主郭東側にある二段の切岸をゼイゼイ上がれば

主郭東端にあるのは あずまや。

漢字で書けば四阿または東屋やね。

亭(ちん)とも言うげなに~。

散策マップにある縄張り図の右上から登城。

雨は時折 強く吹き降り...北国脇往還沿いの玉集落がかすかに見えるだけ。

ここにワラビが芽を出すのは もう直ぐ先かな。

雨に打たれて馬酔木がうなだれる。

主郭南東縁には少し盛り上がりの痕跡はあるものの、

本格的な土塁とは言えん古いタイプの城でしょう...と センセ。

主郭のところどころに方形?の穴があるのは...

立地からすると太平洋戦争時の高射砲台の跡でしょう。

火薬庫エリアの内側ですからね。

この主郭も陸軍に改造されとる可能性もあるし....てな感じで、

前回単独で訪れた時の疑問がスッキリ。

堀切の手前にも ポッカリ。

堀切の底には石(写真右下)がゴロリ。

センセによると 造城時に尾根を掘ったら石が出てきたけれど 動かせんので そのままにしたと考えるのが妥当でしょう...と。

堀切は南北の竪堀と繋げたけれど 南から上がって来る敵を攻撃できるよう塹壕にすべく塁が作られとる...とな。

堀切と北の竪堀の間も同様に...

その上からセンセが解説される。

で、北西の見事な切岸の下には

傾斜した帯曲輪を 竪堀群が右上から左下へ走る。

事前に渡されたイヤフォンを通してセンセの現場解説が明瞭でフムフム。

竪堀を越えながら行けば...

右後方にある主郭最高部を守るような竪堀と土塁

盛り上がりを見れば どちらをより守りたいのかという意思まで見える。

この写真でいうならば 右やね~。

今度は西の堀切まで戻り 南側の帯曲輪方面へ。

石の繋がりが見えるけれど この形状からすると竪堀を掘った時に出たものやろね。

多少積んだかも知れんけど...やて。

竪堀を数条越えて行けば ちょいと広めの曲輪が現れ...

庭石のようにも見えるけど...

これも削平した時に地面から出たと考えるのがよろしいかと。

山麓に土豪の居館もないし... 山上の庭園なんかを造って客をもてなすような城じゃなし。 

ましてや関ケ原合戦で 秀頼を迎える為に整えたというSセンセ説に乗って制作されたVR番組のようなコトは考えにくい...とな。

土塁や虎口を構えない古いタイプの城に天下人を迎え入れるなんて...おそまつくん。

三成と家康に大義名分を与えてしまったような微妙な立場の秀頼が 両者の私闘のような様相となった戦に出て行くなんて...あり得へん!...と 断じるセンセ。

カッコエエ~!

てな具合に 城郭考古学センセ同士の自説対決の勝敗は現場検証で自ずと判る。

 

そもそも2002年に刊行された『岐阜県中世城館跡総合調査報告書』第1集には縄張り図を含めて報告されとるし 

江戸時代の地誌にも記された城を 

SセンセとNHKが「新発見」と報道をするのは いかがなモンやろかね~。

新説がこれからも出るかも知れんけど とりあえず3年越しの疑問はスッキリ。

 

中井センセの結論としては 美濃側が築いた 江濃の境目の城の可能性が高い...やとさ。

 

3年前のブログはこちら。

 

以上 記録より記憶に残る山城探訪でした。

確かにエエ思い出になったY。